は じ め に
私たちはことぶき大学で3年間の課程を卒業、本年から大学院生として学んでおります。ことぶき大学では分教場学習として、各地域で独自の学習を行っています。江古田地域でも年2回、地域センターにおいて、大学院生を含め地域の全学生が集まり学習活動を行ってきております。
その企画と実施は、その年の大学院生が中心になって進めていたようです。本年度は私たちの順番になると先輩から教えられていましたので、およそ1年前から打合せをもちテーマの選定と準備を進めてまいりました。その結果、一同で地域内の古跡や神社仏閣、その他を見て廻り、その概要を全員でまとめる、更に見学の過程で興味を覚えたことをテーマに各自が何か書いて見ることとしました。その結果がこの資料でございます。初夏の分教場学習では参加者6名から一言づつその体験談を発表してもらう予定です。
これに類する資料としては、平成6年3月に江古田地域センターから「えこだの見どころ ― ガイドブック ―」という書物が発行されております。大変貴重な資料ですが、現在在庫はないそうです。またここ10年余の間にこの地域もかなり変っておりますので、この本を手本にしながらまとめてみました。素人集団のつたない作品ですが、江古田地域に住む方々が地元のことを知っていただく上で、少しでもお役に立てば望外の幸せでございます。
平成17年7月
ことぶき大学大学院
平成17年度 江古田地域グループ
高橋春雄 高橋ふさ 田中一久 西出英子
樋口喜美代 百瀬愛子(五十音順)
「江古田散歩」 目次
1. 江古田1丁目 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
中野区立みずのとう幼稚園/野方給水塔・みずのとう公園/蓮華寺/みずの塔
ふれあいの家/江古一御獄公園/東橋と江古田植物化石層/大橋と往時の風景画/
不動橋と絵、不動尊/関東バス丸山営業所/江古田1丁目地図
2.江古田2丁目 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 20
中野区立江古田図書館/野方消防署江古田出張所/第七中学校/旭公民館/江古田
小学校/経塚地蔵/江古田二丁目公園/武蔵野療園病院・友愛ホーム/江古田2丁
目地図
3.江古田3丁目 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 29
療育センターアポロ園/本多山公園/東福寺・金の峰幼稚園/練馬すずしろの道標
識/江古田三郵便局/氷川神社/江古田合同住宅/江古田の森(北江古田遺跡、江
古田遺跡と江古寺、国立療養所中野病院、江古田の森保健福祉施設の整備(計画)
北部防災公園の計画、北江古田公園と洪水調節池)/慈生会病院/ベタニアホーム
/江古田川と下徳田橋/江古田3丁目地図
4.江原町1丁目 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 57
江原保育園/クレデイセゾン/江原公園/東京こども図書館/江原小学校/江原
キャンパス(江原小学校地域生涯学習舘)/須賀稲荷神社、江原町公民館(記念碑、
新道記念之碑)/千川上水・江古田分水について/江原町1丁目地図
5.江原町2丁目 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 71
江古田地域センター/江古田通り(チャンチキ通り)/都営地下鉄大江戸線
「新江古田駅」/江原町2丁目地図
6.江原町3丁目 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 76
江原の観音様/江古田原観音堂(江古田不動尊、沢山の石仏、整地碑)/こぐま公
園/江原の地蔵様/江原屋敷森緑地(中野区立)/目白通り(通称十三間通り)/
江原町3丁目地図
7.松が丘1丁目 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 87
松が丘公園/中野清掃事務所/子育て地蔵/松が丘シニアプラザ/妙正寺川公園
と調節池/中野区立哲学堂公園(哲理門、四聖堂、六賢台、宇宙舘、絶対城、三学
亭、筆塚・硯塚)/松が丘1丁目地図
8.松が丘2丁目 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 103
了然寺/妙正寺川と橋(第十五号橋、新開橋、大下橋、曙橋、山下橋、沼江橋、
大北橋、江古田橋、妙正寺川、江古田川との合流点、江古田公園橋、天神橋、下田
橋)/片山橋、荒玉水道/片山小さな緑地/北野神社、菅原道真公没後千年記念碑
/松が丘保育園/江古田公園(江古田ヶ原沼袋古戦場の碑、江古田地区区画整理記
