私の履歴書1        ふるさと・父母・祖父母

私の「ふるさと」は新潟県小出町(現魚沼市)青島である。父母も祖父母もその先祖も代々この地に住んできたようである。日本有数の豪雪地帯で、小さい頃はなんでこんな雪の多い所に先祖の方は移り住んだのだろうと恨めしく思ったこともある。しかし、雪が消えれば山紫水明、梅桃桜も一時に花開き、越後三山を望み、清流魚野川が流れる桃源郷である。

私が小学校にあがる頃から卒業するまで過ごしたのはこの「ふるさと」であるが、生まれたのは大正14年2月21日、場所は舞鶴の海軍病院だそうだ。父が海軍軍人だったため、日本各地を廻っており、兄弟が5人いるが生まれたのは、舞鶴、横須賀、新潟市、小出町とそれぞれ異なる。

父は軍縮の影響で海軍を退役し、昭和5、6年の頃郷里の小出町に戻り馴れない農業を始めた。父は「高橋家」の次男として生まれたため、若い頃に上京し苦学の末、海軍軍人となり、恩給がつくくらい長い間海軍での生活を送ってきたので、農作業はきつかったことと思う。母は「桜井家」の長女として生まれた。母の父(私の祖父)彦七は小出町の役場に勤務しており、父の兄、又四郎は小出町の銀行に勤務しており、仕事や謡曲などの趣味を通して親しくしており、その縁で結婚話が持ち上がったようである。

父は私が15歳の時交通事故で亡くなり、母は満90歳の前日に亡くなった。父や母のことについては、後日昭和63年に母が米寿を迎えた時記念誌の作成を提案、「高橋シゲノ 米寿」なる書物を作成した。その中に母が「私の略歴」なる一文を書いており、私も「父母・田舎の想い出」を書いているので参照願いたい。

父方の祖父は早く亡くなったので記憶に残っていないが、又四郎叔父、彦七おじいさんには何かと可愛がっていただいた。彦七おじいさんは長生きされ、自分が毛筆で書いた漢詩や歌などが私の手許にも大分残っており、いただいた手紙も整理してみるとかなりの数になったので、平成元年と平成11年にこれを「桜井彦七 遺墨集」「続・桜井彦七「遺墨集」としてまとめ、親戚の方に差し上げた。

私の生まれた舞鶴の記憶は全然ないが、母の話によると天橋立に行き、文殊さまや成相山をお詣りし灯ろう流しも見て楽しかったが、帰りの舟の中で雨風が強くなり、母は舟に酔って私を父親に預け、ゴロゴロ鳴る雷に生きた心地はなかったそうである。

昭和53年、舞鶴を訪ねることが出来た。海軍病院は今は国立舞鶴病院として残っており、港も自衛隊基地として軍港の面影を残していた。


何時の頃また何故にわが祖先 この地に移り来れるやらん

雪深き山里なれどはふるさとは 山も青々水も清々

私は舞鶴生まれ弟は 横須賀あとは新潟と小出

政春父 高橋半三郎
政春父 高橋半三郎

政春母 高橋 ヨシ
政春母 高橋 ヨシ

シゲノ父 桜井 彦七
シゲノ父 桜井 彦七

シゲノ母 桜井 トク
シゲノ母 桜井 トク

父  高橋 政春
父  高橋 政春

母  高橋シゲノ
母  高橋シゲノ

生後百日記念 (大正14)
生後百日記念 (大正14)

母と私 (誕生日の記念か)
母と私 (誕生日の記念か)

国立舞鶴病院(旧海軍病院) (昭和53.7)
国立舞鶴病院(旧海軍病院) (昭和53.7)

我が故郷魚沼市 雪の越後三山と魚野川 (昭和53.4)
我が故郷魚沼市 雪の越後三山と魚野川 (昭和53.4)



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「日々是好日」 −高橋春雄・私の履歴書−