資料   佐 渡 の 旅
    (平成9年度 謡曲名所めぐり ガイドブック)

            (ご連絡とお願い 省略)


            観光コースのあらまし


第1日目 5月13日(火) 

 東京駅発(7:36)→新潟駅着(9:45)→全員集合・バス同駅発(10:10)→新潟港着→ジェットフォイル(11:00)→両津港→佐渡能楽の里(昼食)、本間家能舞台見学→根本寺→正法寺→黒木御所址→相川町(ホテル大佐渡泊)


第2日目 5月14日(水) 

 ホテル発(8:00)→尖閣湾観光→佐渡金山→越の松原(昼食・文弥人形芝居)→大膳神社→妙宣寺→佐渡歴史伝説舘→真野御陵→蓮華峰寺→小木町(ホテルニュー喜八屋泊、謡会「檀風」「柏崎」)


第3日目 5月15日(木) 

ホテル発(8:10)→小木港発(8:30)→南仙峡遊覧船(沢埼灯台まで往復)→長谷寺→清水寺→かもこ観光センター(昼食)→両津港発(14:40)→新潟港→新潟駅(16:15)


東京駅参加者 新潟駅発 17:06 あさひ330 東京駅着 19:12解散

新潟駅参加者 着後新潟駅にて解散


            主 な 謡 蹟 


 謡蹟名       関連曲      謡蹟名       関連曲

 根本寺、経島    鵜飼       大膳神社・妙宣寺  檀 風

 蓮華峰寺、長谷寺  野物狂      正法寺       世阿弥

 矢島        頼政、鵺



            観光のポイントご案内


 1. ジェットフォイル       12.妙宣寺、阿新丸隠れ松

 2. 佐渡能楽の里         13.真野御陵

 3. 本間家能舞台、        14.佐渡歴史伝説舘

 4. 根 本 寺          15.蓮華峰寺

 5. 正 法 寺          16.ホテルニュー喜八屋

 6. 黒木御所跡          17.矢島、経島

 7. ホテル大佐渡、春日崎     18.南仙峡遊覧船    

 8. 尖閣湾(揚島遊園)      19.長 谷 寺

 9. 佐渡金山       20.清 水 寺

10. シルバービレッジ佐渡     21.かもこ観光センター 

11. 大膳神社

                             


1. ジェットフォイル  新潟港と両津港を60分で結ぶ

 佐渡も新幹線とジェットフォイルにより東京から3時間で結ばれるようになった。上越新幹線のスーパーあさひで100分、新潟・両津間をジェットフォイルで60分、朝少し早く東京を出発すると午前中には佐渡の土を踏むことが出来る。

 カーフェリーだと2時間20分かかるところをジェットフォイルではわずか60分、しかも航空機と同じシステムによるコンピューター自動制御装置の働きで荒海を時速80キロで疾走しても船は殆ど揺れないとのこと、どうぞ安心してお出かけの程を。

 ちなみに昭和48年に嘱託会の名所めぐりで佐渡を訪ねたことがあるようだが、この時の記録には「前日16時49分上野発の急行佐渡三号に乗り、21時20分新潟着、当日は万代橋近くの「ホテル新潟」に宿泊、翌朝午前9時20分発の連絡船で11時30分に両津に到着・・・。それでも20年前に小さな蒸気船で渡った時より1時間も船足が速くなっている」と記されているから、まさに隔世の感がある。

 このあとまた20年ほどたって、また佐渡の名所めぐりをする機会でもあれば、今度は航空機利用で東京から1時間もかからないでこられるようになることであろう。

 現在、ジェットフォイルは新潟と両津、直江津と小木との間に運航されているが、新潟〜両津間のほうが便数も多く、新幹線との接続にも便利なので往復ともこの区間を利用することとした。



2. 佐渡能楽の里     両津市吾潟   

 佐渡で最初に訪問するのは「佐渡能楽の里」である。と言ってもまだ実際に見たことのない方が殆どと思うが、両津港からほど近い、本間家能舞台のすぐ前の敷地に目下建設中で、平成9年4月にオープンの予定となっている所である。

 計画によると能楽舘、能楽資料館、展望大食堂、佐渡物産館等を収容する立派な施設が建設されるとのこと。入口には巨大な「翁」の能面が来館者を迎え、館内ではロボット演能による薪能「道成寺」の常時上演されるほか、「能楽の歴史絵巻」「能楽屏風」「井筒」のつくりものなどさまざまな趣向がこらされる模様で、佐渡の新名所にしようと関係者は意気込んでいるので完成が楽しみである。

 完成間もないこの「能楽の里」でまず、昼食をとっていただき、施設を見学したあと、隣接の本間家能舞台に移っていただく予定である。



3. 本間家能舞台     両津市吾潟 

 「鴬や十戸の村の能舞台」これは大正13年にこの島に来た大町桂月の句であるが、この句のとおり佐渡には山奥の神社にも能舞台があり、斉藤郁夫という方の調査によると現存するものはその数は36、そのうち現在も使用されているものが8つあるといわれる。

