資料   南 紀 の 旅
    (平成11年度 謡曲名所めぐり ガイドブック)

             (ご連絡とお願い 省略)


             観光コースのあらまし


第1日目 5月11日(火) 

 東京駅発(7:31)→新大阪駅(着10:39)→全員集合・バス同駅発(10:55)→和歌山市内(昼食)→玉津島神社・塩釜神社→得生寺→道成寺→白浜(ホテルシーモア泊)(謡会「草紙洗」「道成寺」)

第2日目 5月12日(水) 

 ホテル発(8:00)→田辺市(闘鶏神社)→中辺路町(清姫の墓)→滝尻王子址→野中の清水・秀衡桜(又は牛馬童子)→熊野本宮大社→志古(昼食)→忠度の墓(車中)→熊野速玉大社→徐福の墓→補陀落山寺→勝浦(かつうら御苑泊)(謡会「雲雀山」「巻絹」)

第3日目 5月13日(木) 

 ホテル発(8:30)→熊野那智大社・青岸渡寺→飛瀧神社・那智の滝→那智かまぼこセンター(買物)→那智勝浦(昼食)→紀伊勝浦駅(12:30)


 東京駅参加者  紀伊勝浦駅発 13:03 南紀6号 名古屋駅(着16:29発16:53)

         ひかり140号 東京駅着 18:42 解散

 新大阪駅参加者 着後紀伊勝浦駅にて解散



           主 な 謡 蹟 
 

 謡蹟名               関連曲

 和歌の浦、玉津島神社、塩釜神社   草紙洗、鸚鵡小町

 得生寺               雲雀山

 道成寺               道成寺

 闘鶏神社              義経・弁慶

 清姫の墓              道成寺

 滝尻王子址、秀衡桜         俊寛、錦戸

 熊野本宮大社            巻絹、誓願寺、熊野三山 

 熊野速玉大社            熊野三山

 補陀落山寺             日本神話、平家、采女 

 熊野那智大社、飛瀧神社、那智の滝  熊野三山



           観光のポイントご案内


1. 和歌の浦、玉津島神社、塩釜神社

2. 得 生 寺

3. 道 成 寺

4. 白浜温泉 ホテルシーモア

5. 闘鶏神社

6. 清姫の墓

7. 滝尻王子址

8. 継桜王子、野中の清水、秀衡桜、(牛馬童子像) 

9. 熊野本宮大社

10. 忠度出生地址

11. 熊野速玉大社

12. 徐福の墓

13. 補陀落山寺

14. 南紀・勝浦温泉 かつうら御苑

15. 熊野那智大社、青岸渡寺

16. 飛瀧神社、那智の滝

 

             (観光順路略図 省略)        

 

1.和歌の浦、玉津島神社、塩釜神社  

           和歌山市和歌浦中 「草紙洗」「鸚鵡小町」

 玉津島神社には伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)尊の御子の稚日女(わかひるめ)尊、神功皇后、衣通そとおり姫が祀られている。衣通姫は允恭天皇の妃で絶世の美人といわれ、その麗しさはその名のとおり「衣を通して光り輝いた」と伝えられる。姫はとくに和歌に秀でられ、爾来玉津島神社は「和歌三神」の一つとして、朝廷はもとよりひろく一般からも崇められてきた。

 このことは「草紙洗」の曲中にも「既に衣通姫此道のすたらん事を嘆き、和歌の浦に跡をたれ、玉津島の明神よりこの方、皆此道をたしなむなり」(私どもの祖先衣通姫がこの歌道のすたれることを心配して和歌の浦に垂迹せられて、玉津島明神と祀られましてよりこの方、代々皆この歌道を嗜んでいるのでございます)と記されている。

 曲中に謡われる「和歌の浦」は万葉の昔から風光明媚の地として多くの文人墨客が訪れた所である。和歌の浦を詠んだ歌が万葉集には数多く収められているようであるが、神社境内には次の歌碑が建っている。

   玉津島見れども飽かぬいかにして

           包み持ち行かむ見ぬ人のため

                 巻七 一二二二 藤原卿

 「鸚鵡小町」の曲中に小野小町が業平を追って玉津島明神に参詣した叙述があり、ワキの求めに応じ次の謡にあわせて舞を舞う。「和光の光玉津島、廻らす袖や、波がへり、(中の舞)。和歌の浦に、汐満ちくれば、かたを浪の、芦辺をさして、田鶴鳴き渡る吹き渡る」。玉津島神社の境内には「小町袖掛けの塀」があるが、この故事によるものと思われる。

 ここに引用された和歌は山部赤人の有名な歌で万葉集にも収録されているが、赤人も「草紙洗」の曲中に「人丸赤人の御影をかけ・・」と登場してくる。玉津島神社のすぐ近くには塩釜神社があり、その鳥居と並んで赤人のこの歌の歌碑が建っている。

