資料   高橋家編 「高橋シゲノ 米寿」より    昭63年10月

         ま え が き

                        子供代表 高 橋 春 雄

 私どもの母シゲノが、今年88才を迎え、8月15日には子、孫、ひ孫を中心に、母の兄弟やごく親しくしていただいている親戚の皆さまにお集まりいただいて、和やかに米寿のお祝いをすることが出来ました。母も元気で米寿を迎えることのできたのは、まことに嬉しい限りでございます。

 祝宴の方は全部弟の澄雄の方で準備をしてくれ、そのご苦労に感謝しておりますが、これと並行して、めったにないこの機会に記念誌を作ろうという話になり、その方を私が担当して準備を進めてまいりました。

 母の喜寿の時や、シゲノの母、トクさんの還暦の時(昭和14年)につくられたごく簡単な記念帖も年経て見ると大変なつかしく、母の米寿にはぜひ何か残るものを作りたいとかねてより考えておりました。最初は写真少しと、子供・孫に一筆くらいお願いするつもりでおりましたが、だんだん欲が出て、写真も増やし、年表、系図なども資料としてつけ、お願いする範囲も広げたいと考えるようになりました。幸い5月の連休に兄弟一同、3・4日間を一緒に過ごす機会があり、その時この構想を話したところ全員の賛同も得られたので、帰京後早速準備にとりかかりました。

 母もアルバムやらノート等を提供してくれましたが、そのノートには、昭和58年1年分の日記や、その頃作ったり書きとめたりした「うた」が沢山書かれてありますので、これも収録することとしました。

 写真の整理やら、文章全部のワープロ叩きで、身辺が俄に忙しくなりましたが、6月末私も定年で会社勤めに終止符を打つことになり、暇つぶしにはもってこいでした。

 皆さんのご理解と、母シゲノに対する温かい思いやりに支えられ、沢山の原稿や作品が集まり、おかげ様で予想以上のページになりましたが、母にはきっと喜んでもらえると思います。

 本誌作成にあたり、貴重な写真を提供いただいた高橋正虎様、高橋一郎様、年表・系図その他本誌作成の全般について適切な助言をいただいた桜井強様、そして素晴らしい原稿・作品をお寄せいただいた多勢の皆々様に厚くお礼申し上げます。

 本書の性格上、ごく限られた身内の方々にお贈りさせていただきますが、併せて亡父政春、ならびに身内で亡くなった方々の霊前にも捧げさせていただきたいと思います。

                       (昭和63年9月5日記)



        父母・田舎の想い出

                         長男  高 橋 春 雄 

                        (中野区在住 63才)

○ 父の死と母のことば

 昭和15年、父が突然亡くなった時、私が15才、それに澄雄、嘉雄、岩雄は小学生、一番下のマサエはまだ4才といった有様だった。私はすでに東京に出て逓信講習所で1年の課程を終え、東京中央電信局に勤めていたが、「チチシス」の電報で急ぎ帰った。

 葬式も一段落し、家の中には母と私たち子供だけになった時、母は私たち一同を集めて言った。「父親が無いからと人様にうしろ指を指されるような人間には決してなってくれるな」「アーア、20年も30年も時間が一気に過ぎてお前たちが早く大きくなってくれたらなあ」と。

 あれから早くも50年近くが過ぎてしまった。有難いことにその折のメンバーは全員元気で今日の日を迎えることができた。ずいぶん長いような、また一気に過ぎてしまったような歳月であった。母の期待どおりみんな元気で大きくはなったが、果たして母の期待するような人間になれたであろうか・・・


○ 親父の教育観

 おやじの若い頃のことは、今となると知っている者がなくなってよく分からない、海軍軍人になるまでには大変苦学をしたらしい。海軍に入ってからも一等兵曹で退役するまでには相当勉強したであろうから、学問については理解があり、それだけに子供たちの教育には熱心のようであった。

 私が小学校の算術でツルカメ算で四苦八苦していると、代数を使えばそんなの簡単だよ、などと教えてくれたり、当時青島では珍しいローマ字で索引する辞書を持っていて、アイウエオで引くより簡単だよと言っていた。柔道なども手ほどきしてくれた。

