資料   祖父 桜井彦七 「続・遺墨集」 より   平成11.4

              ま え が き


 最近、古い手紙を整理していたら祖父の桜井彦七じいさんからいただいた手紙や葉書が出てまいりました。戦前のものは殆ど処分してしまっており、戦後のものも何回か整理処分したため、散逸したものもあると思いますが、それでも封書二十七通、葉書十八通、計四十五通が手元に残っておりました。この中には、昭和二十年、私の海軍時代のものから、亡くなられた年の昭和三十七年まで十八年間のものが含まれております。大変懐かしく改めて読み直してみましたが、手紙にはその時々の消息のほかに、おじいさんが筆やペンで書いた詩や和歌、俳句などが沢山含まれており、かなりの数になっているのに驚きを新たにしました。


 十年前の平成元年に「桜井彦七 遺墨集」を作成して親戚の方にお配りしましたが、その時はまとめられた本や色紙に注目して、この書信にまで思いが至らず殆ど収録しておりません。これはどうしても、続編を作成して彦七じいさんを知っている方にお届けする必要があると思いたった次第でございます。


 彦七じいさんが書かれた詩や、歌を主にしてその写真版を掲載し、私が読める範囲で筆跡の字をパソコンで打ち出してみました。間違いも多いと思いますし、読めないところは「?」としました。また「読み」と「解釈」は今回は省略しましたのでご了承下さい。配列はいただいた書信の日付順とし、その下に書かれた当時のおじいさんの年齢(数え年)を参考までに付記しました。


 今回も又、桜井強様に大変お世話になりました。原稿を見ていただき御教示、御助言、写真の提供をいただいたほか、序文までお願いし花を添えていただきました。なお、強さんの口添えで桜井彦兵衛さん、桜井昭吉さんからも懐かしい写真を沢山提供いただきました。皆さんにも喜んでいただけると思います。御厚意に深くお礼申し上げます。


 前回は製本等は業者にお願いしましたが、今回は部数も少ないので、パソコン、写真、製本などすべて手作りとしました。見劣りしますがご理解をお願い致します。

    平成十一年四月吉日

                    彦七孫    高 橋 春 雄




         あ と が き


 おじいさんの死後三十六年余を経て、生前十八年間に亘っていただいた手紙をまとめて読み返してみてまことに感慨の深いものがございました。その一端を記させていただきます。


○ 沢山の手紙をいただき、しかもその殆どに詩や歌が含まれていました。

 おじいさんにとっては私が一番最初の孫であり、また、小学校を卒業するとすぐ上京し、父の死後一年ほど小出郵便局に勤務したほかは、海軍、東京とずっと故郷を離れていたせいもあって、ほかのお孫さんより沢山の手紙をいただいたようです。

 その中には殆ど自作の詩や歌が含まれていたのですが、いただいた時は私も若く、またおじいさんの字は達筆すぎてなかなか読めないし、特に漢詩となると意味もよく分かりませんでした。しかし、大事にしなければいけないものという自覚はあり保存しておいたものと思いますが、十八年間に予想外に多くの作品が残ったのに驚いている次第です。


○ 私もおじいさんがこの手紙を書いた頃の年齢となりました。

 私は現在七十四歳、数えでは七十五歳になりました。ここに収録した手紙はおじいさんが六十五歳から八十二歳までの十八年間に書いたものでございます。ちょうど私はその中間の年齢になった訳で、これを書いたおじいさんの心境が、この手紙をいただいた若い頃よりもよく理解出来るような気がしております。