   和歌の浦に汐みち来れば片男波

           芦辺をさして田鶴鳴き渡る



2.得生寺  有田市糸我町  「雲雀山」

 寺伝によると聖武天皇の御宇、横佩の大臣藤原豊成の娘、中将姫が継母の憎しみにあって、奈良の都から糸我の雲雀山へ捨てられた旧蹟と云われている。

 境内には「中将姫すてられ給ふ旧蹟」の碑が建ち、中将姫御影堂がある。寺には宝物として、「中将姫御一代画伝」「中将姫十五歳の尊像」などが保存されているという。姫が隠れた雲雀山は寺の前方に聳えており、その山頂が得生寺の奥の院で、中将姫本廟があり、中に中将姫の石像が安置されているという。

 

(参考)中将姫縁起

 謡曲の筋書きと少し異なるが寺に伝わる「中将姫縁起」を紹介する。

 中将姫の父君は右大臣藤原豊成。母君は紫の前。大和長谷の観音さまに願いをこめて授かったのが中将姫で長谷観音さまの御化身としてこの世に出られたお方です。

 五歳の春、病で母君が亡くなり継母照夜の前に育てられることになった。継母は豊寿丸を生んでからは、姫を邪魔ものに思い、暗殺しようと毒を盛ったが、かえって仏罰にあたり豊寿丸を亡くしてしまう。そこで継母は一層姫を恨み、父君が諸国巡検の留守中、家士伊藤春時に命じて紀伊国有田郡ひばり山で姫を殺害させようとした。しかし、春時は姫が六巻の称讃浄土経を読誦して、父の現世安穏、亡き母の追善菩提、そして無慈悲な今のお母さんの心持ちが一日も早くやわらぐよう、両親の幸せを祈念するその徳風に感化されて殺害すること出来ず姫の袖を切り取り自分の股に突きさし流れ出る血潮をぬぐい、これが殺した証拠だと都へ持ち帰った。家老国岡将監に先ずその由を伝えたところ、あに計らんや家老は自分の一人娘瀬雲を姫の身代りとして犠牲にし、これが姫のみ首ですと継母を満足させた。

 家士春時は妻と共に再びひばり山に馳せ参じ、ひばり山別所の谷へささやかな草庵を結び木の実を拾い薪を積み山下に出ては往来の人の情を受けて姫を養育した。

 春時夫妻は真砂山真砂寺(今の仁平寺)で剃髪し名を得生、妙生尼と改めた。得生寺の寺名はこの得生の名より興る。

 かくて山の一年が明けた正月に、頼みとする春時が病のために亡くなった。姫は世のはかなさを感じて称讃浄土経壱千巻書写の誓願を起し石の机で写経、朝夕読経の勤行を怠らなかった。

   なかなかに山の奥こそ住みよけれ

           草木は人のとがをいわねば

 一方都では、諸国巡検から帰った父君が姫の姿が見えないのを不審がると、照夜の前は、姫は御不在中、目も当てられぬ不仕だらな行いをしたので勘当しましたといつわった。一人娘を犠牲にした国岡将監が、何とか親子の対面をさせようと計り、諸国巡検の報告に熊野三山参りをなされるよう指示し、その帰途、雲雀山で狩をさせ、計らずも親子の対面、うれしくも都へ連れもどすことになった。時に姫は十五歳の春。

 都へ帰った姫はつらつら憶うのに、豊寿丸、瀬雲さん等私のために犠牲になって下さった、この方々の菩提を弔わねばとて、十七歳の時大和の当麻寺に足を運び一心専念仏道を行ぜられました。

 ある時一人の尼僧が現れて蓮の茎を用意せよと告げられた。姫は早速その由を天子に申し上げたところ、たちまち百駄の蓮の茎が集り、老尼の指図で姫がその糸で一丈五尺の浄土曼荼羅を織り示されました。時に天平宝字七年。この曼荼羅感得の時、老尼は十三年ののち汝を迎えて花のうてなで会おうと言われた。やがてその年、宝亀六年四月十四日、二十五菩薩のご来迎があり二十九歳で大往生を遂げられました。



3.道成寺川辺町「道成寺」

 道成寺は天武天皇の勅願により皇妃藤原宮子の生地に紀道成が建立したもので、天音山千手院という。

 仁王門前の石段は象徴的で、本曲の乱拍子はこの62段の石段を上ることを現したものといわれる。

 境内には安珍が鐘もろとも焼かれた「鐘楼址(鐘巻の跡)」、溶けた鐘と安珍の亡骸を埋めた「安珍塚」、再び鋳造された鐘がまた落ちた所、すなわち本曲の鐘楼址である「再興鐘楼址」などがある。

 「再興鐘楼址」があって鐘がない理由については次のような後日譚がある。鐘は無事鐘楼に引き上げられて納まり、ワキ達はめでたしめでたしで本坊へ帰ったけれども、その後鐘は破れた音しか出ないで、何度鋳直しても鳴らない。その上病人は出る、災害は起る、というわけで、この鐘は山林に捨てられた。200年余の後、豊臣秀吉の根来攻めの時、家臣の千石権兵衛が陣鐘に使い、再び行方が判らなくなったのを、後に奇瑞により発見され、京都の中京区寺町通りの妙満寺に奉納された。妙満寺は昭和42年洛北の岩倉の幡枝に新築移転したため、鐘も一緒にここに運ばれたとのことである。