 その中でも本間家能舞台は本格的な能舞台として保存されている。本間家は現当主本間英孝師まで十八代続いている佐渡の能大夫として由緒ある家柄で、この能舞台は十五代本間令桑の代に建立されたものという。

 建物は木造瓦葺寄棟造りで禅宗とともにわが国に渡ってきた唐様建築の扇垂木手法が用いられ、音響効果をあげるため床下に瀬戸産のカメを向かい合わせて埋めてあるのも特色である。明治維新で能楽は崩壊し、幕府の庇護を失った余波はこの舞台にも及び、鏡板、橋掛りなどの材質が極度に落ちているのも当時の歴史を物語るものといえよう。

 ここには紀州家から寄贈された能面、装束、宝生流最古の謡本などさまざまな珍しい品が保存されているようであるが、拝観の機会を得られればと願っている。

 屋敷内には

 「天覧能演能跡」の碑(昭和天皇が昭和39年、佐渡行幸をされ、佐渡能楽倶楽部一門はここで、能「鶴亀」の天覧を賜った)

 「十六代宝生九郎翁敬慕碑」(十五代令桑は、佐渡能楽と江戸との交流を深め、時の宗家宝生九郎翁の知遇を受け、宝生流の重習秘曲一切を伝授、それを記念して明治43年敬慕碑を建立し、佐渡能楽倶楽部を結成した)

 「高浜虚子先生句碑」(十七代友英は在京時代より俳句を趣味とし、高浜虚子等との親交を深めた。昭和27年、高浜虚子、星野立子、高野素十等を招き句会を催した折の虚子先生の名句「ある時は江口の月のさしわたり」を句碑とした。)

 「摂待井」碑(碑の側面には「明治三十六年四月 退隠披露之節摂待相勤候記念 シテ本間令桑 子方本間七郎」と刻まれており、近くに古い井戸がある)

 「前内閣総理大臣中曽根康弘観能記念の樹」

など、さまざまの碑や樹木、井戸などが、本間家の歴史を私たちに語りかけている。

 この由緒ある舞台で、「鵜飼」「高野物狂」を謡わせていただく予定でしたが、JRの時刻改正により割愛させていただきます。


 近くの牛尾神社にも、立派な能舞台があり、室町時代の面匠「春日」の作といわれる「翁」の面も保存されているという。また、舞台わきには「花」と大きな字を刻んだ「野村蘭作先生寿碑」がある。



4. 根本(こんぽん)寺   新穂村大野 「日蓮(鵜飼)」 

 文永8年(1271)佐渡配流になった日蓮は、守護代本間重連に受け取られ、重連の家の裏、塚原の三昧堂という荒れ果てた小堂に入れられ、翌年4月、市野沢に移されるまで半年間ここに住んだ。日蓮がこの三昧堂で、国中から集まった他宗門の僧たちとの法論に勝ち「開目抄」を書いたという話は有名である。

 寺伝によると、日蓮が鎌倉に帰ったのち、この地に正教寺という寺が建てられ、その後、天正15年(1587)京都妙覚寺の日典が来て根本寺を開基し、寛文11年(1671)両寺が統合したという。

 三昧堂のかたわらに戒壇があるが、これは味方但馬が摂津から取り寄せた御影石で築いたものといわれ、日蓮謫居当時の三昧堂の遺跡という。現在の三昧堂は天保5年に建立されたものである。

 仁王門の右手前に、犬塚という小さな塚がある。あるとき、日蓮をねたむものが食物に毒を入れて殺そうとした。不思議に思った日蓮が、かたわらの犬に与えたところ、犬が死んでしまった。この話を聞いた阿仏房がその犬を葬ったものと伝えられている。

 阿仏房は三昧堂で飢えと寒さに苦しんでいた日蓮を、夜中ひそかに食物を運んで助けた人物で、のち、阿仏房妙宣寺の開基となった。


(参考) 佐渡における日蓮の足跡 

 鎌倉竜の口で処刑される寸前、電光の奇蹟により処刑が中止され、死一等を減ぜられた日蓮は佐渡に配流のこととなった。

 文永8年10月下旬寺泊から出帆、佐渡東岸の松が崎(現在の畑野町松ケ崎)に着いた。現在ここには本行寺があり、境内には日蓮の船を導いたという「龍燈の松の跡」や「龍燈説法像」がある。上陸第一夜は泊まる宿とてなく、近くの欅の大木の洞で夜を明かした。今も「おけやき」と称する巨木が聳えている。