 読んでいて私も孫に手紙を書いてみたいと思いましたが、残念ながら私には生まれて六カ月になる孫娘が一人いるだけなので、書いても読んでもらえそうにもありません。


○ 詩や歌を作り、それを筆にするのは素晴らしいことと思いました。

 同じ手紙をいただいたにしても、詩や歌や筆跡がなかったら、私もこのようにまとめようとする意欲は起こさなかったと思います。

 詩や歌に託した、その時々の心境、郷土の四季、青島八景等々に心を打たれました。これを作るだけでも大変な意欲と努力が必要なのに、これを更に筆で書かれたのですから・・


○ 「八十の手習い」に脱帽です。 

 八十代に入ってからもなお、漢詩の平仄や韻字の勉強をしようとする万年青年のような意欲に脱帽、その気概だけでも真似したいものと思いました。



 以下、いくつかのお手紙について感想を記してみます。


○ 昭和二○年一月のお手紙(戦時中、旅順で受領) 六五歳

 私が海軍予備生徒として出征、現在の中国東北部旅順の予備学生教育部で教育を受けている時にいただいた手紙です。もちろん私も国難に殉ずる覚悟で訓練に励んでいましたが、おじいさんの詩の中にも「米英撃滅決戦秋」と書かれており、当時の時局が偲ばれます。

 「湯中居の弘が舞鶴に入団するので、五人の応召となり肩身が広い」「完納にまだ一人残っている」と書いていますが、六人の息子のうち、五人まで軍隊に召集され、「老骨を揮って丈余の積雪と戦っている」おじいさんの本当の心境は、どのようなものだったのでしょうか。子供を持って見ておじいさんのやるせない気持ちがわかるような気がします。


○ 昭和二一年三月のお手紙(久平・久一さんの消息) 六六歳

 幸い久一さんは復員されましたが、ビルマ派遣の久平さんは、おじいさんの願いも空しくとうとう帰って来ませんでした。また、五男の剛さんも帰国されたものの、二○年一二月横須賀で戦病死されてしまいました。


○ 昭和二五年六月のお手紙(古稀にあたっての述懐と近況) 七○歳

 おじいさんに仲人になっていただき結婚式を挙げたこと、その直後古稀にあたっての「述懐」の詩をいただいたことは本文中で触れました。この手紙には本文に紹介しませんでしたが、この詩のほかにも長文の「近況」が同封され、当時の世相が詳細に記録されていますので、その概略を記してみます。

 小雪で農耕も順調なこと、参院選の棄権率が少なかったこと、長岡博覧会が開催されたこと、干溝併合のこと、銀山開発のこと、遺族会の宮城清掃で上京し玉顔を拝したこと、未帰還者は青島では田口貞二君だけとなったこと、青島青年会では倶楽部の増築を行ったこと、弁論会・野球・ピンポン等が流行していること、又四郎翁の主催で俳句の会、高橋五郎氏の活動で自尊貯蓄が好成績をあげていること、正さんが小千谷に通勤するようになったこと、多角農業経営のこと、生活向上のこと、後進には有為の士、岡部佐市、岡部広吉、井口芳太郎、特に高橋虎夫等々気鋭続出していること、等々当時の状況が詳細に綴られており、さらに自分のことについては、毛筆や漢字の講釈がしたくなること、健康に恵まれている限り晴耕雨読の余裕、即ち「我には許せ敷島の道」と気取って見たくもなること等が興味深く記されております。


○ 昭和三一年一月のお手紙(綿入れ贈呈に対する謝辞) 七六歳

 私たちのささやかな「綿入れ」の贈り物に対して、わざわざ漢詩や短歌を作り短冊に認めて送って下さったのには感激しました。孫からの贈り物というのがおじいさんにはよほど嬉しかったのかも知れません。

 私も七十一歳の誕生日に娘夫婦からジャンパー、長男から帽子を頂戴しました。その時、おじいさんからいただいたこの短冊のことを思い出し、その真似をして

     常ならぬ寒波も忘る暖かさ  老父を祝ふ帽衣身にして

と短歌らしきものを作り、おじいさんから頂いた短冊の話を添えて子供たちに贈ったことでした。私も孫から贈り物を頂いて見たい気もしますがちょっと無理のようですね。


○ 昭和三一年九月のお手紙(おばあさんの永眠 詩「念仏」と俳句) 七六歳

 おじいさんは終戦直後、五男の剛さん、次女のノブさんを失い、二十六年にはわずか二十歳の孫娘文江さんを亡くされましたが、三十一年七月にはつれあいのトクさんに先立たれてしまいました。トクおばあさんの温厚な笑顔が忘れられません。おじいさんの詩や俳句を読んでいると、秋の雨の夜、一人静かに念仏を唱えているおじいさんの姿が浮かんでくるように思われます。そして、おばあさんのことや文江さんのことも思い出し、俳句を詠んだのでありましょう。