 本堂の一室には安珍清姫の像があり、道成寺縁起絵巻が備えてある。寺の僧侶が弁舌巧みに解説してくれるが、参考までに寺で求めた絵はがきに記された解説を掲げてみる。最後のハッピーエンドの部分は通説と違いいかにも道成寺らしい解説となっている。


(参考)道成寺縁起絵巻絵はがきの解説(絵はがきは省略)

その1 奥州白河から熊野詣での修行僧安珍は、熊野庄司の女清姫に、参詣を遂げた帰途必ず立ち寄ると約束をする。

その2 約束の日が過ぎても帰らぬ安珍の後を追うて、清姫は姿もとり乱して走り出す。

その3 上野の里で追いついた安珍に、人違いで夢にも知らぬと、すかされた清姫は炎を吹きつけた。安珍は数珠も経本もうちすてて。

その4 安珍は日ごろ念ずる熊野権現に救いを乞うた。清姫は眼くらんでひるむうち、安珍は姿をかくした。やがて正気にかえった清姫は、激怒昂潮ついに変化身となって安珍のあとを追う。

その5 一足さきに渡った安珍から頼まれたと、渡守から拒まれた清姫は、遂に一念の毒蛇と化して水嵩たかき日高川を、錦のウロコ一角で手足のない、清姫独特の大蛇は、波上を滑るように渡って、いよいよ道成寺へ。

その6 日高川を渡った安珍は、道成寺に救いを請うた。事の仔細をきいて寺僧たちは、安珍を大鐘の中に隠した。さて清姫は?

その7 日高川からやがて道成寺へ、そして安珍の匿れた“鐘”を巻いて竜頭をくわえて尾をもて叩くこと三ときあまり・・・と序文にゆう。鐘巻はこの物語の象徴。

その8 安珍は鐘の中で焼死、清姫は入江に入水して果てたが、共に蛇道に堕ちたと訴えをきいた道成寺では法華経の供養を施した。その功徳で安珍と清姫は、めでたく天国に結ばれたと、住持に告げてハッピーエンド。熊野権現が安珍、道成寺観音が清姫と現れて、世を戒めたのだ。

 

4. 白浜温泉 ホテルシーモア  白浜町

 白浜温泉は和歌山県南西部にあり、別府・熱海と並ぶ大温泉地で、有馬・道後とともに最古の温泉としても知られる。日本書紀や万葉集に“牟婁(むろ)のいで湯”の名で登場する。

 現在の温泉は大正年間ボーリングに成功、関西の奥座敷として多くの観光客を集めている。無色透明の食塩含有炭酸泉で、湧出量一日2万キロリットル、神経痛・胃腸病に効くという。

 太平洋に面し、紺碧の海、真っ白な砂浜の景色ばかりでなく、海水浴も楽しめる温泉。

 ホテルシーモアは、新しくゆったりした造りで全室海に面しており、八代将軍徳川吉宗公が幼少の頃入浴したという露天風呂「梅樽の湯」に浸って、太平洋を眺めるのも一興。

 恒例の謡会では「草紙洗」「道成寺」を予定しており、黒潮にもまれた白浜ならではの新鮮な海の幸で、親睦を深めて頂ければ幸いです。

 

5.闘鶏神社田辺市湊町   「義経・弁慶」

 田辺市は紀州第一の漁港、熊野詣での大辺路と中辺路の岐れ路の地点であり、また熊野水軍田辺湛増の根拠地でもあった。

 この神社は田辺の宮、新熊野権現田辺の宮、新熊野鶏合大権現、闘鶏神社と4度も社名を変えているが、現在の社名は次の故事による。

 源平の戦いは一の谷の合戦から海上戦に移り、当時最強を誇った熊野水軍の動向がその勝敗に大きな影響を与えることになり、熊野水軍の統率者である熊野別当湛増に対する源平双方の働きかけは激しさをきわめた。義経の命を受けた弁慶は急いで田辺に帰り、父湛増の説得に成功、湛増は白い鶏7羽、赤い鶏7羽を闘わせて、神意を確かめ、湛増指揮のもと弁慶を先頭に若王子の御正体を奉持、金剛童子の旗をなびかせて総勢二千余人、二百余の舟に乗って堂々と壇ノ浦に向かって出陣、源氏の勝利に大きな役割を果たした。

 弁慶は湛増の子としてこの地で誕生したという。この神社の社務所には「弁慶産湯の釜」「湛増着用の鉄烏帽子」「湛増所持の鉄扇」「義経奉納の横笛」が保存され、闘鶏の場面を描いた絵も掲げられている。

 境内には大きな「湛増弁慶の像」が建てられており、市内には「弁慶腰掛けの石」「弁慶観音像」等がある模様である。



6. 清姫の墓中辺路町真砂「道成寺」

 曲中ワキの言葉に「昔此所に、真砂まなごの庄司と云う者あり、彼の者一人の息女を持つ」とある。真砂の里は田辺市から熊野本宮に向かう街道の途中にあり、清姫はここで生まれたという。ここで熊野詣でに来た安珍と出会い、道成寺縁起絵巻の物語の発端となる。

