資料   「KDD宝生会 50周年記念誌」より

      KDD宝生会後半二十年のあゆみ


                         高 橋 春 雄 


 KDD発足の翌年、昭和29年4月に村本脩三師の指導で秋元亮一、阿部理一、私の4名が、KDD本社のあった三菱21号館の一室で「竹生島」を教わったのが、今にして思うとKDD宝生会の始まりとなった。この時から早くも50年の歳月が経過した。

 50 周年記念誌作成にあたり、編集担当から30周年記念誌所載、秋元亮一さんの「三十年のあゆみ」の続編を私に書けとの要請があった。この会では私が一番古い存在となってしまった現在、残った者の義務とも思うので、先輩たちを偲びつつ、非才を顧みず本会の後半の20年を振り返ってみることとする。


1 KDD宝生会の稽古と例会

 30 周年を迎えた昭和59年の頃のKDDの本社は新宿のKDDビルにあり、謡曲の稽古もKDDビルを中心に行われていた。会員の数は準会員、会友を含めると 70〜80名を擁し、例会は年に2回、新宿会館で開催されたほか、KDDの宝生・観世合同の謡曲全国大会である末広会、東京地区の合同謡会である讃和会、官庁実業団連盟(官実連)にも参加する等活溌に活動していた。

 稽古もこの頃になると嘱託免状をいただいた方も増えて来たので、村本先生や秋元先生に加え嘱託会員も指導を分担することとなった。すなわち、KDDビルにおいては、月曜日の夜は秋元先生、火曜日の昼休みは小嶋先生、水曜日の昼休みは秋元先生の仕舞、木曜日の昼休みは高橋、金曜日の昼休みは太田先生と殆ど毎日稽古が行われていた。

 その他、木曜日の昼休みには秋元先生がKCS会議室で、火曜日の昼休みには太田先生がKBK会議室で、また時期がはっきりしないが、学園では村本先生が、小山では長島先生が教えていた。会員は一応A、B、C、Dのクラスに分けてはいるが、希望すればどの先生の指導も受けられることになっていた。

 担当の先生は児玉先生、長島先生、太田先生、石川先生、柳川先生、米永先生、山田先生とだいぶ入れ替わりがあったが、現在では月曜日の夜は柳川先生、水曜日の昼休みには山田先生、金曜日の昼休みには高橋が指導に当っている。

 例会は30周年記念(昭和59年)の熱海のホテルニューアサヒと、35周年記念(平成2年)の石和観光温泉ホテルを除いて、新宿会館で開催してきた。新宿会館も名前が、ストラーダ新宿、KDDストラーダ、KDDホテルストラーダ、KDDIホテルストラーダと変ったが、昭和55年1月の初会以来、この会館の「高砂の間」が例会の舞台であった。新宿会館の前身である新宿クラブ、新宿分室の時代を含めると、このサークル誕生の頃からお世話になった所である。

 この新宿会館も、平成13年9月30日をもって閉鎖されることとなった。その前日の9月29日、KDDの観世・宝生の有志が集まって合同謡会を開催、この舞台との別れを惜しんだ。

 平成14年7月、平成15年3月の例会はKDDIビル26階の会議室で開催された。50周年記念大会は平成16年4月18日杉並能楽堂で、会員25名、来賓11名(観世グループの親謡会、鳳声会、国謡会と秋元先生のお弟子さん)の参加を得て、「高砂」「羽衣」「江口」「隅田川」など、お祝いと追善を織り交ぜた番組を予定通りに進めた後、席を近くの千石会館に移して懇親、五十年を回顧しながら旧交をあたためた。


2 会員の渡雲会他における活躍

 稽古の成果もあって、末広会や讃和会では観世の方によく揃いますねとほめられ、官実連でもいつも表彰状をいただいてきた。そして、熱心な会員には村本先生や秋元先生たちから、プロの渡邊三郎先生に師事することをお勧めするのが例となった。現在渡邊先生が高齢になられたこと、目を患っておられることなどを考慮して推薦を控えているが、現在までに当会員で渡邊三郎先生に師事した方は次のとおり20名にのぼっている。

 村本脩三、秋元亮一、児玉栄太郎、丸山乗一、長島経治、高橋春雄、小嶋郁文、阿部理一、太田延男、石川恭久、柳川英夫、米永和人、山田清重(以上教授嘱託)、冨田林平、佐藤信顕、金子忠三郎、渋谷英一、松田勇、加児健三、伊東史の皆さん。

 渡邊三郎先生の渡雲会では、謡、仕舞だけでなく、能や舞囃子にも数多く出演しており、渡雲会の重要な構成メンバーとなっている。会員がシテ役として演じた能には次のようなものがある。

