資料   青葉宝生会40周年記念誌 「あおば」より (平成14.10)

     青葉宝生会後半二十年のあゆみ

                            高 橋 春 雄
                            柳 川 英 夫


 昭和37年に発足した青葉宝生会は本年40周年を迎えた。その間、昭和57年には20周年記念帳を作成、その中で発起人の村本脩三氏が20年間のあゆみを要領よくまとめられているので、恰好の資料と思い本誌の資料篇にも収録させていただいた。


 その後早くもまた20年を経過したが、村本さんは残念ながら平成11年に逝去されてしまった。その後の20年についても村本さんに書いてほしかったが、それも詮ないこと。やむを得ず世話役をさせていただいた私たち二人がこの20年間を振り返ってみることとした。


 20周年記念の昭和57年(第78回)の頃から、昭和の終り昭和64年頃までは、会場はKDD新宿会館、素謡4番に独吟・仕舞4〜5番、会費は2千円で懇親会といったスタイルで続いてきた。この間第100回(昭和62年)の時には、田辺梅太郎氏から漢詩が、また河東義方氏から青葉宝生会の謡原案(ともに写真編参照)が寄せられ、河東氏の謡原案は村本氏が節をつけ、「青葉宝生会の謡」として、それ以降今日に至るまで例会の冒頭に謡いつがれている。


 昭和63年5月には高橋がKDDの子会社KCS退任を機に、世話役を柳川にバトンタッチした。ちょうどその頃から競争原理の導入によりKDDの独占体制も揺らぎはじめ、会場のKDD新宿会館の経営形態も変更され名もストラーダ新宿と改称された。食事等の料金も改訂されたので、会費も従来の2千円から4千円に値上げせざるを得なくなってしまった。それでも平成9年末まではこの状態で推移できたが、平成9年10月になると更に厳しい施策の変更があり、ストラーダの舞台および高砂の間の使用料が利用者負担となってしまった。やむを得ず会費を7千円に値上げするとともに、従来の年4回の開催を年3回に変更することとなった。


 会の運営がだんだん苦しくなってきた時に、この会の生みの親村本さんが平成11年11月に逝去された。それまでにもこの会を支えてきた秋元亮一、阿部理一、倉沢岩雄、河東義方、田近老雄、滝波健吉、田中正人、田辺梅太郎、細野春雄、山田忠次、吉川武男など有力な方々が亡くなる一方、若い方の入会が続かず苦慮している時だけに村本さんの逝去は痛手であった。


 平成12年10月1日、KDDはDDIと合併してKDDIとなるに及んで厚生施設への施策は一段と厳しくなった。1年後の平成13年10月1日には長年会場として親しんできたホテルストラーダ(旧KDD新宿会館)も人手に渡ることとなり、使用できない最悪の状態となってしまった。平成13年9月8日の第149回例会がここでの最後の例会となってしまった。


 新しい事態に対処すべく、会員の皆さまにもお願いして適当な会場を探していただいたが、なかなか候補がみつからずに時間が経過してしまったが、平成14年8月、かってこの青葉宝生会でも使ったことのある千駄ヶ谷の鳩森神社で懇親会なし、会費2千円で第150回例会を開催することが出来た。この席でこの年がたまたま本会の40周年に当ることから記念行事の一環として記念誌を作成することが提案され了承された。そして次回の会合を40周年記念大会とし、記念誌配布のほか、会員の皆さまから本会の今後のあり方について忌憚のないご意見を伺うこととしている。


 一口に40年といっても長い年月である。その長い年月、第1回の会合から現在まで本会の現役でおられる方が二人おられる。林茂さんと大嶺経三さんである。お二人にこの記念誌のため序文を書いていただこうとお願いした。大嶺さんは残念ながら体調を崩し現在は車椅子での生活で書くのは無理だが皆さんによろしくとのことである。林さんからは序文を頂戴して本誌に花を添えていただいた。


 40年の歴史のうち後半20年間の毎年の参加記録を作成してみた。その年の番組に名前の載っている方を○印で記載したもので、全部の会合を網羅したものではないが、おおよその傾向は掴めると思う。これによると19年が飯塚良平、岡田初穂、高橋春雄の3名、18年が大嶺経三、児玉栄太郎の2名、17年が長島経治、長津寛、村本脩三の3名、16年が大宮謙三の1名、15年が太田延男、小川恵美子、屋敷田甚作の3名となっており、これらの方々が中心になって会の発展に大いに貢献していただいたのだと思うと感謝感激である。20周年の時にはこのような功労者や世話役に対して謝意表明が行われたようであるが、今回は会費負担も大幅に増大しているので、今回は省略させていただくこととした。