 しかし、この地の伝説では、安珍の裏切りを知った清姫は「この世で添えないものならば、せめてあの世で」と自宅近くの渕へ身を投じてしまったという。

 里人たちはこの渕を「清姫渕」と呼び、清姫の霊を慰めるために「清姫の墓」を建立し供養を続けているという。

 千年以上を経て「清姫渕」や「清姫の墓」の姿にも幾多の変遷があったことであろう。現在、墓のすぐ下には清流富田川が流れているが、その一角が「清姫渕」なのであろう。一糸まとわぬ清姫がたけなす黒髪をなびかせつつ泳いだ渕・・せめてあの世でと清姫が身を投げた渕・・

「墓」は立派に整備され、小さなお堂も建てられている。御詠歌も添えられていた。

    煩悩の焔も消えて今ここに 

              眠りまします清姫の魂

(参考)清姫の里の伝説

 墓の近くにこの里の伝説が掲げられていたので、紹介する。

 清姫の父真砂の荘司藤原左衛門之尉清重は妻に先立たれてその子清次と暮らしていた。ある朝散歩の途中黒蛇に呑まれている白蛇を見て憐れに思い助けた。数日後白装束の女遍路(白蛇の化身)が宿を乞い、そのまま清重と夫婦の契りを結び清姫が誕生した。清姫が13歳の年、毎年熊野三山へ参拝の途中ここを宿としていた奥州(福島県)白河在萱根の里安兵衛の子安珍16歳は、みめうるわしい清姫に稚い頃より気をとられて、行く末はわが妻にせんとひそかに語らい、姫も真にうけて安珍を慕った。ある夜安珍は障子に映った蛇身の清姫を見てその物凄い形相に恐れをなした。それとは知らぬ娘は思いつめて遂に胸のうちを語り、いつまでも待たさずに奥州へ連れていってほしいと頼んだ。安珍は突然の申し入れに大いに驚き、これはなんとかしてさけようと思い、我は今熊野参拝の途なれば必ず下向には連れ帰るとその場のがれの申しわけをされた。姫はその真意を知らず安珍の下向を指おり数えて待ちわびたが、あまりにもおそいので旅人に尋ねると、あなたの申される僧は先程通られ早十二三町も過ぎ去られたと聞くや、さては約束を破り道を変えて避けられたのだと察し、あまりの悔しさに道中に伏して泣き叫んだ。やがて気をとり直して汐見峠まで後を追い杉の大木によじ登り(現在の捻木)、はるかに望めばすでに田辺の会津橋を渡り逃げ去る安珍を見て、燃えくるい、生きてこの世でそえぬなら死して思いをとげんと立帰り、荘司が渕に身を投げた。その一念が怨霊となり道成寺まで蛇身となって後を追い、鐘にかくれた安珍を七巻半して火炎を出し焼死させ思いをとげたという。時延長6年8月23日(今から約1050年前)。後里人達はこの渕を清姫渕と呼び、霊を慰めるための碑を建立、清姫の墓として毎年4月23日と11月23日に供養を続けている。墓に登る階段も七巻半に因んで七段半に作られている。

        昭和53年4月   福巌寺第十二世 霊岳誌        」



7. 滝尻王子址中辺路町滝尻「俊寛」「錦戸」

 「俊寛」の曲中に、成経・康頼の詞として「我等都に在りし時、熊野参詣三十三度の、歩みをなさんと立願せしに・・・都よりの道中の、九十九所の王子まで・・」とある。

 この熊野詣でと九十九所の王子について、ここ滝尻王子にある「熊野道」と題する解説に要領よくまとめられているので紹介する。

 『熊野路は浄土への道であった。熊野の神々にあこがれた人々が、たぎる信仰を胸に、山を越え、海ぞいをよぎって行った。それは皇族から庶民まで、中世から近代にかけて果てしなく続いた「蟻の熊野詣」であった。

 この熊野路の名を高めたものは、平安の中ごろから鎌倉後半にかけての熊野御幸だった。延喜7年宇多法皇から弘安4年亀山上皇まで実に374年間にわたり、100回以上の御幸であったといわれている。

 早朝京都を出発、まず淀川を船で大阪府下に下る。それから陸路南に向かい、田辺、中辺路をたどって熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の順に参るのが順路である。

 往復の日数は20日から1ケ月、一行の人数は最大で814人、最小の時で49人、平均300人前後にのぼったといわれている。上皇、法皇は白ずくめの服装に杖という山伏に近い姿、道筋の各所に「熊野九十九王子社」と総称される休憩所が設けられ、そのうちわが中辺路町内には滝尻王子より道湯川王子まで13王子を数えるのである。』