 山を越した日蓮は新穂村に至り現在根本寺のある三昧堂に篭る。

 文永9年鎌倉幕府の命により、今の佐和田町市野沢にある妙照寺に移され、赦免まで2年間ここに居住、ここで「観心本尊鈔」を著述して教義を確立した。

 なお、近くの実相寺も日蓮が毎朝この丘にのぼり朝日を拝した所といわれ、袈裟掛けの松が残っている。

 文永11年2月、赦免の沙汰があり、赦免状を携えて佐渡に渡った日朗は一人小木町につき、経島に上陸、一夜経を読誦したという。

 日蓮は3月13日出発、山を越えて東岸の赤泊町真浦に到着、天候の回復を待って真浦の海岸から船出した。ここには「日蓮赦免乗船地の碑」が建てられており、また「日蓮波の題目の碑」がある。日蓮が船出するにあたり、波が崩れて南無妙法蓮華経の題目の文字をあらわした奇瑞を記念したものという。

 船は寺泊に着く予定であったが、風に流されて柏崎の岬町に漂着し、ここに逗留した。この地には現在「番神堂」が建てられている。



5. 正法(しょうぼう)寺 金井町泉  「世阿弥」

 山門入口の大きな碑に「世阿弥大夫旧跡記念碑」と刻まれているとおり、この寺は世阿弥謫居の寺として知られている。

 永亭6年(1434)、能楽の完成者世阿弥元清が、時の将軍義教の勘気にふれて佐渡へ流罪になったのは、世阿弥72歳のときといわれている。世阿弥の最初の配所は万福寺でいまの金井町役場付近にあったといわれ、「世阿弥配処 万福寺址」の碑が建てられている。その後内乱のため移されたところがこの寺と伝えられる。

 山門を入ると右手、白い柵に囲まれて「世阿弥大夫腰掛石」がある。標札と柵がなければ見逃してしまいそうな石であるが、じっと見ていると、年老いてこの島に流された世阿弥がこの石に腰を掛け、佐渡で書いたという小謡曲集「金島書」の構想を練っている姿が浮かんでくるような気がする。

 本堂前の庭には、作家松本清張が平成4年3月21日、亡くなる10ケ月前に立ち寄ったときの俳句が句碑となっている。

    花伝書や世阿弥くさめす春の雪   清張

 また、この島の佐和田町出身の文芸評論家青野季吉の俳句も、子息の芥川賞作家、青野聡の筆で碑になっている。

    夏草や世阿弥の跡の石ひとつ    青野季吉

 この寺には「雨乞いの面」といわれる古い面、世阿弥の筆跡になる書簡、世阿弥の木像が保管されているとのことなので、特にお願いしてこれらの寺宝を拝観し、住職さんからお話をいただく予定となっている。

 「雨乞の面」は南北朝から室町初期の頃の作品と思われるが作者は不明の由。雨乞いなどに用いられたためか、かなり損傷しているが、顔の造作が大きく強く作られ、迫力に富む吽形鬼面である。

 「世阿弥の木像」は比較的あたらしい小さな座像であるが、端正な姿は世阿弥の人柄を偲ばせるようである。

 この世阿弥木像について、嘱託会報に次のような記事が掲載されているのを今回発見しびっくりした。昭和48年の佐渡名所めぐりに参加された徳川繁子さんの「佐渡旅行」なる一文である。関連する部分だけを引用してみよう。

 「同行の山口保平さんは、今から三十年程前、高橋進先生や幸祥光先生等と、この島で「望月」の能を舞われた時の記念に、入江美法氏に依頼して、世阿弥の木彫をその由緒ある正法寺に寄贈されたと聞いて居りました。同氏が今度の佐渡旅行に参加されたのも、一つにはその思い出の木彫との再会を楽しみにされていたのでした。正法寺に着くと、まず目に入ったものは、本堂の前方に飾られた世阿弥の木彫でした。山口氏は走りよるように木彫の前に佇んで、なつかしげに見守って居られました。世阿弥の事をまるで自分の親戚みたいにしゃべって私達に説明して下さる和尚さんに「この木彫を寄贈された山口さんがここに居られます」と告げると、和尚さんもびっくり、その再会を悦ぶ御二人の樣子、私も嬉しくなりました。」

 このような経緯を知って拝観する世阿弥の木像はまた格別の印象を私たちに与えてくれるのではなかろうか。


(参考) 佐渡における世阿弥と「金島書」

 佐渡に流された世阿弥はここで「金島書」という小謡曲集を書き遺している。その一部を紹介しながら佐渡における世阿弥の樣子を推察してみたいと思う。

 この書物は「若州」「海路」「配処」「時鳥」「泉」「十社」「北山」の有題の七編と無題の一編から成っている。

 「若州」・・書き出し「永亭6年の5月4日、みやこをいて、次日、若州をはまと云とまりにつきぬ・・」

 若狭の小浜に着いた世阿弥はここから佐渡に向かった。平成7年の名所めぐりで訪ねた小浜の「世阿弥船出之地記念碑」のある所から船出したのである。

 「海路」・・結び「曙の波に松みえて、早くそ、爰に岸影の、爰はと問は、さとの海、大田の浦に着にけり、大田の浦に着にけり」

 小浜から船出して能登の沖を通り、立山・倶利伽羅峠の思いを馳せ、京都から15日から20日ほどの船旅を経て、佐渡東海岸、現在の畑野町多田に到着した。

 「配処」・・長谷観音のくだり「そのまま山路をおりくたれば、はせと申て、くわんおんのれいちわたらせ給、こきやうにても、ききし名佛にてわたらせ給へは、ねんころにらいはいして・・」

