4  大竹海軍潜水学校



◯ 概  説


昭和20年2月21日、旅順の海軍予備学生教育部の教程を終えた私たちは部長以下教官の見送る中、教育部と別れ雪降る道を旅順駅に向かう。入隊の時と逆のコースをたどるのだが、今度は貨車でなく客車である。列車、関釜連絡船、山陽本線と乗り継いで、大竹駅下車、大竹潜水学校に到着したのは、2月26日午前1時頃であった。

大竹の潜水学校は、私が19年9月に最初に入団した大竹海兵団と同じところにあり、宿舎も海兵団の兵舎を借用していたようである。旅順でのハンモックと違ってベッドで一夜を明かすと本当に内地に帰って来たとの実感が湧いてくる。

内地に戻った私たちは、この大竹海軍潜水学校および山口県の柳井分校で潜水艦および特殊潜航艇の基礎を学び、6月には倉橋島に移り特殊潜航艇の建造現場でその機構を学び、7月には小豆島の基地に移って本物の潜航艇で訓練を受け、四国南岸の小勝島の前進基地に出撃することになるのであるが、私たちが辿った足跡を地図で示してみた。


蚊龍艇長講習員の足跡

蚊龍艇長講習員の足跡




旅順から到着した我々は総員175名、28日には武山海兵団から予備学生165名が到着、合計340名がここで潜水艦に関する教育を受けることとなった。

3月1日には入校式が挙行された。学校長の訓示は「諸君は、今回特に選ばれて甲標的及びSS艇長として日本海軍の戦力を左右すべき重責を負うものである・・・如何なる困苦欠乏にも耐え、本分に邁進せよ」という趣旨のものであった。

甲標的というのは真珠湾攻撃に参加した特殊潜航艇(後に蛟竜と呼ばれる)で五人乗り、SS艇とは後の「海竜」で二人乗りの特攻兵器である。この時点では甲標的やSS艇がどんなものであるか、またどちらの艇に乗るのかも知らされていなかった。

また上野教官からは現在の戦局の真相、日本海軍の現状等を聞かされ、我等が立たなければの思いを強くした。

同じ日に分隊の編成も行われた。私は一分隊一区隊一班の十番となった。一班の人数は13〜15名、その班が24班編成された。私と同じ班にいた河部煕氏が当時の写真を発掘し、アルバムとして配られたものが残っていたので、当時の111及び112班の写真を掲載してみる。この編成は柳井分校でも同じで、分校の訓練が終り、蛟竜組と海竜組に別れ新しい任地に出発するまで続いた。


大竹潜水学校 第1分隊第1区隊

大竹潜水学校 第1分隊第1区隊 (昭和20)
最前列右端が筆者




いよいよ潜水艦の見学、地文航法、天文航法、海洋学、手旗、通信など実際に艇を動かすために必要な訓練が始まった。思い出に残るものをいくつか取り上げてみたいと思う。


◯ 潜水艦の見学


潜水学校到着の翌日、2月27日には早くもイ154潜水艦の見学があった。始めて乗る潜水艦、長さは約100メートル、館内は7区画になっていて、その区画は分厚い大金庫の扉のようなもので区切られている。またいで通れるが館内は予想外に広く感じられた。ビッシリと並んだ計器類、魚雷の発射装置など、実物を前にしてこうしたものを使いこなすのかと思うと身の引き締まる思いがしたのを思い出す。


◯ 星座の勉強


海に出て周りに陸地が見えなくなると自分の船の位置を知るには太陽、月、星だけが頼りである。そのため天文航法の講義があり、星座のことも教わる。夜の自習時には後庭に出て実際の星座を眺めながら説明を聞く。北斗七星や北極星くらいは知っていたが、この講義のおかげで沢山の星座の名前や星座の大体の位置、その中の一等星の名前などを覚えることが出来た。

今でも冬の星空に輝くオリオン座のベテルギウス、リーゲル、大犬座のシリウス、おうし座のアルデバラン、春の空では牛飼座のアークトウルス、乙女座のスピカ、獅子座のデネボラ、夏はさそり座のアンターレス、白鳥座のデネブ、こと座のベガ、秋はカシオベアのW、ベガススの四角等々・・・四季折々に星空を眺めては海軍時代を懐かしく思いだしている。