 滝尻王子は熊野古道の起点とされれ、九十九王子の中でもベスト5に数えられる重要な王子である。皇族たちもここで歌会を開いたり垢離をとったり、神楽を聞いたりしたという。小ぢんまりとした社が建てられ、境内には熊野に28回も詣でたという後鳥羽上皇の歌碑が建てられている。

     おもひやるかものうわけのいかならむ

              しもさへわたる山河の水

 謡曲「錦戸」のシテは泉三郎忠衡で奥州の藤原秀衡の三男である。忠衡の出生について次のような伝説が伝えられている。

 滝尻王子の裏側から急勾配の山道を登ると、伝説の「乳岩」がある。秀衡夫妻が熊野詣での道中、妻女が産気づき、この岩屋で子を生んだという。夫妻は熊野権現に願をかけて授かった子供を、五大王子のお告げに従いこの岩屋に預けて、熊野本宮に詣でた。参拝を終えて急ぎ帰ってみると、子は岩から滴り落ちる乳を飲み、大きな狼に守られて元気に育っていたという。この子が後の泉三郎忠衡というのである。以来人々はこの岩屋を「乳岩」と呼ぶようになったという。

 乳岩までは急な坂道とのことで今回は訪ねないが、境内には「乳岩」への道案内を示す大きな岩があり、王子には秀衡が奉納したといわれる黒漆の小太刀が神宝として伝えられているという。

 滝尻王子址の道路反対側に熊野古道館がある。この建物は、熊野古道を中心にし中辺路の観光案内と歴史紹介を兼ねた休憩施設として、平成6年度町造り特別対策事業の認定を受け設立された由。熊野懐紙や古道周辺の埋蔵品などの展示や、グッズ販売等のコーナーがある。



8. 継桜王子、野中の清水、秀衡桜、(牛馬童子像)

                   中辺路町野中「錦戸」

 滝尻王子から本宮大社に向かって、国道311号線を15キロほど上ったところに「野中の清水」がある。山を越えて熊野に旅する人が疲れを癒したこの清水は、今も絶えることなく湧きだし、日本名水100選にも選ばれている。

 近くには継桜王子があり、樹齢1000年といわれる野中の一方杉があり、この杉の枝はどれも那智山の方向に向かってだけ枝をのばしている。

 奥州の藤原秀衡夫妻が熊野詣での途中、滝尻王子の奥の岩屋に子供を預けて熊野への道を急いだ。その途中の野中で妻の桜の杖を地に挿し、もし子供が無事生育すればこの桜も根づくであろうと占った。帰途果たして桜は根づいており、子供も無事育っていたという。

 この伝説の桜は今では四代目、もとは継桜王子前にあったが、今はとがの木茶屋のそばに植えかえられ、毎年みごとな花を咲かせているという。

 バスが野中の清水で駐車困難の時は「牛馬童子像」のところに立ち寄り、小憩する。

 箸折峠(はしおりとうげ)の宝塔のそばにある。牛馬2頭の背にまたがった僧服姿の石像である。これは平安初期、わずか2年で退位を余儀なくされ、出家遍歴の末、熊野詣でに訪れた花山法王の旅姿であると伝えられている。



9. 熊野本宮大社  本宮町本宮  

           「巻絹」「和泉式部関係」「誓願寺」

 この大社は熊野三山(本宮、新宮、那智)の首位を占め、全国に散在する熊野神社の総本宮で、熊野大権現としてあまねく世に知られている。

 熊野本宮はもと熊野川中州の大斎原(おおゆのはら)にあったが、明治22年の大洪水によって殆どの社殿が流され、明治24年旧社址の西の台地に移された。これが現在の社殿である。

 社殿は左から第一殿と第二殿が相殿となっており、第三殿が中央にあって「巻絹」に謡われる御本殿の證誠殿である。祭神は家津美御子(けつみみこ)大神(素戔嗚尊)であるが、その本地仏名、すなわち本地垂迹によるもとの仏名が阿弥陀如来であることから、「證誠殿は阿弥陀如来」と謡われているわけである。一番右が第四殿の若宮で天照大神をお祀りしてある。

 境内は平安の昔と変わらぬような静寂を保っている。黒いほどの古杉の森。千木や勝男木の木口を飾る金具が、昼下がりの陽光を反射して、渋いこけら葺きの社殿をいくらか華やいだものにしている。九十九王子に休憩しつつ、遠路をたどってきた中世の旅人たちは、この社の前に立つとき、いったい何を感じたのであろうか。極楽往生という願いひとつに苦難の道を歩んできた人々。その苦行の深ければ深いほど、熊野権現の霊験もまた、あらたかとなったのであろう。

 本宮前の境内の一隅に「和泉式部祈願塔」がある。苔蒸した小型の五輪塔である。塔の傍らの案内板には次のように記されている。

 「    和泉式部 祈願塔   平安朝の宮廷女人歌人

 熊野へ詣でたりけるに女身のさわりありて、奉幣かなはざりければ

   “ 晴れやらぬ身に浮雲のたなびきて

           月の障りとなるぞかなしき ”

 その夜、熊野権現の霊夢ありて

   “ もろともに塵にまじわる神なれば

           月の障りの何かくるしき ”