 多田に一泊した世阿弥は小佐渡の笠取峠を越えて配処に向かうが、途中長谷の観音に詣でる。大和の長谷寺は世阿弥にとっては忘れることのできないお寺、都を遠く離れたこの島で故郷のと同じ長谷観音にめぐり合ってどれほど心が安らいだことであろう。

 満福寺のくだり「その夜は、さうた(雑太)のこほり(郡)、しんほ(新保)と云ところにつきぬ、国のかみ(守)たいくわん(代官)、うけとりて、まんふく(満福)寺と申せういん(小院)にしゆくせさせたり、・・」

 長谷をあとにした世阿弥にあてがわれた配所は雑太郡の新保。代官の指図でそこの万福寺でわらじをぬぐこととなった。現在この万福寺はないが、前述のように金井町役場の近くに「万福寺址」の碑が建てられている。

 「時鳥」・・為兼卿のこと「みや人申やう、これはいにしへ、ためかねのきやうの御はい処也、あるとき、ほとときすのなくをきき給て、なけはきく、きけはみやこの、こひしきに、この里すきよ山ほとときす、とよませ給しより、ねをとめて、さらになく事なしと申、・・」

 時鳥(ほととぎす)という鳥は、都では待ちあぐねて聞く鳥である。ここ佐渡では山路はもとより、軒端の近くでさえかしましいほどに鳴くのだが、ふしぎなことに、この八幡では、その音を聞かない。どうしたことかと宮人にたずねたら、ここは古くから為兼卿の御配所で、

  鳴けば聞く聞けば都の恋しきに この里過ぎよ山ほととぎす

と詠んだら、そののち鳴くことがなくなった。このように宮人が話したというのである。

 為兼卿は鎌倉後期の歌人。皇位継承問題に関係したところから永仁6年(1298)配流。5年後に許されて帰京、「玉葉和歌集」を撰じた人である。

 この歌については、同じく佐渡に流された順徳上皇が八幡の里で詠まれた御製とも云われており、また次のような伝説がこの里で語られている。

 その後、日野資朝卿が佐渡に流され、この里を訪れてこの話を聞き、

  聞く人も今はなき世をほととぎす たれにしのびて過ぐるこの里

と詠んだら、また昔のように時鳥が鳴きだしたというのである。

 世阿弥はこの編の終わりを次の文で結んでいる。

  ただ鳴けや ただ鳴けや 老の身 われにも故郷のあるものを 

「泉」・・順徳院配所「又、西の山もとをみれは、しんかいらかをならへ、みやこと見えたり、いつみと申すところなり、これは、いにしへ、しゆんとく院の御はい処也・・」

 世阿弥は順徳院の配所も訪ねているのである。

「十社」・・書き出し「かくて、国にいくさをこりて、こくちうおだやかならず、はい処も、かせん(合戦)のちまたになりしかは、在所をかへて、いまの、いつみ(泉)といふ所にしゆくす・・」

 戦さが起こって、世阿弥の配所も合戦の巷となって、世阿弥の配所も新保から泉に変わった。正法寺は泉にあり、この時に世阿弥は正法寺に移ったのかも知れないが、新保の万福寺のように寺の名を特定してはいない。あるいは当時は泉と云えば当然正法寺のことを指していたのかも知れない。

 ここで世阿弥は十社というやしろに能を一曲奉納している。

「北山」・・結び「あらおもしろや、さと(佐渡)のうみ、まんもくせいさん(満目青山)、なををのつから、その名をとへは、さとといふ、こかね(金)のしま(島)ぞたへ(妙)なる」

 世阿弥は佐渡讃歌ともいうべき文言で結んでいる。

「無題」・・標題はないが、世阿弥は前述の七編に続いて、奈良春日興福寺の薪神事を思い出して一曲を作っている。そして最後に次のように結んでいる。

  これを見ん、のこすこかねの、しまちとり、

              跡もくちせぬ 世々のしるしに

   永亭八年二月 日            沙 弥 善 芳

 「金島書」を書いて世阿弥は佐渡で消息を断った。許されて帰洛したか否かも明らかでない。


 「金島書」を通して、佐渡の世阿弥を簡潔に紹介しようと思ったが大変長くなってしまった。中途半端であるが、興味のある方には次の書物をおすすめする。

 磯部欣三(佐渡博物館長)著「世阿弥配流」 恒文社発行 



6. 黒木御所跡    金井町泉

 正法寺からそれほど遠くない所に黒木御所跡がある。(また、下車見学はできないが、昭和62年に完成した立派な金井町能舞台(堀記念金井町文化会館)も正法寺の近くにある。)