 そんなことで、小さい時から割合に本を読むことが好きだった私に、教育を身につけさせたいと思ったのであろう。小学校も農繁期には休ませるのが当然といった時代に、一日も休ませないで学校に通わせてくれたり、その頃小学校卒業で官費で勉強できる逓信講習所を受験させてくれたりして、その結果、上京することとなった。


○ 上 京

 田の草取りや稲刈りなど、田畑の仕事の手伝いをしている時、上りの汽車が通ると眼をあげて、あの汽車に乗れば6時間で上野に行けるんだなあなどと、東京に憧れていたが、逓信講習所に入学できることになって、いざ上京となると14才の私は不安で一杯だった。幸い親父が一緒に上京し、寄宿舎に一晩泊まってくれたので心強かったが、さて父も帰り、一人東京に残された。朝起きると今まで田舎で見慣れた天井と全く違う。ああここは東京なんだなあと思うと本当に淋しかった。しかし、今考えてみると親父はもっと淋しかったんだろうなあ。


○ 澄雄、家を継ぐ

 親父がそのまま生きていたら、弟妹たちもある程度の教育を受けることが出来たのだろうが、父の急死で事態はすっかり変わってしまった。私も小出郵便局に転勤させてもらい、ここでトンツー、トンツーと電報の係をやることになった。

 このまま私が郵便局勤めを続けていたら、高橋家も今の姿とかなり変わったものになっていたかも知れない。母も内心はそれを望んでいたのかも知れないが、また私の向学心をみて、父の遺志をつがせたいという気持ちもあったのではないかと思う。とにかく講習所の高等科を受験することとなり、郵便局には1年いたばかりで、再度上京、学校が終ると、海軍軍人として出征、復員、東京の電信局に復職というコースをたどることとなる。

 長男が家を継がずに、弟の澄雄が家と母の面倒をみることとなり、長男として誠に面目のない仕儀と相成ってしまった。澄雄君は、戦時中および戦後の一番苦しい時期を、母を助け、二人の弟や妹と力を併せ、よくのり越えてくれました。そして、現在もヲトラさんとともに、われわれ一族の中心的存在として、何時も快く私どもを迎えてくれている。長男として、澄雄君一家に心より感謝申し上げます。


○ 鎮 守 様

 小学校の頃は鎮守様に書き初めを奉納すると字がうまくなるとか言われて、毎年元旦の朝はこれを持ち、家中で朝早く御参りに行った記憶がある。夏のヨイヨッサ踊りも鎮守様の境内で行われていたりして、鎮守様は子供ごころにも親しみやすい所であった。

 母からその鎮守様のお守りをどれだけいただいたことやら・・・ニューヨーク事務所へ勤務する、怪我をした、病気をした、外国に出張する等、何か変わったことがあるとその都度、母は鎮守様へ足を運んでお札を受け、それを送ってくれた。

そのご利益と、亡き父がかげからそっと見守ってくれていたおかげで、50年もの間、逓信省、電電公社、KDD、その子会社の国際ケーブル・シップと無事に勤めあげ、定年退職した今日も元気でいられるものと感謝している。


○ う た

 親父がよく江差追分を唄っていたっけ。「お前百までわしゃ九十九までも・・・ともに白髪の生えるまで・・・」1人で先に逝ってしまうなんて約束違反だよ。 マッタク。


 親父は海軍だったから当然だが、「軍艦マーチ」「海ゆかば」「艦隊勤務」等、海軍の軍歌をよく歌っていた。私が海軍に行くようになったのも、一つには映画「海軍」の影響もあるが、この親父の軍歌の影響もあったと思う。本家の正虎さんも海軍育ちなので、最近でも一杯飲む機会があると「艦隊勤務」がとびだしたりする。


 母はよく「天然の美」を歌っていたようだ。“空にさえずる鳥の声 嶺より落つる滝の音・・・ ” 歌詞といい、メロデーといい大好きな歌である。サーカスの客寄せにこのメロデーが使われるのは心外である。


