5  大竹潜水学校 柳井分校



◯ 概  説 


昭和20年3月31日、大竹での一ヶ月の訓練を終えた我々は、宇和島丸に乗船、海岸沿いに南下、大畠瀬戸を経、室津半島を迂回して山口県平生の潜水学校柳井分校に到着、ここで二ヶ月にわたり、第三学生隊員として訓練を受けた。

柳井分校に移ってから、我々の乗る兵器とは蛟竜(甲標的)または海竜(SS艇)であることがはっきりした。ここでも座学が主であったが、その中心は潜航艇の構造、電機、油圧、魚雷、通信、航法等、午前、午後、夜も十一時まで勉学に励んだ。もちろん実地訓練もある。

そして卒業を前にしたある日、全員に「出陣賦」いわゆる辞世の句を詠むように言い渡された。いよいよ来るべき時が近づいて来たのだ。大半の者はこれまでに歌など詠んだこともなかったと思うのだが、それぞれの思いをこめて一首をしたため提出した。

大竹、柳井と一緒に訓練を受けてきた同期の仲間も、海竜組と蛟竜組に分けられ、6月1日、海竜組は横須賀へ、蛟竜組は倉橋島の大浦突撃隊へと巣立って行った。私は蛟竜組であった。

柳井分校の思い出を断片的に拾い上げてみよう。


大竹潜水学校柳井分校略図 (阿多田基地略図)

大竹潜水学校柳井分校略図 (阿多田基地略図)
平生町民俗資料館 (平成5.9)


潜水学校柳井分校の朝礼風景 (昭和20年頃)

潜水学校柳井分校の朝礼風景 (昭和20年頃)
平生町民俗資料館展示




◯ 上原保郎君のこと


平成5年9月、我々蛟龍17期艇長仲間で「貴様と俺の青春賦」なる書物を作成した。その中に上原保郎君が「柳井分校での生活と上陸の思い出」なる一文を寄せている。当時の様子を実に見事に書いているのでそのまま引用させていただく。

殊に後半の上陸の思い出の中に同期生三名の一名は私であり、あの時の光景は今でも忘れられない。また夜光虫のキラキラ光る幻想的な風景もつい昨日のように思い出される。
上原君は戦後、桜井力君たちとともに我々同期の戦友会の発足に尽力され、毎年の小豆島集合の世話役をつとめ、宮山の忠魂碑の前で軍歌の指揮をとっていたのだが惜しくも先に逝ってしまった。


「柳井分杖での生活と上陸の思い出」        上 原 保 郎


柳井分校に着任してから第三学生隊として訓練開始、司令は大谷大佐、教官は山本少佐、上野大尉、副島中尉、佐藤中尉で、柳井では本当に良い教官に恵まれたと思う。何時とはなく、山本少佐に「ナマズ」、上野大尉に「ポンチャン」の愛称がついた。柳井にも潜水艦一隻が繋留されて居り、訓練に使用されていた。分校港内は狭く内火艇を潜水艦に衝突させそうになって怒られたこともあった。

二等駆逐艦阿多田に乗艦、練習航海に出る。交代で位置測定、見張等の訓練を行なう。阿多田は老朽の石炭使用艦のため媒煙が多かった。松山沖に仮泊し、訓練を繰り返しつつ帰投す。ロ号潜水艦に乗艦、初めての潜杭、交代で潜望鏡につく、露頂深度で静かな海面と漁船が見えた。潜航中の潜内は静かで居心地は艮かった。

柳井では、蚊竜の構造、運動性能、電機、機関、油圧、魚雷、通信、それに航法と夜を日についでの猛勉強であった。午前は座学、午後は実地訓練で、巡検後も自習に努め、難解な電路図に取り組んでいるうちに居眠りしてしまうことも屡々であった。「電路図を辿る彼方や夢の中」の川柳もあった。階段教室で食う夜食のおじやは美味であった。あの頃が一番よく勉強したような気がする。朝、総員起しでもなかなか起きない者が居り、お互い叩き起し合ったものである。チャーターした漁船に特眼鏡を取付け、中にもぐって航法襲撃訓練を繰り返した。

爆雷投下を見学、全速で走る小艇から爆雷を投下する。吹き上る水柱の凄さに見とれていたが、水面の静まる頃たくさん漁船が集まって来て、網で水面に浮んだ鯛、鱸等を掬いとって大漁に喜んでいた。

週に一〜二回甘味料として饅頭が出た。甘いのと塩味が交代で結構楽しみであった。軍事参議官長谷川大将が視察に見えた。佐藤教官から六号艇佐久間艇長の最期について講話があった、切々として熱っぽく涙を流しながら佐久間艇長の姿を我々に語りかけた様が今も目に浮ぶ。若き佐藤教官の純粋さに心を打たれたことであった。