 40年間の後半は衰退の歴史を語るようでまことに気の進まぬことであるが、それでも名簿を作成してみると、30名に近いベテランの名が載っており、文集にも殆どの方から原稿を頂戴することが出来心強い限りである。会員皆さまの勧誘による若返り、世話役の補充、会場の選定、会の運営の見直しなどアイデアを出しあってこの会を末長く存続させ、50周年、60周年には、また是非とも記念誌を作成してほしいものと願っている。



  (青葉宝生会40周年記念誌 「あおば」より)    平成14.10


       村本脩三さんの思い出

                             高 橋 春 雄


 昭和29(1954)年4月、勤務先KDDの先輩秋元亮一さんにすすめられて、村本脩三さんについて謡曲を習いはじめたのが村本さんとの最初の出合い、その村本さんが亡くなられたのが平成11(1999)年11月、実に半世紀近くの間公私にわたってご指導をいただきました。思い出は尽きませんがいくつかを拾い上げてみたいと思います。


○ KDD宝生会の発足と入会(昭和29.4)

 昭和28年4月KDDが発足、翌29年4月には村本さんが宝生流謡曲サークルのKDD宝生会を結成された。その頃私は経理部にいたが、同じ職場にいた秋元亮一さんに奨められて何人かの仲間と一緒に稽古に参加した。最初に習ったのが「竹生島」、先生が謡うのを一句づつ真似して鸚鵡がえしに謡うのである。うまく謡えないと「もう一回、もう一回」の繰り返しとなる。稽古はなかなか厳しいので何回か止めてしまおうと思ったが、その都度阿部理一、丸山乗一ほかの仲間に励まされて思いとどまり今日まで続けてくることが出来た。今思うと止めないで本当に良かったと思っている。


○ 昼は仕事の課長さん、夜は謡の先生だった村本さん

 昭和41年6月、私は経理部財務課から社長室総務課に転任になった。その時の総務課長が村本さんであった。今までは謡の稽古の時だけ絞られていたが、今度は仕事の上でも絞られる羽目になった。

 然し、謡のほうは始めてから10年以上も経過し、面白くなってきており、村本さんの口添えもあって渡邊三郎先生の所に入門させていただくまでになっており、厳しい稽古も苦にならなくなっていた。また仕事のほうも今まで経理畑だけ歩いてきたが、国会、郵政省、上級人事など新たな分野で指導していただいたのは大変良い薬になっていると感謝している。


○ 青葉宝生会入会(昭和41年7月)

 ご存知のとおりこの会は村本さんの提唱で昭和37年に発足した会であるが、私は昭和41年7月に入会させていただいた。私が総務課に移った直後である。入会と同時に村本さんのお手伝いを仰せつかった。曲目の選定、役の人選等主要なことは村本さんが決めるので、私は案内の作成発送、会場設営等が主な仕事であった。昭和63年5月までこの仕事を続けた後柳川英夫君にバトンタッチしたが、第1回からの資料が私の手許に保存されている。始めの頃のは村本さんの筆跡で会合の記録が記されており、第15回、昭和46年7月、最初に私が担当した案内はガリ版を使って往復はがきに印刷されている。それが青い紙に複写したものになり、さらに白い紙にコピーしたものになり、昭和61年頃からはワープロ使用と変遷しているのも懐かしい。

 この作業や謡の会を通して多くの立派な方々の謦咳に接することが出来たのは、ひとえに村本さんのおかげである。 


○ 能「草紙洗」と能「天鼓」

 昭和47年5月、渡雲会の35周年記念大会で、村本さんが能「草紙洗」を舞われた。村本さんにとっては定年退職記念という意味もあって、お役は「貫之」秋元亮一、「立衆」には冨田林平、児玉栄太郎、私とKDDの人達が選ばれた。その時の記念誌を読み返してみると村本さんが小町の心情を如何に表現するかに心を砕いているのに、私は三、四十分座った後、「銀(しろがね)のたらい」を取り出すためすぐ歩き出せるかを心配している有様、入門間もない頃とはいえ、その格差の大きいのに呆れた次第。

 昭和50年5月、渡雲会の春季大会が金沢市の石川県立能楽文化会館で開催され、村本さんが能「天鼓」を舞って故郷に錦を飾った。その時私もその地謡を謡わせていただいたが、足拍子を100回近く踏む「楽」という難しい舞に魅せられ、いつか自分もこのような舞を舞いたいと秘かに願ったことを思い出す。本年6月、65周年記念大会で「唐船」の曲で「楽」を舞い永年の念願を果たすことが出来た。

 

○ KDD宝生会30周年記念、村本脩三先生叙勲祝賀大会(昭和59年) 

 昭和59年にはサークル発足30周年にあたり、村本さんの叙勲もあって熱海ホテル・ニューアサヒで盛大な記念式典を行った。

 またそのころ私がサークルの会長をしていたので、「30周年記念誌」の作成を思い立ち秋元さんの指導を得て完成配付した。読み返してみると村本さんを交えての座談会の記事や、村本さんの定年記念で能「草紙洗」を舞った話、金沢の能楽堂で能「天鼓」を舞い故郷に錦を飾った話など懐かしく思い出される。