 新道の五郎叔父さんというと、本家に仕事の手伝いか何かで行っていた時に歌っていた「波浮の港」の曲が懐かしく想い出される。


 彦新の孝一叔父さんが、家に来た時、「ベンセイシュクシュク・・」と詩を吟じながらの剣舞に、その迫力に圧倒されてマサエが大泣きをしたことがあったけ。


 「ともしび近く衣ぬう母は、春の遊びの楽しさ語る・・・いろりのはたに縄なう父は、過ぎし戦さの手柄を語る・・・」在りし日のわが家を語るような歌ですね・・


   書

     はるけくも すぎこしかたを しのびつゝ
                母と語らう今日のうれしさ 

                              はるを 



             私 の 略 歴


                               高 橋 シゲノ


 私は、明治34年6月28日、青島の桜井彦七、トクの長女として生まれました。

 曾祖父、祖父母、叔父、叔母、兄弟、若い衆、子守等、12、3人の大家族の中に育ち、不自由も知らず、只々忙しい忙しいで育てられ、小学校へ行っている頃から、休んで田の手伝いをさせられました。小学校卒業後は、2月、3月と少し針仕事を習いに通いましたが、雪が消え始めれば、山へ薪切り、桑畑の手入れ、桑の木ほどこし、肥料を山まで背負い上げる等、袖山からサシキ山、野の場、水上等、ところどころに畑があったので大変な作業でした。

 田んぼも、赤川、下島、前島、クロミキブチ、ヤシキ割り、家の前からサイカチのくぼまで、とびとびにありましたから、ほんとうに大変だったのです。そしてコツコツ馬や手でやったのですから、昔の人は骨を折りました。そして、家では蚕を年に4回も飼うので、桑取りがまた大変なのです。蚕がまだ終らぬうちに稲刈りがぼつぼつ始まります。昔はみんなハザへかけたり、大ていは地干だったので、毎日お天気を見ては稲干をするのです。夕方になればまたみんな積まなければならず、雨でも降ってきたら大変、ほんとうに忙しいことでした。稲刈が終ればみんな家のそばへ運んで積んでおいて、秋始末が終ってから米こしらえをするのです。

 昔は旧正月といって2月正月だったので、1月いっぱいに米こしらえをして、年貢を納めてやれやれやっと正月。正月の御馳走はどこの家でも同じコブ巻、人参、ゴボウ、芋、大根、豆腐、コンニャクの煮物、大根ナマスに、納豆、塩鮭、1年に1度の塩鮭の味、今でも忘れられない。また、餅の10臼もついて1日がかりで大変なことでした。

 正月は年始に行ったりきたり、泊りがけだったので、雪の道はほんとうに大変でした。15日の小正月はサイの神で、村に上、中、下と3ヶ所、松飾りを集めて大きな塔を作り、それを燃やし、その火でお餅などを焼いて食べると病気にならないなどと、あの時代にはあれが一つの楽しみだったのですね。

 そんなこんなで、なんだか青春もいつしか過ぎ、わたしも19才の夏、桜井スミさんの世話で政春と結婚することとなり、20才の9月、父に伴れられ横須賀に行きました。あの時は、まだ川舟で宮内まで行き、信越線で上京したようにおぼえています。竹コウリ1コ持って行きました。

 以前に家へ手伝いにいたことのある森山治郎さんが、横須賀の汐留に居たので、そこを頼ってひと先ず落つき、2畳間を借り、しばらくおいてもらいました。おかみさんが髪結さんだったので、ほとんど家におらず、そして私に針仕事を見つけてくれましたので、ほんとうに助かりました。

 そのうち、政春がしばらく出港することになり、原川様に相談に行きました。原川様もちょうど大湊へ転居になり、家族づれで行かなければならぬが、妹さんだけは残して行きたいからというので、私と妹さんで留守番をすることになりました。大家(おおや)のおかみさんが良い人で、私どもに仕事を見つけてくれ、一生懸命やりなさいと、はげましてくれて、ほんとうに有難く思いました。