各班交代でカッターの夜間航走に出た。提出した航海計画に基づき航路をとり、途中島の漁港に上陸し食事、カッターに仮泊し翌朝帰隊した。夜の海を漕ぐ擢が水を切るたびに夜光虫がキラキラと光り、戦時とは思えない幻想的な静けさであった。柳井での食事のメインディシュはシーズンでもあったが「イカナゴ」が多く食傷した。油くさいゲップに悩まされた。

潜水学校卒業を前にして皆出陣賦を書き、また殆んどの者がそうであったと思うが、特攻要員への血書志願を提出した。荒天の夜、隣接する回天基地で沈没した回天を捜索する掃海艇のホイッスルの音が耳につき疲れているのに眠れなかったことが何回かあった。

柳井での生活は、良き教官による温かい雰囲気の中で厳しくもまた楽しい生活であった。とくに思い出深いのは上陸したときのことである。

昭和二十年春さかりの日曜日、潜校柳井分校第三学生隊は久しぶりの上陸許可で、同期生三名と弁当持参でハイキングに出たことがある。分校所在地の平生町水場地区を出て、半島を南へ海岸線に沿って歩いた。暖かい春風がそよそよと吹き、浪は穏やかでとても戦時下とは思えない駘蕩とした風情であった。

約三キロメートル程歩いて佐賀村という集落にさしかかり、腹も減ったことであり何処かの家でお茶をもらって昼食にしようということになり、蜜柑畑の丘陵の上にある一軒家を目指した。たしか渋谷さんというお宅で、案内を乞うと年配の御婦人が出てこられた。突然の非礼をお詫びし食事場所の拝借をお願いした処、快く招じ入れていただき部屋に通された。

御家族は当日柳井にお出かけの御主人と先程の奥様、出征中の息子さんのお嫁さん、それにうら若い娘さんの四人家族で神戸から疎開されている由であった。久しぶりの畳にくつろいで弁当を広げようとするとその家の奥様が「そんな弁当はやめなさい、鶏の餌にでもしましょう。何もないけれど今支度していますからどうか召し上って下さい」と弁当を取り上げてしまわれた。私達は固辞したが聞き入れず、娘さんと若奥さんも加え三人がかりで当時としては非常な御馳走をテーブルに並べ歓待をして下さった。私達は戸惑いつつも折角の御好意を謝し美味しくいただいた。今考えて見れば物資不自由な戦時下、決して満足すべき食糧事情ではなかったであろうにと心の痛む思いである。

食事の後、奥様が「貴方がたの訓練の様は毎日家の庭から拝見し手を合せています。若い前途ある貴方がたがお国のためと言いながら本当に御苦労のことに思っています・・」と言われた。私達は奥様が光基地の回天の訓練を見て言って居られると分ったが、軍機上からもまた近い将来自分達も同じような道を歩むことであり黙って返事をしなかった。

厚く御礼を述べ辞去するに際し、奥様が、「せめて、お名前だけでも之に書いて下さい」と色紙を持って来られた。私達は三名連名で官姓名を書きお別れした。

蜜柑畑の間を下り海沿いの道に出る迄、その家の若い娘さんが手を振って送ってくれた情景がほのぼのと浮かんで来る。

帰校後、お礼の手紙とお返しする物もないので石験を集めお送りしたことを覚えている。その後緊迫した情勢の中で訓練、座学に追われ無我夢中の日々を送り、やがて大浦へ、そして小豆島へと移動し、佐賀村でのことは脳裏から薄れていった。

戦後四十七年、住む人も替り消息を掴む術もないが、あの方々は今どうして居られることだろうか。


◯ 河部煕君のこと


河部煕君は武山海兵団で基礎教育を受けた後、大竹潜水学校に来て、柳井分校まで同じく111班で起居を共にした仲間である。彼は海竜、私は蛟竜と最後は倉橋島、横須賀と別れたが、当時から大変優秀な方と尊敬していた。

戦後も海竜組戦友会のリーダーとして、靖国神社の遊就館に「海竜」の模型を寄贈する等幅広い活躍をしているほか、彼自身のホームベージを作成して、海竜を中心とした記録やパソコン教室のことなどを紹介している。潜水学校のことについても詳細に記述しているので是非参照願いたい。


http://www.geocities.jp/kawabeh1924/kaigun/13sensui.htm


その河部煕君が昭和60年に、柳井時代の写真と名簿を並べたアルバムを私達蛟竜組の者にも配付してくれた。そのうちの私たちの班の写真は「大竹潜水学校」の項に掲げた。
アルバムの添えられた手紙を抜粋してみる。