念碑、熊沢宗一氏句碑)/松が丘2丁目地図
9. 江古田地域周辺 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 115
徳殿公園/中野区立歴史民俗資料館/丸山塚公園/明治寺(百観音)/平和の森
公園/沼袋氷川神社/新井薬師/御霊神社/江古田地域周辺地図
(付録) 「私の調査記録」
○ 江古田川、妙正寺川の上流・下流を訪ねて 高橋 春雄 ・・・・・・125
○ 江古田のお茶 高橋 ふさ ・・・・・・136
○ 野方給水塔 田中 一久 ・・・・・・139
○ 江古田の歴史 樋口喜美代 ・・・・・・141
○ 放鷹、鷹狩の由来 西出 英子 ・・・・・・143
○ 江原の移り変わりについて 百瀬 愛子 ・・・・・・144
本書作製 主要参考文献 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・148
編集後記 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・149
江古田川、妙正寺川の上流・下流を訪ねて
ことぶき大学大学院 高 橋 春 雄
○ はじめに
私たちことぶき大学に学び、江古田地域分教場に属する人たちにとって一番身近な川といえば、地域内を流れる江古田川と、江古田川が松が丘で合流する妙正寺川であろう。
江古田川は江古田3丁目の江古田の森を一周し、江原町2丁目、1丁目、江古田1丁目を流れ、松が丘2丁目で妙正寺川に注ぐ。妙正寺川は松が丘2丁目と沼袋の境を北上、江古田川と合流した後は南東に流れ、松が丘1丁目の哲学堂の南を通って新宿区に向かう。
この二つの川に架かる橋は沢山あり、それぞれに由来、歴史を持っており、また二つの川とも洪水調節のための施設なども施されている。その主要なものは本文の中で紹介されている。
今回江古田地域の史跡、神社仏閣、諸施設等をいろいろ調べる過程で地域を流れる川についても大いに興味をそそられた。現在は川の形をなしているのは上記の二つの川だけであるが、一昔前、この地区が農地だった頃には千川上水から分水した流れがこの地区を流れて田畑を潤していたらしい。
また、江古田川、妙正寺川の上流や下流はどのようになっているのだろう。いろいろ疑問と興味が湧いてきて、上流下流のことを少し調べてみようと思い立った。そして上流は千川上水、玉川上水、多摩川、奥多摩湖へ、下流は神田川を下って秋葉原の先で隅田川に注ぐまでを訪ねる結果となった。
以下にその概要を写真をまじえて記すこととする。(写真28枚添付省略)
◯ 妙正寺川の上流
地域内の妙正寺川と橋については「松が丘2丁目」の「妙正寺川と橋」に記した。
地域内で最も川上になるのは、松が丘2丁目の第15号橋である。ここから妙正寺川を遡ると、川は新井小学校の側を通り、沼袋駅の南側から平和の森公園の北側へでる。
そこからは野方、若宮、大和町、白鷺を通り、杉並区の下井草に至る。下井草の永久橋で早稲田通りを横切り、杉並区清水3丁目の妙正寺公園にある妙正寺池に向かう。この妙正寺池がこの川の水源である。古くはこの池の自然の湧き水が豊富であったが、現在は主として井戸から汲み上げた水を利用しているという。池近くには立派な妙正寺がある。
◯ 江古田川の上流
・ 下徳田橋〜学田公園
江古田川は、妙正寺川に合流する江古田公園付近から下徳田橋まで水の流れを見ることが出来るが、下徳田橋から上流は練馬区に入ると、暗渠・地下埋設され、グリーンベルトとなっているので水の流れを見ることは出来ない。その下に水が流れているかどうか確かめることは出来ないがその跡をたどることは出来た。しかも練馬区ではこの川を中新井川と呼んでおり、名前まで変ってしまう。その源流は、練馬区豊玉南の学田公園付近にあった池であったが、今は池は無くなっている。
学田公園の案内板には次のように記されている。
「(前略)付近には湧水を源とした池があり、江戸時代には中新井池と呼ばれていました。この池を水源とした流れを中新井川と呼び、流域の水田を潤していましたが、江戸時代後期には池の湧水が枯れたため、北の千川上水から分水されていました。」
・ 学田公園〜中村北(中新井分水跡)
おそらく江古田川(中新井川)の水源も、妙正寺川の妙正寺池のようになっていたのであろうが、前述のように湧水が枯れてしまい、千川上水から分水したとのことで、その分水の跡らしきものが、大きな木の並木道となって残っているので、ここを辿ってみた。残念ながらこの並木道は途中までで、千川通りに近づくにつれてだんだん細い路地になってしまうが、練馬区中村北のあたりで千川通りに達している。
・ 千川上水