 そうこうするうちに原川様も帰り、政春も入港することになり、今度は不入斗(イリヤマズ)に4畳半、武藤辰五郎さん宅を借り、ようやく落ち着きました。どこへ行ってもあの当時は針仕事ならありましたから、なんとか家賃位は働くことができたので喜んでいました。

 武藤さんには永くお世話になりましたが、大正12年9月1日12時頃、お昼ご飯を食べようかと思った時、グラグラ、ガチャガチャ・・逃げ出す間もない。ようやくヨロヨロと逃げ出し、木にしがみついてしずまるのを待っているのですが、なかなかおさまりません。そのうち道路はもくもくと割れるやら、子供は泣きだすやら、工廠から帰ってくる人達は皆生きた気はしません。そのうち、大滝町は火事だ、港は火の海でと大さわぎの様子でした。

 私どもは山手だったので、火災もなく、家が少しこわれたので入れず、それに時々ゆれるので、少しの広場へ左官屋さんがヨシを敷いてくれたので、そこで3日3夜ほど泊まり、おにぎりやら干パンやらいただいて過ごしました。そのうち井戸の水も澄み、ご飯もたけるようになり、家も武藤さんがどうやら直して下さったので、まあまあ落ち着きましたが、時々ゆれるので油断できません。

 そのうちに、政春が舞鶴海兵団に転勤になり、また引っ越さなければなりません。この頃、登阪高治さんが中舞鶴におりましたのでそこを尋ねて行き、すぐそばに空家がありましたので、そこに落ちつき、その後登阪さんは満期となり帰国いたしました。

 主人は海兵団に勤務、私は新舞鶴の共励会まで内職をとりに行き、兵隊さんの作業服のマトメの仕事をさせてもらいました。14年2月21日、春雄を新舞鶴の病院にて出産。妹ノブから付き添いにきてもらいました。妹もあんなに遠くへ出たことがないので、ほんとに大変だったと思いました。

 8月だったと思いますが、工務部の舟で天の橋立に連れて行ってくれるというので、喜んで春雄をおぶって、父さんについて行きました。大勢で行ったのです。お天気がよく甲板に出て眺めながら橋立に着き、文珠様やら、成相山やら、またのぞきやら見物させてもらいました。夕方は橋立の海に燈籠流しがあり、ほんとに壮観でした。舟が走り出した頃から雨になり、風になり、舟がゆれ始め、汽車さえ酔う私ですからたまりません。子供なんか父さんに預けっぱなし、ゴロゴロ生きた気がしませんでした。あれで船はこりごりで、佐渡へ誘われたけれど行きませんでした。

 その後、父さんは横須賀へ戻ることになったので、私は田舎へ帰ることにして、帰途、名古屋の登坂昇三さん宅に厄介になり、伊勢、京都と見物し、3晩ほど泊めてもらって田舎へ帰りました。

 田舎では秋だったので忙しく、ちょうど新道の家では五郎さんが指を切って、栃尾又へ行き、グリさんはお産で実家に帰り、ぢいさんは片手きかず、おばあさん1人でぼつぼつ刈っていたので、おぢいちゃんに春雄の守を頼んで、ろくな手伝いもできませんでしたが、少しお手伝いをさせていただきました。

 そのうちに、横須賀ではお父さんが家をみつけたので、横須賀に帰りました。坂本に6畳、2畳の1戸を借り、細々と暮らし、昭和3年4月20日、澄雄出産、高橋千代さんから手伝いにきてもらいました。そして、その12月、澄雄が耳を病んで海軍病院にて切開、3週間ほど春雄もつれて入院しました。春雄は患者さんに馴れて、カルタ取りなどして遊んでもらい喜んでいました。そして退院、4月には満期除隊となり、故郷へ帰ることになりました。

 10年間の都会生活にさよならです。何が何だかただ夢のように過ごしてしまいました。帰ってはみたものの、家もなく頼るところもなく、ほんとうに父さんの心の中、いかばかりだったでしょう。その頃父さんが唄ったのが