 かくて、身を祓い清めて、多年あこがれの「熊野詣で」を無事すませしと云う。」

 これについては別の伝承もある。式部が本宮大社北方約4キロの伏拝(ふしおがみ)まで来た時に月の障りとなり、遠くに見える本宮を伏し拝んで、前述の歌を詠み、引き返そうとしたが、熊野権現の夢の告げがあったのでそのまま参詣したというもので、九十九王子の一つで眺望の素晴らしい伏拝王子の傍らに和泉式部の供養塔が建てられている。(伏拝王子へはバスが行けないのでコースから割愛した)

 旧社地 「大斎原」

 「巻絹」前段の舞台である「音無天神」はこの地にあったが、大洪水で被災し、現在は仮に造営された石碑に合祀されている。ここは明治22年まで本宮大社があった場所であるが、現在の本宮大社から700メートルほど離れている。大洪水の後、被害の少なかった上4社は現在の所に遷座されたが、被害の大きかった中4社、下4社ならびに境内摂末社は、この地に石碑二殿を造営し合祀したとのことである。

 音無天神は本宮大社の末社で、他の末社とともに東方の石碑に祀られている由である。音無しの梅は昔の一の鳥居付近にあったが、昭和28年の水害で倒れ伐採されたという。


 「誓願寺」のワキ一遍上人は「我此度三熊野に参り、一七日参篭申し、證誠殿に通夜申して候へば、あらたなる霊夢を蒙りて候」とあるように、ここ熊野本宮で宗教上の啓示を得たのである。

 旧社地の一角に「一遍上人の名号碑」が建てられている。碑には「南無阿弥陀仏」と刻まれているが、この文字は一遍上人の郷里四国松山の宝巌寺の上人自筆のものと伝えられる。この碑は昭和46年4月14日、春の例大祭の日に、遊行七十一世、時宗管長藤井隆然師以下役僧6名の来山を得て開眼供養の除幕式が行われたものの由である。碑の土台石は上人ゆかりの全国時宗の寺々より奉納され、寺の銘が刻まれている。

 碑の入り口、右手には一遍上人の熊野神勅の由縁を石に彫って、その徳を讃えている。

 なお、中辺路から本宮町に入り湯の峰付近の街道に、苔むした「一遍上人爪書きの岩」がある。



10. 忠度出生地址(車中)熊野川町宮井「忠 度」

 本宮大社から新宮に向かう途中、新宮川と瀞峡から流れてくる北山川が合流する音川地区の国道に沿って左手に、「薩摩守忠度朝臣出生之地」と記された立て看板が見えてくる。そして右手の山の中腹には忠度を祀る「若宮神社」がある。



11. 熊野速玉大社新宮市「熊野三山の一」

 熊野本宮大社、熊野那智大社と並び熊野三山のひとつ。神代、神倉山に祀られていた神を現在地に移し、以来神倉山を元宮、ここを新宮と呼んだという。

 熊野速玉大神(伊弉諾尊)を主神に12神を祀る。社殿の入口近くには社宝を納めた神宝館があり、その前には高さ20メートル、樹齢1000年以上という御神木ナギの巨木がそびえている。このナギは平重盛の手植えといわれ、家内安全・海上安全・縁結びの信仰を集め、この実で作られた人形は家内安全のお守りとして人気がある。 

(参考) 熊野速玉大社の御祭神と本地仏。熊野三山と謡曲 

 かって12の社殿があった本宮大社は、洪水のため現在は上4社のみとなっているが、ここの熊野速玉大社は12社および末社の社殿が全部揃っており、朱塗りの建物が緑の森と調和して壮観である。社殿にはそれぞれの祭神が祀られており、しかも本地垂迹説により、それぞれに本地仏がつけられている。これらをまとめると次のようになる。