「     このアルバムのできるまで
我々は昭和十九年八月〜十月、武山海兵団あるいは旅順方面特別根拠地隊に、海軍兵科第五期予備学生、あるいは第二期予備生徒として入隊し、昭和二十年三月一日より柳井潜水学校さらに平生分校で特殊潜航艇の基礎教育を受け、昭和二十年五月一日、大浦(蛟竜)と横須賀(海竜)とに分れた。
当時を偲ぶものとしては、平生分校を出る直前に作成した「出陣賦」(辞世の句集)が唯一のものであり、名簿としては浴恩出版会が昭和四十五年に出版した「第五期予備学生、第二期予備生徒名簿」から特殊潜航艇関係を抜き出すしかなかった。(中略)
戦後四○年経った昭和六○年、第五期予備学生「大川信男」氏の紹介で、第四期予備学生として当時横須賀で我々の教官をしていた「吉川毅」氏と会い、彼が持っていた我々の柳井時代の写真と名簿を並べたアルバムを頂いた。これは蛟竜組、海竜組合わせての最も確かな在籍証明である。これらの資料を突き合わせることによって、特殊潜航艇に乗って祖国日本のために戦おうとした若者の顔の名前が分った。この貴重なアルバムを一人でも多くの仲間に配りたいと思う。知っている誰彼の住所を知らせた頂きたい。(後略)

昭和六十年七月     河部 煕  」


◯ 「出陣賦」のことども


河部君の書信の中でも触れているように、ここでの訓練を終えて私達は特殊潜航艇蛟竜と同海竜に分かれ、それぞれの任地に赴くこととなったが、その直前、教官より私たち340名に「出陣賦」を書き遺すよう指示があった。言わば辞世の句を作っておけということである。

今まで和歌や俳句などに殆ど縁のない20歳前後の若者ばかり、歌の素養があったとは思われぬ連中ばかりであったが、五七五七七と指をおりながらなんとかまとめたことを思い出す。全員の分をまとめ「出陣賦」と題してガリ版で刷ったものを全員に配布されてのであるがすっかり忘れていた。

ところが平成17年10月、二水会なる戦友会に高田恒行君が60年前に作成配布された「出陣賦」を持参紹介したところ、「これは貴重なものだ、なんとかもう少し読みやすい形に復刻して二水会の人はもちろん、旅魂会その他の人たちにも読んでもらおうではないか」ということになった。高田君と私がたたき台を作成、旅魂会の幹事の大川信男君に解読、名簿作成などに絶大の協力をいただき、前述の河部君より頂戴した写真、名簿も添えて、新しい「出陣賦」の復刻版を作成、希望者に有料配布した。

ここでは約340名の詩や和歌のみを資料「出陣賦」として掲載のこととし、氏名はイニシアルのみとした。私のものは次のとおりである。

黒潮の海の底より龍となり 皇国(すめくに)護る機(とき)近づけり 

この本の「編集後記」に私も次の一文を書かせていただいたので紹介する。

「パソコン入力、校正等を通じて何回となく読み返してみたが、当時を思いおこし感慨無量なるものがあった。学業をなげうって海軍に入り、さらに特攻を志願して潜水学校へ来た者ばかり。二十歳になるかならない年頃でよくこのような歌を作ったものと感激を新たにした。与えられた時代の中で従容として運命を受け入れ、愛する父母兄弟のため、愛する国のために死をも覚悟した心情が切々と伝わってきて目頭が熱くなった。

出撃の前に終戦となったので、その大半は遺詠にならないで済んだが、中には訓練中敵機の銃撃などによって戦死されたため、文字通り遺詠となったものもある。残念ながら戦いには敗れてしまったが、このように愛する者や愛する国のためには命も惜しまない心意気が、全国民の間に漲っており、このことがアジアから植民地をなくし、今日の日本の繁栄をもたらしたものと信じている。

六十一年前、当時私たち二十歳そこそこの若者たちが、「死」と向き合いながら作った歌の数々が、次の世代の人々の人生観、国家観の形成にすこしでも役立てばこの上ない幸いである。」


高田恒行氏所持の「出陣賦」表紙

高田恒行氏所持の「出陣賦」表紙


その内容の一部

その内容の一部


「出陣賦」復刻版

「出陣賦」復刻版




◯ 柳井分校跡訪問 (1)


昭和53年11月、柳井分校跡を訪ねてみた。柳井駅からタクシーに乗り、往時の話をして目的の場所に連れて行ってもらったが、着いたところは極東マックグレゴリー鰍フ平生工場、受付の人に聞いたが「回天の碑」があるという。回天の基地もあったようだが、どうも我々が学んだ所とは違うようだ。

工場のすぐそばには兵舎らしきものが見えたのでカメラに収めたが、ここは立入禁止となっていて入ることは出来ないとのこと。ここに違いないという感触は得たものの立入禁止の壁にはばまれてしまった。

柳井分校跡

柳井分校跡
極東マックグレゴリー(株)平生工場  山口県平生町 (昭和53.11)