     ろも、かいも、波にとられて 身は捨て小舟

                どこに取りつく 島もない

お父さんの心中、思いやられました。

 その後、高野さん(姉の主人)を頼って新潟へ行き、白山浦へ住み、市役所に勤めさせてもらったのですが、なかなか、思うように行かず、5年の12月、寒空めがけて又、青島へ戻ってきました。新潟で満江が生まれたのです。

 この頃、高橋才吉さんが帰郷して1戸を建て1人暮しでおりましたので、そこへお願いして、下を皆借りて一族5人でおいてもらいました。有難いことです。そしてなんとか家を建てなければと思うのですが、屋敷が見つかりません。困っていたのですが、井口貞策さんが、それではというので今の土地、田んぼだったのですが、100坪だけ分けてやると言ってくれましたので、ほんとうに喜びました。

 そして雪の消えるのを待って猫車を買って福山から石やら土やら毎日運びました。2年がかりでようやく出来、6年12月、やっと石場かちをしてもらい、7年春ようやく建てることになりました。皆様のお世話になって、あの頃としては良い家だと皆様がほめて下さいました。そして座敷だけ畳を入れました。あの頃は正月でなければ畳を敷く家はほとんどなかったのです。そしてどうやら自分の家へ入った時の嬉しさは人には分かりません。これでやっと一生落ち着かれると、ほんとうに嬉しかったことを覚えています。

 それから薪積場を又四郎、阿達リサさんから譲り受け、政春がまた福山から石や土を運んで、清水の出る所を埋めて、ようやく薪を積むことができ、畑も少しできました。

 この間、昭和6年9月満江が死亡、7年2月22日、嘉雄が生まれ、ほんとうに忙しいことです。春雄は才吉の家から湯本弘さんに学校へつれて行ってもらいました。

 そして、私の父から庄面と田んぼ1反歩ほど譲ってもらい、他に少し借り、桜井武重さんから6畝位、井口謙蔵さんから2畝位を譲り受け、又四郎からも面割(ツラワリ)を借りて5反歩余り耕作し、蚕も少し飼って細々と生活しておりました。

 9年1月5日に岩雄が生まれ、11年4月10日マサエ、13年にタケノが生まれ、8人の大家族になりました。お父さんは一生懸命働いてくれますので、まあまあ不自由もなく、和やかにすごせました。

 この頃から物資が不足になり始め、「欲しがりません勝つまでは」と皆さんが頑張ってきました。お父さんも好きな酒も呑まずに働きました。そして15年まだ秋始末も終らぬ11月16日朝、仕事に出かけて間もなく事故で亡くなってしまいました。私が病院に行った時は何の意識もありません、即死だったのです。そして村中の人から迎えに行ってもらい、お世話になって葬式をすませていただき有難うございました。この年は悪い年で、タケノが7月25日、赤子は生まれたばかりに死亡、3回葬式を出しました。ほんとうに、人生はいつどんなことが起こるが分かりません。古語に、

       いつまでも あると思うな 親と金

               無いと思うな 運と災難

 その後、次第に戦争がはげしくなり、毎日のように動員令がきて、その送り迎えに忙しく、私も9班の班長をしていましたので、そのうち戦死者も出て遺骨の迎え、町葬、家庭の慰問と出征兵士の祈願祭21日間、竹槍訓練等々、中々たいへんでした。

 家では子供等は学校へ行っても学業などろくになく、勤労奉仕、畑仕事とほんとうにあわれのようなものでした。春雄も上京はしたものの、いずこも同じ食糧難、それにお金もなく仕送りも出来ず、ほんとうに父さんがいてくれたらと、どんなに泣いたか知れません。そのうち19年10月、春雄は学徒出陣で海軍に入団することになったとて帰ってきましたが、すぐ岡部政夫さん、田口定二さんと一緒に出征祈願をしていただき、村中の人々におくられて出征しました。