 承久の変(1221)により、順徳上皇は佐渡に配流となり、はじめ国分寺を行在所と定められたが、当時国守が直接管理していた泉に仮宮を造営して行宮とし、ここに移られた。

 御所の四隅には上皇の御持仏であった、観音、阿弥陀、薬師、天神が祀られ、日夜礼拝されたと伝えられている。順徳院はこの黒木御所に御遷幸以来、崩御までの22年間、行在所とされていた。

 御所内には昭和天皇が皇太子であられた大正5年7月9日、行啓の際の御手植えの松が実在している。



7. ホテル大佐渡、春日崎    相川町

 第1日の宿はホテル大佐渡である。場所は相川町の中心地より南、春日崎がすぐ目の前の所である。ホテルに入ると入口正面の飾り棚に能装束、面、扇、大鼓、小鼓、笛などが陳列されており、ロビーには龍英樹描く「羽衣」の大きな絵が飾られている。また、廊下には「小面」「般若」などの能面が10ほど並んでおり、まさに能楽の里に来たという感じである。

 各部屋からは日本海を見渡すことが出来、落日の風景が眺められたら最高である。眼下は春日崎、佐渡おけさの踊りの背景によく使われる石の灯篭が見られるが、ここは佐渡能楽発祥の地とも云われる。

 この岬に春日崎の名が付けられたのは、佐渡を支配した初代佐渡金山奉行の大久保長安が、春日の神に金銀渡海の航海安全を祈願し、ここに春日明神を祀られたことによる。この時大和から招いた能楽師の常大夫、杢大夫がはじめて能を神前に奉納した。この時の能が以後佐渡各地で盛んになる能楽の最初のものと云うのである。

 しかし、世阿弥は金島書に「敬信のために一曲を奉楽す」(十社)と述べており、室町時代の終わりの天文22年(1553)の頃には、元忠という人が来島し「実盛」や「弓八幡」などあわせて7番を興行したという記録もあるので、本当に発祥の地か否かは疑問が残るが、世阿弥が配所の離島に残した種を育てるような風土がこの地にあったのは確かのようである。

 夜は佐渡おけさ、鬼太鼓、つぶろさし等の郷土芸能を楽しんでいただく予定。



8. 尖閣湾(揚島遊園)     相川町

 佐渡の海岸はどこを切り取ってもそれなりに絵になるところが多い。なかでも変化に富んだ岩礁を凝縮して見られるのが尖閣湾である。海抜20メートルにおよぶ荒削りの断崖と、海面に屹立する大小の岩は、絶景の一語につきる。

 この尖閣湾は往年菊田一夫作テレビ映画「君の名は」のロケーションの場所としても知られている。遊覧船からの眺めも素晴らしいが今回は時間の関係で陸上の揚島遊園からご覧いただく予定である。



9. 佐渡金山          相川町

 江戸時代には金山の町として賑わったのがこの相川町。昭和の時代までは実際に金の採掘も行われ、平成になると同時に幕は閉じられたが、金山にまつわる史跡は町内のいたるところに残っている。

 道遊の割戸は相川にゴールドラッシュをもたらすきっかけとなった、露天掘りの跡。岩肌に無数に見える小さな穴は、試掘のための狸穴と呼ばれるものである。

 宗大夫杭は江戸時代の坑道をそのまま生かして、各所に当時の作業の樣子を示す人形が動いている。ひんやりした坑内を歩くと、仕事の辛さなどを不気味に訴えかけてきて生々しい。

 坑道を出て金山展示資料館にくると、ここではミニチュアで、掘られた金が金貨になるまでをつぶさに見ることができる。



10. シルバービレッジ佐渡、文弥人形芝居 佐和田町越の松原 

 ここで第2日の昼食をとっていただき、ついで、97歳の浜田老人とその孫娘の演ずる佐渡の伝統芸能「文弥人形芝居」をご覧いただく。



11. 大 膳 神 社      真野町阿仏房 「檀風」

 御食津大神を主神とし、日野資朝卿、大膳坊賢栄を合祀する神社である。「檀風」ゆかりの神社であるが、境内の碑には次のように記されている。

 「正中の変の折日野資朝卿当国に配流され、一子阿新丸は父子対面を求めてはるばる都から下向したにもかかわらず、ついに許されぬまま父刑死の無念をはらすべく城主本間山城守の舘に潜入しその弟三郎を斬って本懐を果たした。その間大膳坊賢栄は真の敵は鎌倉なりと阿新丸をさとしたが、その孝心のやみがたきに感動してこれを助け、さらに迫りくる追手窮追の中に阿新丸を守護し、無事虎口を脱して帰京せしめた。

 山城守は激怒して大膳坊を処刑したが、その後大いに悔いおそれて日野資朝卿と大膳坊を当社に合祀してその霊を崇め奉ったと伝えられている。」

 境内には茅葺きの屋根と木組みのバランスが良い能舞台がある。舞台はいつも開けられていて鏡板の松の緑が印象的である。この舞台で「檀風」の曲でも謡ってみたくなる雰囲気を醸し出している。 