回天の碑

回天の碑
同工場内 山口県平生町 (昭和53.11)


柳井分校跡

柳井分校跡
工場に隣接して学校らしきものが見えたが
立入り禁止のため確認出来ず (昭和53.11)




◯ 柳井分校跡訪問 (2)


それから15年を経て、平成5年9月、第17期蛟竜艇長会の行事で再びここを訪ねることが出来た。今回は平生町にも連絡してあったので、町の関係の方も多数出席され、平生町の歴史民俗資料館で説明を聞き、また沢山の展示品を見たり、資料を頂くことが出来た。

前回立入禁止となっていた所も訪ねることが出来た。正しく私たちが学んだ校舎である。法務省所管の国有地となっていたため立入禁止になっていたそうであるが、今回は特別のはからいで構内の見学が許された。それにしてもその荒れ方のひどいのには驚いた。50年の時の流れのすさまじさと目の前に見せつけられ、参加した一同声もなく立ちつくした。
建物は無残に荒れはてていたが、周りには夏草は青々と生い茂っており、「国破れて山河あり、城春にして草木深し」の感を深くした。


戦後50年を経た柳井潜水学校分校  山口県平生町 (平成5.9)

戦後50年を経た柳井潜水学校分校  山口県平生町 (平成5.9)


同 上

同 上


平生民俗資料館で平生町の関係者から説明を聞く (平成5.9)

平生民俗資料館で平生町の関係者から説明を聞く (平成5.9)


柳井分校跡にて

柳井分校跡にて




◯ 柳井分校跡(阿多田交流館)訪問 (3)


さらにそれからまた14年、この地に阿多田交流館という資料館が出来たと聞いて、平成19年10月三たびこの地を訪ねてみた。往時の面影は全く見られない。アメリカ原産といわれる雑草、せいたかあわだちそうの黄色い花が一面に咲く野原の中に小さな建物が建っている。終戦の後ニュージーランド軍が駐留したり、少年刑務所「新光苑」が使用したりして、平成14年、町に払い下げとなり、平成16年にこの交流館が完成したとのことである。
建物の前には「回天」の実物大模型が展示されている。映画「出口のない海」の撮影に使用されたとのことである。館の内部には蛟竜や回天の模型、戦時中の資料や写真等が陳列されている。

交流館から少し離れた海岸には立派な「回天の碑」が建てられていた。元回天隊の方々の「訓練した海が見える場所に慰霊碑を建立したい」という強い希望から国有地払い下げを機に実現したという。交流館と同じく平成16年に建てられたもので、次の文言が刻まれている。

「回天碑  神啾鬼哭 回天の壮挙 若き生命 南海に挺し 莞爾として皇国に殉ず 悵恨戦い時に利非ず 山河むなしく桑滄の変 さわれ至誠盡忠の赤心 日本民族の血脈に漲り 昭々無極の後世に輝く 碑を発祥の地に建立し 粛然 久遠の霊を祀る」


阿多田交流館  山口県平生町 (平成19.10)

阿多田交流館  山口県平生町 (平成19.10)


「回天」実物大模型  交流館前 (平19.10)

「回天」実物大模型  交流館前 (平19.10)


回天碑  阿多田交流館  山口県平生町 (平成19.10)

回天碑  阿多田交流館  山口県平生町 (平成19.10)







はじめに
1  海軍志願から入隊まで
2  大竹海兵団から旅順へ
3  旅順海軍予備学生教育部
4  大竹海軍潜水学校
5  大竹潜水学校 柳井分校
6  倉橋島基地(大浦突撃隊)
7  小豆島基地(小豆島突撃隊)
8  戦後の小豆島・蛟竜艇長第17期会
9  戦友会 − 旅魂会
10  蛟竜艇長第17期会刊行の著作
11  靖国神社・遊就館
12  旧海軍兵学校
13  海軍思い出の地・行事
あとがき
■ 資料 ■
資料1  旅順海軍予備学生時代、 私の「学生(生徒)作業簿」
資料2  「旅魂」編纂に関するアンケート回答
資料3  宇都大尉  餞の言葉  士官の心得
資料4  海軍時代によく歌った歌
資料5  佐久間艇長を偲ぶ
資料6  出陣賦(辞世の和歌集)
資料7  「嗚呼特殊潜航艇」碑  その建立と除幕式の模様
資料8  蛟竜艇長第17期会総員集合  参加記録
資料9  佐野大和著「特殊潜航艇」  抜粋
資料10  旅魂会  参加記録
資料11  鉾立(恒見)教官  訓話
資料12  田中穂積を偲ぶ
資料13  旅魂会  最終回資料
資料14  孫たちに伝え残したいこと
資料15  ハワイ 真珠湾めぐり
資料16  基地の地図

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−

特殊潜航艇「蛟竜」−高橋春雄・海軍の自分史−