 家では4人の子供相手に自作だけ3反歩位を耕作していましたが、20年の年は12俵半しか穫れませんでした。その内7俵半を供出させられ、正月から配給に追いこまれ、食うや食わずの思いをしました。運悪く、4月に私が子宮癌とのことにて入院、切開手術を受け、4週間ほど入院、そのうち中村の母さんから米を持って留守居にきてもらい、病院には栗山のクニエさんから米を持って付添いにきてもらいました。5月6日に退院したのですが、その日は信号の所から下へおり、田んぼの中をそりで帰宅しました。ほんとうに大雪でした。

 澄雄17才、嘉雄13才、岩雄11才、マサエ9才。嘉雄が御飯炊き、大釜にジャガイモと米を6合ほど入れて1日の食糧のうちはまだ良かったが、トウマメの虫の食ったのや芋の苗をとったあとの芋など、食べられないようなものが配給になり、ほんとうに良く生きてこられたと思います。

 20年8月15日終戦となり、残念ながらほっとしました。その後いろいろデマが噂されましたが、マッカーサーのおかげでなんの騒ぎもなく収まり、大地主は田を取り上げられ、借りて小作をしていた者に開放され、一躍自作になった人々が多数おります。

 その後、28年に恩給制度が復活し私も扶助料をいただくこととなりました。5、6年停止になったかと思います。私どももその後、岡部利エ門さんから3反歩買い求め、八色に1.5畝ほど求めましたので、なんとか百姓の仲間入りができました。

 子供たちも次々と学校も終り、嘉雄と岩雄は名古屋の紡績工場へ行き、澄雄は転々と仕事を見つけて働きなんとか生活してきました。そして28年4月富永弘さんの御世話で富永キイさんと結婚しました。29年12月25日、長女ひろみを出産、私もおばあさんになりました。31年7月31日、長男朗が生まれ、まあまあ良かったとよろこんでいました矢先、32年2月28日、突然キイさん死亡。あまりのことにほんとうに途方にくれました。57才で乳呑子を抱くことになり、3才児と2人ですから、ほんとうに困りました。その時まだマサエがいたからまだ良かったが、そのうちマサエも働きに出たのでほんとにこまりました。さいわい戸田の母さんが芋川に良い人がいるからというので世話をしていただき、今の母さんから8月にきてもらい、地獄に仏のように有難く思いました。

 33年すずえが生まれ、36年には照夫が生まれ、私も61才で4人のおばあさんになり、にぎやかな毎日を過ごせるようになりました。澄雄も正虎さんのおかげで農協に勤めさせていただき、生活も安定してきました。父さん勤め、母さん農業、みんな大変、生きるためにはみんな一生懸命働かなくてはね。

 そのうち、春雄、嘉雄、岩雄、マサエと結婚、出産と皆1男、1女を育て、皆孫が婚約期を迎え、曾孫も5人もあります。

 今年は88才になったとか、子供等が米寿の御祝をしてくれるとか、あまり長生きして迷惑をかけて申訳けありません。

 このぶんでは100才まで生きるかも知れませんが、何分よろしくお願い申し上げます。


    我は今 花の浄土か 極楽か

              集える孫子は 皆咲き誇り

    人生の 荒き波風 のりこえて

              米寿迎える 今日の嬉しさ

    亡き人の 面影おぼろに なりにけり

              四十八の 永き年月

    かかる世に めぐりあいたる 喜びを

              いかにつたえん いまは亡き人

    なす事も なくなりにけり 老の身は

              今日も楽しく 明日も極楽





          主 な 内 容

巻頭の写真  165枚

母の略歴

お祝いの言葉 母の兄弟 4名 父の兄弟関係 3名

       子供たちと家族 13名 孫たちと家族 8名

お祝いの作品(書・画など) 37名

母を囲んでの座談会

母が折々に詠みまた書きとめし歌の数々

母の日記(昭和58年)

年表、系図  B5版 186頁 昭和63年10月刊行

記念誌冒頭の写真 母シゲノ 米寿の祝い
昭和63年8月15日
小生がNHK学園の通信教育「写真教室」のリポートとして提出したところ、始めて金賞をいただいたものです。

高橋シゲノ 米寿 昭和63年10月
高橋シゲノ 米寿 昭和63年10月



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