12. 妙宣寺、阿新(くまわか)丸隠れ松    

                真野町竹田  「檀風」「日蓮」

 この寺はもと順徳上皇に供奉した北面の武士遠藤為盛(日得上人)の開基といわれる。為盛は上皇崩御ののち、妻千日尼とともに日蓮に帰依したといわれ、日蓮配流の時、日得は妻とともに深夜ひそかに食物を送ってその危難を救ったという。

 山門を入って左手の五重塔は新潟県下唯一のもので、相川町の大工茂三右衛門が日光の五重塔を模して建てたといわれ、国の文化財に指定されている。

 妙宣寺の広い庭に、夏には白い花ばかりを咲かせるスイレンの池があり、その池の近くに「日野資朝」の墓がある。後醍醐天皇の正中2年(1325)、後醍醐天皇が政権回復に失敗した事件に連座した日野中納言資朝は、鎌倉幕府によって佐渡に流され、檀風城(雑太城)に幽閉されること7年、元弘2年(1332)6月2日、斬罪に処せられた。遺骨は高野山に納められたというが、その所在もわからず、佐渡ではこの寺の僧が遺骨をもらいうけてこの寺に埋めたと伝えられている。資朝の墓は枯れ木によりかかってわびしそうである。

 資朝自筆の細字法華経は国の文化財に指定された。寺では毎年旧暦6月2日(太陽暦に直した7月3日)の命日、日野資朝の供養祭を執行し、午後、本堂内で能楽を奉じているという。

 墓のかたわらには、資朝の歌

   秋たけし檀の梢吹く風に 雑田の里は紅葉しにけり

と刻んだ石碑が建っている。日野家代参を務めた故山本修之助の筆によるものである。資朝が幽閉されていた雑太城は資朝のこの歌によって「檀風城」の美称がつけられたという。寺の境内には「雑太城跡」と書かれた石碑や札があり、土塁や空堀の一部が見られる。

 なお、「檀風城趾の碑」と刻まれた碑がこの寺の近くの大きな道路の傍らに立っている。高く積み上げられたU字溝の前とあってなんの風情もないが、説明によるとここが佐渡守護代本間氏の初期の居舘跡で、日野資朝を預かった本間山城入道はこの舘にいたという。

 寺の近くには「阿新(くまわか)丸隠れ松」がある。父を尋ねてはるばる佐渡に渡った日野資朝の子阿新丸(当時13歳)は父にも逢わせず父を斬った城主本間山城入道の無情を恨んで、城内に忍び入り、山城を刺そうとしたが、その夜はそこにはおらず、太刀取本間三郎を刺し竹を伝って濠を越えしばらくこの松に隠れて追手を逃れたという。

(参考) 日野資朝配流の背景など

 謡曲では「元弘の合戦」に負けて日野資朝は佐渡へ流されたとしているが、実際は7年前の正中の変で捕らわれ、佐渡に流されている。

 正中の変(1324)・・日野資朝は後醍醐天皇の側近として、天皇の討幕の意図を体し日野俊基ほかの廷臣たちとひそかに北条氏討滅の計画を練っていた。しかし密告する者があって計画は露見、天皇は無関係であるという弁解が通って無事であったが、資朝は罪を一身に引き受けて佐渡に配流された。

 元弘の乱(1331)・・後醍醐天皇はその後も北条家覆滅を図っていたが今回も計画が露見し、日野俊基はその主謀者ということで鎌倉に送られ死罪となった。俊基が鎌倉へ送られるときの有様を太平記には「落花の雪に踏み迷ふ、交野(かたの)の春の桜狩り」ではじまる有名な「俊基朝臣東下りの道行文」で綴っている。このことがあって、佐渡に流されていた資朝も同罪ということで処刑されたのである。

 この時も幕府は天皇を逮捕する動きをみせなかったが、3カ月あまりを経て、天皇は突如皇居を脱出して笠置寺に入り、その天険と僧兵をたのんで挙兵に踏み切ったのである。北条方は大軍をもって包囲してこれを破り、天皇は隠岐の島に流される結果となった。

 佐渡における資朝と阿新丸のことは太平記に「巻二 阿新丸の事」として詳しく書かれている。謡本では資朝は自分には子はいないと云って一旦は阿新丸に会わないで追い返したものの、最後の時には名乗りあっているが、太平記では「今生の対面遂に叶わずして」となっていたり、ワキの山伏も最初から登場しなかったりで、両者を読み比べてみるとなかなか興味深い。

 ついでに吉川英治の「私本太平記」を読んでみた。ここでは山伏のかわりに足利高氏の身内の右馬介を登場させている。処刑された俊基の遺言として、俊基の死を資朝に伝えるよう高氏から内命を受けた右馬介は具足師柳斉になりすまして佐渡に渡る。本間家に取り入った柳斉はやがて阿新丸と知り合いこれを助け京都まで連れ戻るという展開になっている。阿新丸はここでも父に対面出来ないのであるが、処刑直後鎌倉から赦免状が届くなどの意外性も織り込まれており興味はつきない。