江古田川にはかって千川上水からの水も流れていたと知ると、興味がわいてきていろいろ調べてみた。その結果、
(1) 千川上水は徳川時代に、武蔵野市境橋のあたりで玉川上水から分水されていること。
(2) その玉川上水はそれ以前に、現在の羽村市で多摩川を堰き止め現在の新宿御苑あたりまで水を引いていたこと。
(3) その多摩川は奥多摩湖から流れてきていること。
(4) 奥多摩湖は計画発表から二十数年を経て昭和32年に完成した小河内ダムにより造られた人造湖であること。
(5) 湖の上流はすぐ山梨県に入り、一ノ瀬川、丹波川となり、その水源は山梨県北東部の笠取山の山腹といわれること。
等が判明した。つまり、江古田川には山梨県の山から流れ出した水が、多くの支流の水と一緒になり、さまざまな人間の手で造られた湖や用水路を通って流れていたのである。
そのうち、千川上水の一部、羽村の玉川上水取水堰、奥多摩湖とその近くの多摩川を訪ねてみた。詳しく書けばこれだけで一冊の書物になりそうであるが、その概略のみを記してみる。
千川上水は、徳川時代、将軍綱吉の頃(1696)玉川上水より取水し、現在の武蔵野市桜堤、西東京市新町の境にある境橋から練馬区の関町あたりで青梅街道を横切り、千川通りを経て、豊島区西巣鴨に至る人工の水路である。
私が歩いたのは境橋から関町を過ぎたあたりまでである。それから下流は暗渠になっているようである。
この千川上水も開設後、何度かの廃止、再興を繰り返し、再生水ではあるが現在の「清流」が復活したのは、昭和46年に通水が途絶してから18年後の、平成元年3月であるという。
境橋付近で取水口を探してみたがよく分からなかった。あとで調べてみると東京都北多摩南部建設事務所(武蔵野市境4-11-5)の敷地内にあり、外からは見ることが出来ない由。
取水堰から取り込まれた水は、石積みの護岸堤の開口部から千川上水に流れ込む。ここに「千川上水 清流の復活」と刻まれた碑が建っている。
ここから下流約5キロは開渠区間となっており、きれいな水が流れるのを見ることが出来る。しかも流れの両岸はきれいに整備されており、散歩道も作られており格好の散歩道となっている。大きな通りの所では暗渠となって通りの下を潜っている。昔は水車なども廻っていたようであるが、現在そのような風景は見ることができない。
このように整備された上水も、吉祥寺橋のあたりから左に折れ、練馬区に入ると様相が一変する。一面のキャベツ畑が広がる中を流れており、往時の上水もこのようであったかと思わせる風景である。
上水も青梅街道と交差する「関町1丁目」の手前で開渠区間が終了する。暗渠に入った水は、ここで二つにわかれ、一つは青梅街道に沿って杉並区善福寺方面に通ずる導水管へ、もう一つは青梅街道の路面を下に潜り「練馬区立千川上水緑道」方面の暗渠に導かれている。千川通りと並行して緑道は数百メートル続いている。立野橋まで歩き千川上水を離れ上石神井駅から電車で帰宅した。
上水は千川通りに沿って富士見台駅、中村橋駅、練馬駅、江古田駅の南側を通っているが、ほとんどの区間が暗渠となっているようであり、江古田付近でも武蔵大学他、何カ所かで分水され、江古田地域の田畑を潤していたようであるが、現在ではその痕跡をたどるのは容易ではない。
・ 玉川上水
千川上水の上流は玉川上水である。玉川上水は、徳川開府50年後の承応2年、西暦1653年に玉川兄弟により造られた。取水地点の羽村市から新宿の四谷大木戸(現在の新宿区四谷)までの約43キロメートルは堀で、さらに先の江戸城と江戸の町へは、石や木でつくった水道管(石樋・木樋)が地面に埋められて配水された。堀の工事はおよそ8ヶ月という短期間で完成したという。
取水地の羽村堰堤と終点のみを訪ねてみた。350年も前によくこのような大規模な工事を短期間で完成させたものと驚く。新宿御苑大木戸口近くの四谷四丁目交差点に、玉川上水の由来を記した「水道碑記」が建っている。
・ 多摩川、奥多摩
玉川上水の水は勿論多摩川から取水している。奥多摩湖とその近くの多摩川を訪ねてみた。ちょうど紅葉の季節で水と紅葉の彩りが素晴らしかった。小河内ダムの建設には幾多の悲劇の物語も伝えられているようである。
奥多摩湖の水は更に遠く山梨県からきているという。訪ねてみたかったが、時間も足りないし紅葉も終っているとのこと。またの日を期して、そのかわり武蔵御獄神社を参拝してきた。
○ 妙正寺川の下流
妙正寺川は哲学堂公園の南を流れた後、西武線中井駅、下落合駅の近くを通るが、新目白通りの薬王院のあたりで突然暗渠となって地下に潜りこむ。暗渠は新目白通りの地下を明治通りと交叉する高戸橋まで続き、明治通りを超えた所で地表に姿を現し神田川と合流する。その後、椿山荘の南、飯田橋、水道橋、お茶の水、秋葉原を経て両国橋の北で隅田川に注いでいる。