 「絃上」「小袖曽我」「小鍛冶」「蝉丸」「草紙洗」「七騎落」「俊寛」「高砂」「田村」「経政」「天鼓」「夜討曽我」。

 さらに会員の中には教授嘱託会の本部や支部の役員として活躍された方も多い。


3 官実連への参加

 当会は昭和38年の第10回大会から宝生流官庁実業団謡曲連合大会(官実連)に独立サークルとして正式に参加した。当時参加団体が多かったため、1サークルの持ち時間が出入りを含め15分に制限されており、その程度の時間なら初めから無本でやろうということで始めたそうであるが、この伝統は今日まで維持されている。初めのうち、無本でやるのは当会のほかリコーも無本だったと思うが、最近の番組ではリコーの名も見当たらない。41年間も連続出演し、しかも無本で通したサークルは当会の他にはないのではなかろうか。最近は審査する人がいないというので表彰状も出さなくなってしまったが、いつも表彰状の対象になっていたように思う。

 当会として最初に参加した第10回の番組を見ると、参加33団体、来賓として大阪と名古屋から2団体、番外仕舞として宗家、宝生九郎、その地謡に前田忠茂、松本忠宏、渡邊三郎、武田喜永の名が載っており、その他佐野萌、高橋章の職分の先生方も素人の仕舞の地を謡ってくれている。当会の分は「籠太鼓 国際電信電話KK」とあるのみである。11回(昭39)の番組になると当会の分は「俊寛 シテ村本脩三、ワキ秋元亮一、康頼児玉栄太郎、成経長島経治、地頭田近老雄 国際電信電話KK KDD宝生会」と書かれている。番外仕舞は宗家の「笠之段」プロの先生には朝倉粂太郎先生も参加されており、宗家はじめプロの先生方の熱の入れ方がうかがわれる。

 30周年頃の昭和59年第31回の番組になると、参加団体は16団体に半減、やむなく合同謡としていくつかの団体が役を分担する方式が始めてとられるようになった。宗家はじめプロの先生方の出演もなくなっている。この頃から当会だけでなく国内全般に謡曲熱も下方に向かい始めたように思われる。当会の分は「船弁慶 シテ長島経治、子方豊川修司、ワキ井上久二、ワキツレ山田清重、地に参加の17名の氏名、地頭村本脩三 国際電信電話(株) KDD宝生会」となっている。

 最近の平成15年第50回になると参加11団体とますます少なくなっている。いつの頃からか、1サークルの持ち時間も20分程に延長されたようで、無本出演の当会の参加者は暗記するのに一層の努力を要請されることとなった。それにもかかわらず、この年の出演曲目は「鵜飼」、シテ田中成欣、ワキ渋谷英一、ワキツレ根本誠、地頭児玉栄太郎の4名の他、地謡17名、合計21名の氏名がKDD宝生会の名とともに記載され、その殆ど全員が実際に参加されているのは頼もしい限りである。


4 末広会・讃和会のこと

 昭和36年1月にKDD謡曲各サークル(本社=親謡会、宝生会、東報=鳳声会、名古屋=慶謳会、大坂=国謡会の5サークル)の全国大会が愛知県の西浦温泉末広館で始めて開催され、末広会と命名された。30周年の昭和59年までには、東京の新宿会館をはじめ、西浦、熱海、鳥羽、三ケ根、岐阜、京都、修善寺、浜名湖、奈良等の各地で16回開催されてきた。

 地方で開催された末広会はそれぞれの特色があって懐かしい。しかし、圧巻は昭和55年3月22、23の両日に行われた「KDD新宿会館落成記念、第14回末広会大会」ではなかろうか。各サークルを指導しておられるプロの渡邊三郎、渋谷晴一、小川明宏の各先生も参加されて仕舞を舞っていただいた。会員側では会長の古池信三さんはじめ、本会の創立の頃から活躍された村本脩三、広島通、谷政三、古瀬利蔵、志水精次さんたちも元気で参加された。この時の番組を見るとつくづく時の流れを感じる。上記6名以外の方の名前を順序不同で列挙してみよう。(所属サークルは番組からの推定で不確実である)

 親謡会・・長谷川年彦、堀住千之介、望月貞雄、谷野常夫、伊藤雅彦、中川邦夫、吉田正武、宮川チヨ、関根仁吉、小林久四郎、古瀬真、越川頼子、下北ヒサ子、高田満智子、広川清子、松尾義久、村岡京、山本弘二、島影義、山根元寿郎、醍醐昇、片岡純一、小林清、池田忠彦、広瀬証、石毛幹一、片山猛、村松建男の28名

 鳳声会・・渋谷光、清水宝一、古藤成福、先山初吉、新免豊、野口善作、石原清、斎藤吉雄、伊東陽子、秋山モト枝、中島智恵子、長島洋子、岸野須美子、小泉龍太郎、武田豊三郎、小林正の16名