 ワキの山伏阿闍梨が法力をもって船を呼び戻し船に乗った場所は東海岸の野浦といわれる。野浦の海岸には「お腰掛けの石」というのが現存し説明もあるが、阿闍梨の名は大善坊となっている。概要次のとおり。「大善坊法印が阿新丸を助け、ここから敦賀行きの船に便乗させ無事京都に送りかえした。その後、大善坊はきびしい役人の詮議を逃れて野浦に長く滞在し、この大石に腰掛けては都の空を伏し拝んだという。」
 


13. 真野御陵真野町真野

 御陵と呼ばれているが、正式には順徳天皇火葬塚。承久の変で佐渡に流された順徳上皇を荼毘にふした跡で、玉垣が二重にあり、垣の手前から拝観する。若くして遷御され、亡くなるまでの20年余りを佐渡で過ごされた順徳院は、歌にもたけておられた。

   思いきや雲の上をばよそにみて 

          真野の入江に朽ち果てんとは

辞世の一首のかなしみが心にしみわたる。


(参考) 順徳天皇の御生涯

建久8年(1197) 後鳥羽天皇の第3皇子として御誕生

承元4年(1210) 14歳で御即位

承久3年(1221) 25歳で御譲位 後鳥羽上皇、北条義時追討の院宣下す。
  幕府軍京都に入る。後鳥羽上皇隠岐へ遷幸、順徳院佐渡へ遷幸。土御門上皇
  土佐へ遷幸近江から、越前・加賀・越中を経て越後の寺泊から船で佐渡は真
  野湾の恋が浦に御着船。しばらく国分寺を行在所と定められ、後に真野山の
  堂所・眞輪寺の阿弥陀堂・黒木の御所などに22年の島のあけくれを過ごされた。

仁治3年(1242) 佐渡の行宮で崩御
  和歌に堪能であられ、御歌集には「順徳院御集」1巻があり1909首が収
  められている。また佐渡御在島中の御製として「順徳院御百首」「内裏名所
  百首」などがある。



14. 佐渡歴史伝説舘  真野町真野  「日蓮」「世阿弥」 

 真野御陵に隣接する「佐渡歴史伝説舘」は、佐渡の歴史や伝説を、十体の等身大のハイテクロボットによって、言葉でなく実際の情景としてリアルに体験できるところで、新しい謡蹟として「日蓮」や「世阿弥」を理解していただけるのではないかと思う。

 「歴史コーナー」には次のようなものがある。

「順徳天皇・配所の月」御深憂の中に崩御された順徳天皇の御姿を再現。

「日連・塚原問答」数百人の僧が日蓮を罵る。

「日蓮・佐渡の法難」竜ノ口の刑場を再現・刃を向ける時、稲光・・

「世阿弥・雨乞の舞」面を瞬時に付け替えるところを見逃さぬように

 「伝説コーナー」には次のようなものがある。

「安寿伝説」森鴎外の「山椒大夫」の安寿、厨子王の母恋い物語を展開

「夕鶴伝説」木下順二の「夕鶴」の原話、鶴の恩返し、幻想的な世界

「おけさ伝説」猫が可憐な乙女に変身

「語りべの老婆」ユーモラスな語り口で佐渡の伝説を案内

 時間の許す限りゆっくりと鑑賞してほしいところである。



15. 蓮華峰寺  小木町小比叡   「高野物狂」  

 伝えるところによれば、佐渡は遠く皇城(京都)の鬼門にあたるが故に皇城鎮護のため、大同2年(807)弘法大師が比叡山にならって建立したため小比叡と名づけ、後いくばくもなく瑳峨天皇の勅願所となり、周囲の山が八葉の蓮華の形に似ているところから蓮華峰寺と称したという。

 境内は3千坪あり、山上の広い寺域には金堂を中心にして前後左右に地蔵堂、八角堂、鐘楼堂、経堂、御霊堂、八祖堂、骨堂、仁王門、唐門、蜜厳堂、弘法堂、護摩堂、客殿、弁天堂、小比叡神社、多宝塔、庫裏等の多数の古建築群が土地の高低に応じてよく配置され、密教特有の伽藍美をなし、老杉の境内の幽と相まって希有の偉観を呈している。7月半ばともなると、これら建物の周りを、約1万本のアジサイが彩りを添える。主なものを紹介する。

 金堂・・重要文化財。室町時代初期の建造物で県最大最古の建物で規模は宏壮雄大である。解体修理で発見された資料にもとづき創建当初の姿に復元されたという。堂内の額は瑳峨天皇の筆、大太鼓は天文24年作、直径3尺7寸、島内第一のものである。