社殿              祭神          本地仏

上4社

 〔御主神〕第1殿(結 宮)熊野結大神(伊弉冉尊)   千手観音

 〔御主神〕第2殿(速玉宮)熊野速玉大神(伊弉諾尊)  薬師如来

      第3殿(證誠殿)家津美御子命(素戔嗚尊)  阿弥陀如来

               熊野における御神名。樹木、植物の守護神

               国常立命くにとこたちのみこと

               国土の主宰神

      第4殿(若 宮)天照大神          十一面観音

               伊弉諾・伊弉冉両神の御子、皇室の御祖神

中4社

      第5殿(禅地宮)天忍穂耳命         地蔵菩薩

               天照大神の御子、国土平定の神

      第6殿(聖 宮)瓊々杵命          龍樹菩薩

               天孫、日向国高千穂に降臨

      第7殿(児 宮)彦火々出見命ひ       如意輪観音

               瓊々杵命の御子

      第8殿(子守宮)鵜葦草葦不合命       聖観音

               彦火々出見命の御子。神武天皇の父

下4社

      第9殿(十万宮               普賢菩薩

         一万宮)  国狭槌命・豊斟渟命    文殊菩薩

               神代七代の第二、第三の神

      第10殿(勧請宮)うい土煮命         釈迦如来

               神代七代の第四の神

      第11殿(飛行宮)大斗之道命         不動明王

               神代七代の第五の神

      第12殿(米持宮)面 足 命         毘沙門天

               神代七代の第六の神

      13        奥御前三神殿

               造化三神で、天地の初めに高天原に現れた神々

      14        新宮神社

      15        熊野エビス神社


 これら御祭神の神々は謡曲にもかなり多く登場しているようである。私が少し調べただけでも、伊弉諾・伊弉冉尊は「大蛇」に、素戔嗚尊は「大蛇」「草紙洗」「草薙」に、国常立命は「龍田」(天祖として)に、天照大神は「絵馬」「三輪」に登場してくる。瓊々杵命は直接には登場しないようだが、その妃の木花開耶姫は「難波」「桜川」に、彦火々出見命はその妃の豊玉姫とともに「和布刈」に謡われている。

 また、「檀風」には「本宮證誠殿、阿弥陀如来の誓ひにて・・・新宮薬師如来の浄瑠璃浄土は・・・さてまた飛龍権現は・・・瀧本の千手観音は・・・」と、本宮、新宮、那智の熊野三山の本地仏が謡い込まれている。



12. 徐福の墓新宮市

 謡曲とは直接の関係はないが、徐福の墓が速玉神社の近くに立派に残っている。

 不老不死は人間永遠の願望である。2200余年前、かの秦の始皇帝は、天台烏薬(うやく)と呼ばれる不老長寿の霊薬を求めて、仙術師・徐福を東方海上にあるという蓬莱島へつかわした。徐福が長い航海の末到着したのが熊野浦であった。現在の阿須賀神社付近とも、熊野市郊外の波田須の浦であったとも伝えられる。ともあれ阿須賀神社裏の蓬莱山には徐福の求めた天台烏薬が自生しており、実際に腎臓病やリューマチに特効を示すそうである。

 徐福は霊薬を得たものの、中国へ帰ることなく、この地で農耕、漁法、捕鯨、紙漉きなどの技術を住民に教え、天寿をまっとうしたという。中国風の立派な楼門をくぐると中は公園風に整備されていて、巨大なクスノキの下に大きな墓碑が立ち、傍らには、徐福の像や殉死した7人の従臣の墓が並んでいる。



13. 補陀落山寺  那智勝浦町 「日本神話」「平家」「采女」

 那智駅から100メートル、国道を越えてすぐの所に補陀落山寺がある。寺伝によれば熊野灘に漂着したインドの裸形上人の開基という。上人は那智の滝で千手観音を発見し、この一帯を観音信仰の霊場とした。観音信仰では、南の海の向こうに観音菩薩の聖地があるという。この聖地を求めて、何人もの僧が船出した。これが補陀落渡海である。小さな小舟に小屋を建て、四方を鳥居で囲む。僧はわずか1か月の食料と灯明をもって乗り込み、外から釘付けをして出られないようにする。そして南の海に漕ぎ出してゆくのだ。渡海する僧には「渡海上人」として僧位が贈られたが、聖地をめざして小舟で大海に出るということは確実に死を意味する。記録によると、渡海は868(貞観10)年から1722(享保7)年まで、約20回近く行われた。その中には同行者13人を引き連れて賑々しくでかけた者もいれば、現世への執着と死への恐れで逃げ帰った者もいたという。逃げ帰った僧は、村人たちに忌み嫌われ、無理やりにまた舟に乗せられたという悲しい話も伝わる。現在、寺には1531(享禄4)年に渡海した足駄上人の時に使われた舟の腰板と代々上人の墓が残されている。

 境内には「神武天皇頓宮(仮宮)跡」の碑がある。神武天皇は熊野速玉大社に祭神として祀られている鵜葦草葦不合命の御子で、日本初代の天皇である。神武天皇生誕の地は現在の宮崎県高原町とされ、九州で成長の後、東征のため現在の日向市のあたりから船出する。難波上陸を果たせず、ついに紀伊半島を廻って今の新宮市佐野の地に上陸した。この地に行宮をおいた後、八咫烏に先導されて熊野から大和に進軍、畝傍山麓の橿原神宮の地で即位することとなる。

 補陀落山寺の裏山には「平維盛の墓」がある。維盛の名は謡曲には登場しないが、清盛の嫡男重盛の長子である。性格的に武人に向かぬ人のようで、半年前の弟の清経の入水は一層彼の厭世観を募らせたのかも知れない。

 寿永3(1184)年3月14日、密かに屋島の陣を脱出した維盛は高野山に入り、滝口入道の下で剃髪し、熊野三山に参詣した後、那智の浦に向かう。補陀落渡海出発地の補陀落山寺から維盛も舟を出して、山成島の松の幹に自らの名と年と、入水の旨を書き残し、滝口入道の打ち鳴らす鐘の音につれて、従者二人とともに投身する。時に寿永3年3月28日であった。