○ 昭和三三年三月のお手紙(謡曲十五徳) 七八歳

 私が謡曲を習い始めたのが昭和二十九年、この手紙をいただいた頃はまだ習い始めの頃で十五徳といってもあまり実感が湧かなかったのですが、それから四十余年を経て、定年後の現在では謡曲が私の唯一の生き甲斐となりました。交友の範囲も広くなり、謡の会や謡蹟めぐりで全国を歩き廻っており、しみじみと十五徳の恩恵を享受しております。


○ 昭和三三年九・十・十一月のお手紙(「墨客必携」など) 七八歳

 七十八歳にしてなお参考書を入手して、よりよい詩を作るために勉強を続けている姿には自分のおじいさんながら脱帽です。


○ 昭和三六年一月のお手紙(「平仄韻字」の本・謡曲) 八一歳

 八十一歳にして平仄の勉強をしているおじいさん。私の送った本を座右に置き詩を作っているおじいさん。お正月には独り謡曲を高らかに謡い、半杯の酒を呑んでいるおじいさん。

 私のために作ってくれたと思う詩を読みながら、こんなおじいさんを想像してみました。


○ 昭和三六年三月のお手紙(熊本の朝鮮飴) 八一歳

 すっかり忘れてしまいましたが、おそらく会社の仕事で九州に出張した時、熊本で朝鮮飴なるものを買っておじいさんに送ったのでしよう。それを歌に詠み俳句を作って送ってくれるとは感謝感激の極みでございます。


○ 昭和三七年年賀状(最後のお便り) 八二歳

 「瑞気満乾坤」これがおじいさんからいただいた最後の便りのようです。この年の六月、私は会社のニューヨーク事務所勤務を命ぜられ、三十九年二月まで米国に滞在しました。アメリカに着任してからもお手紙をいただいたような気もしますが、今回いくら探しても見当りませんでした。


○ 昭和三七年一一月(おじいさんの訃報を聞いて) 八二歳 

 そしておじいさんはこの年の十一月十八日に永眠されました。家内からの十一月二十日付けの手紙で始めて知りましたが、その頃の事情では告別式に出席のため帰国することも適わず誠に残念でした。その直後、家内あての私の手紙には次のように記されています。

 「中村のおじいさんの亡くなられたのは流石にびっくりしました。突然のこととて全く驚くほかありませんが、早速悔み状を出しておきたいと思います。僕もおじいさんには是非帰国後アメリカの土産話を聞いてもらったり、また写真、八ミリ等も見て頂きたいと思っておりましたが、今はそれも叶わぬこととなってしまいました。私の最も尊敬し誇りとしていたおじいさんだけに悲しみもひとしおです。葬儀にも参列できないとは全く残念ですが、おじいさんも新しい家の完成を見、孫たちの成長も見届けて亡くなられた訳ですから本望でしょう。・・・」

 この時から既に三十六年余の歳月が経過しました。振り返ってみると遠い遠い昔のような気もするし、またすぐこの間のような気もします。もっと早い機会に古い手紙を整理すればよかったとも思いますが、なかなかその時間が作れなかったし、また、考えようによっては私が年をとり、おじいさんがこの手紙を書いた頃の年齢になって読み返す機会を得たのは、かえって良かったのかも知れないなどとも思っています。


 いずれにしても、おじいさんは私の心の中では永遠に生き続けていることだけは間違いないようでございます。

桜井彦七 遺墨集(続) 平成11年4月 A5判 102頁
桜井彦七 遺墨集(続) 平成11年4月 A5判 102頁



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