◯ 敵機来襲、味方機炎上


3月18日には大竹にも敵機が来襲、午前午後の2回退避を行なったが、翌19日には又も敵機来襲、しかも味方の一機が学生舎の後ろの庭に墜落、火を吹いて炎上するのを目撃した。毎日の新聞は読むことが出来、3月10日の東京の大空襲その他、日本各地の都市が次々の焦土と化して行くのは知っていたが、直接自分が空襲を受けたのは始めての体験であり、戦争が本当に身近に迫っていることを肌で感じた。


◯ 外出、佐久間艇長の遺品を見る


3月25日、外出を許され、岩国に通ずる山道より麻里布に出て、装港国民学校で佐久間艇長の遺品や「最後の遺言」を見て感激したのを思い出す。佐久間艇長こそ私たち潜水艦乗りの大先輩なのである。

明治43年4月15日、第六号潜水艇は山口県新湊沖において半潜航実験の後、全潜航に入り海底沈座などの潜航訓練を開始した。しかし間もなく海水が浸入し必死の排水作業にも係わらず、再び自力で浮上することはなかった。 14名の乗組員は全員それぞれの部署を離れず艇の修復に全力を尽くし、従容として見事な最期を遂げており、佐久間艇長は、天皇陛下の艇を沈め部下を死なせる罪を謝し、乗組員全員が職分を守った事を述べ、沈没の原因・沈据後の状況を説明した後、「 部下の遺族をして窮するもの無からしめ給わんこと」との遺書を記している。

戦後、艇長の出身地である福井県三方町で開催された「佐久間艇長遺徳顕彰祭」に参加したり、呉市や岩国市にある記念碑なども訪ねているので稿を改め佐久間艇長の事蹟を偲ぶこととする。

「佐久間艇長を偲ぶ」 参照。


◯ 戦後、大竹を訪ねる


昭和53年11月、大竹の地を訪ねてみた。
大竹駅は残っていたが、もちろん建物は当時のものではないだろう。昭和19年9月、海軍予備生徒として大竹海兵団に入団するため、娑婆とお別れしたのもこの駅、旅順に向かったのも、帰ってきて大竹潜水学校に向かったのもこの駅である。


大竹駅  広島県大竹市 (昭和53.11)

大竹駅  広島県大竹市 (昭和53.11)


大竹潜水学校跡  三菱レイヨン大竹工場 大竹市 (昭和53.11)

大竹潜水学校跡  三菱レイヨン大竹工場 大竹市 (昭和53.11)
大竹海兵団、大竹潜水学校があったと思われるあたりは、三菱レイヨン大竹工場となっていて、往時の面影を偲ぶのは困難であった。


大竹潜水学校跡  海岸 大竹市 (昭和53.11)

大竹潜水学校跡  海岸 大竹市 (昭和53.11)
海岸に出てみると見覚えのある宮島の姿が見られたのが救いであった。







はじめに
1  海軍志願から入隊まで
2  大竹海兵団から旅順へ
3  旅順海軍予備学生教育部
4  大竹海軍潜水学校
5  大竹潜水学校 柳井分校
6  倉橋島基地(大浦突撃隊)
7  小豆島基地(小豆島突撃隊)
8  戦後の小豆島・蛟竜艇長第17期会
9  戦友会 − 旅魂会
10  蛟竜艇長第17期会刊行の著作
11  靖国神社・遊就館
12  旧海軍兵学校
13  海軍思い出の地・行事
あとがき
■ 資料 ■
資料1  旅順海軍予備学生時代、 私の「学生(生徒)作業簿」
資料2  「旅魂」編纂に関するアンケート回答
資料3  宇都大尉  餞の言葉  士官の心得
資料4  海軍時代によく歌った歌
資料5  佐久間艇長を偲ぶ
資料6  出陣賦(辞世の和歌集)
資料7  「嗚呼特殊潜航艇」碑  その建立と除幕式の模様
資料8  蛟竜艇長第17期会総員集合  参加記録
資料9  佐野大和著「特殊潜航艇」  抜粋
資料10  旅魂会  参加記録
資料11  鉾立(恒見)教官  訓話
資料12  田中穂積を偲ぶ
資料13  旅魂会  最終回資料
資料14  孫たちに伝え残したいこと
資料15  ハワイ 真珠湾めぐり
資料16  基地の地図

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−