 また、謡曲「采女」はこの寺と直接の関係はないようであるが、曲中に「補陀落」の語句が出ているので、参考までにその部分と大意を次に掲げる。

 「龍女が如く我もはや。変成男子なり采女とな思い給ひそ。しかも所は補陀落の。南の岸に至りたり。これぞ南方無垢世界生れん事も頼もしや。」

 大意「龍女の様に、自分は早や変成男子(女人が男子に変る事)で、采女ではなく、所も補陀落(観音の浄土)である。以後、南方無垢世界(龍女成仏の世界)に生まれることが出来ようと頼もしく思われる。」



14. 南紀・勝浦温泉 かつうら御苑   那智勝浦町

 南紀・勝浦温泉は白浜温泉とともに南紀を代表する温泉。美しい海岸線に沿って各所に温泉が湧き、古くから湯治場として知られる。“紀の松島”と呼ばれる景色のよい処があり、島巡りの観光船が行き交う。宿ごとに自前の源泉を持ち、泉質が少しずつ違うのがここの特徴。硫黄泉系統が多い。

 かつうら御苑は波静かな那智湾に面して建つ大型ホテルの一つ。那智湾の向こう、青々とした山脈の間に白糸のように落ちる那智滝を遠望する露天風呂が自慢。

 勝浦港はカツオ・マグロの水揚げが多く、捕れたてのマグロ・カツオ料理等が楽しみ。

 謡会では、南紀ゆかりの「雲雀山」「巻絹」を謡う予定。

 

15. 熊野那智大社・青岸渡寺  那智勝浦町 「熊野三山の一」

 熊野那智大社は、熊野本宮大社、熊野速玉大社とともに熊野三山と呼ばれる。

 社殿は、参道入口から500段近い急な石段を登るが、登り口に多くの杖を用意してあり、登り降りの助けになる(無料)。一説に石段の数を467段(読むなとの意)ともいう。

 主神は熊野夫須美大神で本地仏は千手観音である。社伝によると大社の根源は飛瀧権現で、大滝を神として崇め、その近くにもとの社殿があったが、のちに現在の社地に移ったという。社殿は正面に切妻妻入の本殿5棟と左に八社殿1棟が配されている。社殿の横に宝物殿がある。八社殿と宝物殿の中間に八咫烏を祀る御県彦みあがたひこ神社があるが、八咫烏は、神武天皇が那智の瀧を海上から認め、熊野に上陸した時に道案内をしたという伝説の烏である。

 境内にはしばしば熊野に参詣したという平重盛手植えの楠が大木となってそびえている。

 毎年7月14日には「那智の火祭り」の神事が行われ、ここがスタート地点となる。

 那智大社に隣接して青岸渡寺がある。仁徳天皇の時代にインドから漂着した僧が、那智の瀧に辿り着き開基したものという。平安時代以降は、熊野三山の本地仏をまつる地として神仏習合の一大修験場となり、浄土を願う人々はこの寺を、観音菩薩の霊場をめぐる西国三十三所観音霊場第一番札所として、厚い信仰を寄せた。

 本堂は何回も焼失、現在の本堂は、豊臣秀吉の再建になる桃山時代の建築で、重要文化財。(天台宗)

 右手に三重塔があり、那智の滝見の適所。



16. 飛瀧(ひろう)神社・那智の滝    那智勝浦町 

 那智大社を降り車で2〜3分移動すると、那智の滝を御神体とする飛瀧神社があり、滝までの途中に133段の石段を下るが、「那智の火祭り」の勇壮な行列の終点となる。

 那智の滝は、高さ133メートルの日本一の大滝である。那智山中には、那智48滝と呼ばれる程滝が多く、古くからこれらの滝に打たれて修行する行者が絶えなかったという。

 那智の滝の滝壺のすぐ下流にある「文覚荒行の滝」は文覚が修行した場所とのことで、荒行で命を落としたところを、不動明王の童子2人に助けられたという話も伝えられている。


(参考)

その他の謡蹟

 南紀謡曲名所めぐりのコースを決めるにあたって、時間の関係、交通事情の関係などで割愛した所がかなりありますので、参考までに、今回のコース近辺の主な謡蹟を掲げてみます。機会を見つけてぜひお出かけ下さい。


 謡蹟名     場所         関連曲目

大阪府

 江口の里    大阪市東淀川区    江 口

 難波宮跡    大阪市中央区     難 波

 四天王寺    大阪市天王寺区    弱法師

 住吉大社    大阪市住吉区     高 砂
 
 仁徳天皇陵   堺市大仙町      難 波

 蟻通神社    泉佐野市長滝     蟻 通

和歌山県

 高野山     高野町        高野物狂

 藤白神社    海南市藤白      俊 寛

 橋杭岩     串本町橋杭      高野物狂

三重県

 弁慶産屋の址  紀宝町        義経弁慶

 花の窟神社   熊野市        日本神話

 鬼ケ城     熊野市        田 村

 阿漕ケ浦    津市         阿 漕


                   (高橋春雄・箱田俊雄記)


(参加者名簿 92名分 省略)

ガイドブック 南紀の旅 平成11年度
ガイドブック 南紀の旅 平成11年度



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