○ 追善の曲「江口」と村本さん

 長い年月の間に多くの人の訃報を聞いた。謡曲関係の方の場合追善の曲を謡われることも少なくないようである。村本さんと一緒に謡った思い出も多い。

・ 古池信三氏一周忌の法要 昭和59.10  郵政大臣、KDDの会長となられた方。私ども宝生グループにも参加の機会が与えられ、何か謡をということで、村本脩三、秋元亮一、小嶋郁文の皆さんとともに「江口」の一節を捧げた。

・ 秋元亮一氏通夜 平成4年1月  村本さんを中心にしてかなり多くの方々がしみじみとした調子で謡われ、何よりの供養になったのではないかと思っている。

・ 斉藤基房氏霊前 平成10年1月  斉藤さんは渡雲会の副会長を永年つとめられた方。村本さん、八角菊栄さんと一緒に、奥さまのご自宅を訪ね霊前で奉謡。

・ 村本脩三氏通夜 平成11年11月  御本人の霊前で謡うことになろうとは思いもよらなかった。通夜には謡曲関係の方も大勢参列、奉謡させていただいた。最初に埼玉グループ10名ほどで「誓願寺」を、次いで私どもの「江口」を霊前に捧げた。用意した「江口」のコピーを埼玉グループも含めお配りし、古瀬孝司さんに最初の一句「心とむる故」を謡っていただき、一同その後を謡った。40数名の合同謡はよく揃っていた。私も途中2回ほど声がつまってしまった。謡い終わるとすぐ長男の方が、涙ながらにお礼の言葉を述べられた。




主な内容

記念誌発刊について

青葉宝生会最近二十年のあゆみ

例会等の写真   14枚

文    集   22名

資    料   開催記録、二十年のあゆみ、会員の参加記録、番組記録、

         会員名簿、物故者名簿

編集後記

B5判 73頁 平成14年10月刊行

能 「草紙洗」 シテ 村本脩三 水道橋能楽堂 (昭和47.5)
能 「草紙洗」 シテ 村本脩三 水道橋能楽堂 (昭和47.5)

能 「天鼓」 シテ 村本脩三 金沢市 石川県立文化会館 (昭和50.5)
能 「天鼓」 シテ 村本脩三 金沢市 石川県立文化会館 (昭和50.5)

「翁」 前列 シテ 山本重文 千歳 村本脩三 (昭和62.6)
「翁」 前列 シテ 山本重文 千歳 村本脩三 (昭和62.6)

末広会(KDD謡曲全国大会)に参加<br />鳥羽市 扇芳閣 (昭和42.2)<br />左より村本、秋元、高橋の皆さん<br />
末広会(KDD謡曲全国大会)に参加
鳥羽市 扇芳閣 (昭和42.2)
左より村本、秋元、高橋の皆さん

能「小鍛冶」のKDDメンバー<br />渡雲会30周年記念大会 (昭和42.5)<br />左より児玉、秋元、村本、渡邊三郎(師匠)、高橋の皆さん
能「小鍛冶」のKDDメンバー
渡雲会30周年記念大会 (昭和42.5)
左より児玉、秋元、村本、渡邊三郎(師匠)、高橋の皆さん

第8回末広会に参加 熱海市つるや (昭和44.2)<br />村本さんの仕舞「高野物狂」<br />地は長島、冨田、秋元、高橋の皆さん
第8回末広会に参加 熱海市つるや (昭和44.2)
村本さんの仕舞「高野物狂」
地は長島、冨田、秋元、高橋の皆さん

KDD宝生会 新宿会館 (昭和55.6)<br />連吟 「絃上」<br />左より児玉、村本、高橋、秋元の皆さん
KDD宝生会 新宿会館 (昭和55.6)
連吟 「絃上」
左より児玉、村本、高橋、秋元の皆さん

全国大会(花巻大会)観光 (平成9.8)<br />江刺市 「藤原の郷」見学 村本さんと
全国大会(花巻大会)観光 (平成9.8)
江刺市 「藤原の郷」見学 村本さんと

村本脩三氏通夜の祭壇 (平成11.11)<br />青葉宝生会、KDD宝生会、渡雲会、渡邊三郎、教授嘱託会本部、教授嘱託会埼玉支部、浦和宝生会、上尾宝生会等の生花あり
村本脩三氏通夜の祭壇 (平成11.11)
青葉宝生会、KDD宝生会、渡雲会、渡邊三郎、教授嘱託会本部、教授嘱託会埼玉支部、浦和宝生会、上尾宝生会等の生花あり

青葉宝生会40周年記念誌 「あおば」 平成14.10
青葉宝生会40周年記念誌 「あおば」 平成14.10



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