 国謡会・・道久英子、田近静子、福田高雄、桑田仁一、吉田薫、吉村一男、西井淳、稲口実、藤光雄、村岡一郎、森和彦の11名

 宝生会・・秋元亮一、土井孝弘、豊川修司、増田光之、阿部理一、宮島仲、松田勇、石川恭久、柳川英夫、井上久二、三上聡雄、鈴木千里、太田延男、児玉栄太郎、丸山乗一、高橋春雄、長島経治、矢島正直、都築照男、岩佐祐司、桂佑誠、長谷川昭、盛儀郎、土居輝男、米永和人の25名。合計86名もの懐かしい氏名が記載されている。

 今から思うとこの頃がKDDの謡曲サークルにとっても、また私どものKDD宝生会にとっても最盛期だったような気がする。


 昭和58年10月7日には古池信三会長が逝去され、昭和60年2月の第17回末広会は古池さん追善供養の大会となってしまった。

 その次の63年10月の第18回末広会も新宿会館で行われたが、これも広島通、古瀬利蔵、志水精次氏の追善供養となった。広島さんは62年7月9日、古瀬さんは63年3月26日、志水さんは56年11月14日に逝去されたのである。

 第19回の末広会は久しぶりに東京を離れて、国謡会のお世話で平成2年6月、京都の「くに荘」で開催され、当会からは現地参加の阿部理一さんを加え23名が参加した。

 第20回の末広会は当会の幹事役で平成4年7月、新宿会館改めストラーダ新宿で開催されたが、秋元さんの追善供養の会となってしまった。

 次の当番は観世の親謡会か鳳声会の筈であったが、どちらも現役の会員がいなくなって開催準備を行う人がいなくなってしまった。このまま30年以上に亘り 20回も続いてきた末広会を何もしないで消滅させてしまうのは耐えられぬと、当時末広会長であった村松建男さんとも相談し、末広会解散の会を「留扇の会」とすることとし、併せて記念誌「留扇」を作成することとなった。

 第21回末広会(留扇)は「物故会友追善供養」として、当会の幹事役で平成7年2月18、19の両日ストラーダ新宿で開催された。物故会友の芳名として、吉田勲、望月貞夫、渋谷光、谷政三、山本弘二、井上久二、斉藤吉雄の7名の氏名が記されている。

 記念誌「留扇」は約30名の会員からいただいた玉稿を中心とし、村松会長の発刊のことば、名誉会長村本脩三氏、各サークルの代表、古池信三氏夫人、広島通氏夫人からご挨拶を頂戴した。また表紙の題字は伊東陽子さんに揮毫をお願いした。これらに写真62葉、番組一覧・開催記録・名簿等の資料等を添えてB5版 136頁とし、村松会長の斡旋でオカムラ印刷にお願いして立派な本として、会友の皆さんにお配りすることが出来た。


 末広会と同じように観世・宝生の東京地区の合同謡会「讃和会」は昭和40年9月にスタートして、30周年の頃までには、18回の会合を持って来た。

 第20回は鳳声会のお世話で新宿会館で開催、第21回は当会の幹事役で同じく新宿会館で開催したのだが、前述のような事情でその後を継ぐものがなくなってしまった。

 それでも、前記の記念誌「留扇」には最終回までの讃和会の番組も収録してあり、末広会と運命を共にしたものと思っている。


 厳密な意味では末広会とはいえないかも知れないが、私どもが永年馴れ親しんできた新宿会館(KDDIホテルストラーダ)が、平成13年9月30日に閉館になると聞いて、当会から観世の皆さんに呼びかけ、その前日の13年9月29日、閉館記念の観世・宝生合同謡会を同所「高砂の間」において開催した。

 当日の参加は宝生会24名、親謡会10名、鳳声会9名、慶謳会2名、国謡会1名の46名が参加、その殆どが懇親会にも出席して再会を喜びあった。


5 物故会員を偲ぶ

 当会の30周年記念の頃会員だった方で、その後物故された会員を調べ、ありし日の面影を偲んでみた。間違いや洩れがあるかも知れないが、ご容赦願うとともにご教示をお願いしたい。


   年 月   氏 名

昭和56年8月  丸山 乗一

  60年6月  伊東  史

  60年頃   松田  勇

  60年10月  田近 老雄(村本先生大坂支社在勤中の講師)

平成3年8月   宮島  仲

  4年1月   秋元 亮一

  4年3月   加児 健三

  6年8月   井上 久二

  8年2月   阿部 理一

  11年11月   村本 脩三


 丸山さんの死は突然であった。亡くなる前の日はKDDビルで先輩に感謝する会があり一緒に歓談したのに翌朝は心筋梗塞で亡くなられてしまった。彼も草創期以来のベテランで実力抜群であるが常に控えめで燻し銀の渋い人柄が皆を惹きつけていた。例会の後の懇親会で唄った彼の「山中節」の声が今でも耳に残っている。彼の葬儀には会員も多く参列、京都からは阿部理一さんも駆けつけてくれた。