中井駅から明治通りの高戸橋までと、神田川が隅田川に注ぐあたりを歩いてみた。
地元の川の上流、下流を少し歩いてみたが、大変面白かった。
もう少し時間をかけて廻ってみたいと思っている。
江古田のお茶
ことぶき大学大学院 高 橋 ふ さ
地域学習の仲間の皆さんと一緒に区立歴史民俗史料館に行って資料館の方からいろいろ話をうかがった時、この江古田地区でもお茶の栽培が盛んな時があったという話を聞いた。そう言えば、現在はあまりお茶の木を見ることもなくなったが、私の子供たちが江原小学校に通っていた頃には、茶摘みがあったり、給食の時その摘んだお茶を飲んだという話を聞いたような気もする。また、私が小学校に通っていた頃は私の実家ではお茶を作っていたこともあり、江古田のお茶について調べてみようと思い立った次第である。
1 江戸時代の江古田村の産物
江戸時代の江古田地域は、田畑と森が広がっていた。その頃の様子はどうだったのでしょうか。
村人の食料として、粟(あわ)・稗(ひえ)・大麦などが栽培されていた。また年貢用として、菜種・小麦・大豆・えごまなども栽培していた。村の諸経費などのために、大根・牛蒡(ごぼう)・芋・茄子・うりなども作られていたようである。つまり江戸時代の江古田村では、まだ茶作りは行われていなかったようである。
2 明治維新と桑茶政策
明治維新にともない、武家屋敷の農地への転用が問題になっていた。また何を作るかも問題である。米や麦の作付けは簡単ではなかった。
東京府は明治2年(1869年)990万平方メートルくらいの土地に、桑や茶を植える政策を打ち出した。当時の主な輸出品は、生糸とお茶であったから、桑や茶の植樹を奨励したのである。この政策では、桑・茶以外の作物の作付けの禁止や、地所を入手してから4か月以内の植え付けの義務化などの規則があったが、開墾希望者は簡単に土地を入手(払い下げ・貸し下げ)出来たので、旧武家屋敷が桑畑・茶畑になるのは速かったようである。
明治6年の調査によると、桑畑・茶畑は、百万坪(330平方メートル)を超えていた。また、明治30年頃には、新宿、原宿、渋谷、青山あたりに、茶畑が広がっていた。
3 江古田村の茶作り
では江古田村の茶作りは、何時頃から始まったのであろうか。江古田村の茶作りは、明治7年からである。江古田村では、明治7年(1874年)に、和田山(哲学堂付近)を開墾して、茶園を始めたのが最初である。その時、村の有力者数人が相談して、各自の畑や空き地に茶の種をまいて茶園を作った。こうして始まった茶作りが、明治10年になってはじめて茶摘みが出来るようになった。しかし、村の人々には製茶の方法や、お茶によって得る利益のことなど、何も知らず、宇治から茶師を招いたそうである。村内15軒、有力農民のほとんどが製茶業を兼業するほどになった。製茶に要する人手はすべて雇い入れというのが普通で、近隣の婦女が茶摘みに出たという。茶畑を持つ者は畑売りはせず、製茶して仲買人に売り渡した。製茶に要する日数は30日程度で、かなりの現金収入となった。輸出向けの茶も作られた。
4 重労働だったお茶作り
しかし、江古田村のお茶は、村全体の特産物とはならなかったようである。それは、茶作りにかかる茶師の手間賃や、茶摘みのために雇う人の手間賃、毎日の費用などの出費がかさみ、相当資力が必要になったことも理由の一因だったようである。
茶作りの大変さについては、当時、茶作りをしていた人の手記には、次のように記されている。
「朝は毎朝5時頃に起きて、機械に火を入れたり、ほいろに炭をついだり、摘んできた茶葉の目方を量ったりと多忙であった。その茶葉を機械でふかしたのを、青もみ約1時間、それをほいろで、約1時間半ほどで仕上げるのである。夏の暑い日に、火を焚いて、二人交替で機械をまわし、1日中約12時間、昼飯も交替でとり、休む間もなく働くのである。6月中旬ころまでは、一番茶を作ったが、そのひまに田や畑の仕事もしなければならない。これは、5月、6月頃にかけての一番茶のようすだが、これが7月はじめからの二番茶になると、真夏の最中に汗をふきふき12時間も炭火に向かっての仕事は、並大抵ではない。」
こうして続けられた江古田の茶作りであるが、関東大震災(大正12年=1923年)以降は、都市化の波にのまれ、茶園は次々に消えて狭山のほうに移っていったのである。
江古田の茶園は、昔語りとして残っているに留まっている。現在は、江古田地域を歩いても茶の木を見ることは難しい。それでも歴史民俗史料館にはお茶屋のはんてん、製茶道具、製茶日記帳、製茶錦絵などが陳列されている。
資料 主として中野区報(平成11年2月21日)を参考とした。
江古田散歩 A5判 150頁 平成17年7月
「日々是好日」 −高橋春雄・私の履歴書−