 独鈷(とっこ)水・・高野山の「三鈷の松」と同じような話が伝えられている。弘法大師が唐の国から帰国の折、大師が持っていた独鈷を密教弘伝の勝地を念じて投げたところ、独鈷は光を発して飛び去り1個がこの地に落下した。その他は大和の室生寺と、紀伊の高野山金剛峯寺に落下したという。ここが三大霊地の一つといわれる所以で、蓮華峰寺の発祥の地とされる。ここから霊水が湧き出でこれを飲むと病がなおると云われてきた。水害で倒れたのを昭和54年に復元したものと云われる。

 小比叡神社・・重要文化財。大同年間創立ともいわれ、祭神は大己貴命で蓮華峰寺の鎮守であったが、明治7年神仏分離の際小比叡神社となった。本殿は三間社流造で室町時代の建築様式とみられている。石鳥居は慶長13年建立、初代佐渡奉行大久保石見守長安と弟の大久保山城守安政が奉納した。

 弘法堂・・重要文化財。本尊は宗祖弘法大師座像の一本造り、須弥壇の扉には天人花鳥が極彩色で描かれており、多くの信者を集めているという。金堂の雄大豪壮にくらべて、こちらは形態優美、絵巻物にあるような美しい建物である。

 骨堂・・県重要文化財。宝形造、茅葺きの小さな一間仏堂であるが、全体の調和がよく堂々とした力強い姿である。この建物に落書きがありその中に貞和4年(1348)とあったことから、この建物がそれ以前のものであり、新潟県下で最古のものであることが知られたという。1348年というと足利尊氏の時代で650年も前のこととなる。

 御霊屋・・家康・家光を祀る。日光式の精巧華麗な彫刻装飾に満たされ、軒裏一帯の雲波式、天井の鳳凰、側壁間の松、梅、蓮等、極彩色の彫刻も色あせ落剥した壁面、そうしたものもこの静寂な環境で眺める時はなお美しい。



16. ホテルニュー喜八屋 小木町 

 ホテルのすぐ前が小木港。直江津港へのフェリー、ジェットフォイルが発着し、遊覧船やたらい舟の乗り場もホテルのすぐ前という便利な所である。謡会では男子組「檀風」、女子組「柏崎」を予定している。



17. 矢島、経島  小木町    「鵺」「日蓮」

 南仙峡遊覧船で小木の港をでると間もなく眺めることができると思うが陸からも岩伝いに歩いて行ける伝説の小島である。二つの島の間には朱塗りのたいこ橋がかかっており、島の緑と調和して美しい。

 矢島は良質の矢竹を産したところで、源頼政が紫宸殿の怪物「ぬえ」を退治した時の矢はここの竹で作ったものであったと伝えられる。

 経島は日蓮上人の赦免状を持って佐渡へ渡ろうとした弟子の日朗が漂着し、読経して一夜を明かしたところで、頂上には日朗の石像が安置されている。

 また、このあたり、浪曲「佐渡情話」の舞台でもあったのだろうか、浪曲師「米若」の筆になる「お光の碑」が建っており、「番神の夏の灯恋し今宵また」の句が添えられている。



18.南仙峡遊覧船小木町 

 小木港から沢崎灯台まで往復する40分ほどの船の旅である。前述の矢島・経島の赤い橋、紺碧の琴浦洞穴、沢崎灯台と海の風景と尖閣湾の豪壮な美しさとは対照的な美しさが見られることと思う。小木名物のたらい舟も遊覧船発着場のすぐそばにある。下見の時は冬で波が荒く船が出なかった。本番に期待するところは大きい。



19.長 谷 寺  畑野町長谷 「高野物狂」「世阿弥」

 この寺も蓮華峰寺と同様弘法大師の開基と云われ、「大同2年(807)に弘法大師の創肇なり」と「古伝縁起」に記されているという。

 長谷寺の名は、大和(奈良県)初瀬の長谷寺にならったもので、大和の長谷寺と同じように、石段の両側に牡丹が植えられており、花の寺として知られている。名所めぐりの時に牡丹の花が見られるとよいのだが・・・・

 前にも記したように、佐渡に流された世阿弥もこの寺を訪ねたことがあるようで、「金島集」の中で長谷寺に触れており、これを裏付けるように、境内には

    しぐるるや世阿弥の越えし峠みち    八十八翁修之助

と刻まれた大きな句碑が建っている。



20. 清 水 寺新穂村大野 

 伝えられるところによると、大同3年(808)、僧賢法が京都から佐渡に来た時、佐渡の人には京都は遠くとても参拝できなかろうと、京都の清水寺を模して建立したという。小さいながらも本家同様の舞台があり、花の時期、紅葉の時期、雪の時期それぞれに趣が異なる。



21. かもこ観光センター  両津市

 第3日の昼食をとっていただき、お土産を沢山お求めいただく所。

                                    (高橋 春雄記)

(参加者名簿 90名分 省略)

ガイドブック 佐渡の旅 平成9年度
ガイドブック 佐渡の旅 平成9年度



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