 伊東史さんは大手町ビル地下の売店で娘の陽子さんとともに洋服を販売していた方である。史さんは宝生流、陽子さんは観世流で末広会では親娘一緒に参加されることが多かった。史さんは31年頃の入会で女性第一号の会員である。渡邊三郎先生の渡雲会にも入門されたが、あまり舞台に立たれないうちに亡くなられたのは残念至極である。陽子さんは謡や仕舞だけでなく、書道の大先生であるが、母親の史さんも絵がお上手で俳画などを描いておられた。古い会員で史さんの俳画をいただいた方もおられると思う。


 松田さんが亡くなられた正確な日付がはっきりしないのは誠に申訳ない。身体も大きく豪快な謡いぶりであった。新宿のKDDビルの近くに住んでおられ、新宿クラブが使えない時は淀橋会館とか熊野会館とかを斡旋していただいたような気がする。この方も渡邊三郎先生に師事したが、殆ど出演されないうちに亡くなられてしまった。

 昭和60年12月の例会では、丸山、伊東、松田お三方の追善供養として「江口」の曲がシテ秋元さん他会員一同によって捧げられた。


 田近さんは村本先生が大坂支社に転勤になった昭和32年頃から何年間か私たちに教えてくれた方である。35年村本さんが復帰されてからも、暫く指導を続けられたが、健康を損ねられて52年頃からは例会にも出席されなくなってしまった。なかなか芸達者な方で、懇親会では無形文化財ともいうべき芸を披露して下さったり、お正月には私たちを自宅に招いて謡初めの会を催したり、古い会員にとっては忘れがたい大先生である。残念ながら60年10月に逝去されてしまった。


 宮島さんは阿部、加児の皆さんに勧められて昭和39年頃入会、稽古熱心な方で将来を嘱望されていただけにその死は惜しまれる。昭和56年6月、奈良で末広会が開催された後、村本、秋元、宮島、太田、三上の皆さんと飛鳥路を訪ね、甘橿の丘から畝傍、耳成、天香具山の「三山」を眺めたことや、平成2年8月の官実連で宮島さんが無本で謡う「芦刈」のシテの大役を立派に果たしたことなど、ついこの間のことのように思い出される。


 秋元さんの死は当会の会員だけでなく、彼を知る多くの人々から惜しまれた。幅広い交友関係を持った方であったが、謡曲関係だけについても、KDD宝生会育ての親だけでなく、渡邊先生の渡雲会でも幹事として会の隆盛に尽くされ、さらに教授嘱託会においては本部副理事長ならびに東京支部長に推挙され、宝生流の流儀の振興にも大きな功績を残された。通夜の席には当会の会員も殆どの方が集まり、村本さんの発声で「江口」を奉謡、冥福を祈った。有志と相諮り彼の追悼禄「秋元亮一を偲ぶ」を作成したが、当会の会員26名をはじめ87名もの方々から玉稿を頂戴し、故人の親友、丸井工文社の今井正作さんに装幀、印刷をお願いして立派な本にしていただいたのは感激であった。


 加児さんは35年頃入会のベテラン。例会の後の懇親会では、「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の・・」の歌とともに繰り広げる彼独特の演技が懐かしい。東京逓信病院では一緒に入院していたこともある。渡邊三郎先生の渡雲会にも入ったので、彼の能や舞囃子を楽しみにしていたが、入門間もなく亡くなられたのは残念でならない。

 平成4年4月4日の春の例会は宮島仲、秋元亮一氏追悼の会として番組も準備したのであるが、その直前の3月28日には加児健三さんも亡くなられ事実上3名の追悼の会となってしまった。


 井上さんは48年2月入会された方、30周年の記念誌には次のように記している。「謡曲を始めてよかったなあ、と思う今日この頃・・・旅した時は謡曲に出てくる場所や状況などを思いめぐらしながら歩くのも一興であり、その時代を自分ながら推測するのも楽しいことである。謡曲は停年すぎたこれからの人生の糧ともなればと思っている。」

 定年を過ぎた人生を謡曲を通じてもっともっと楽しんでいただきたかったが、平成6年8月逝去されてしまった。


 阿部さんは当会創始以来の謡友であるが、昭和55年秋定年を迎えて間もなく京都へ移ってしまったのは大きな打撃であった。誰よりも稽古熱心で後輩の指導も口やかましかったが温情がこもっていた。彼の励ましがなかったら私の謡も途中で挫折していたかも知れない。京都に移ってからも良き理解者として声援を送ってくれており、平成2年6月京都の「くに荘」で開催された末広会には地元から参加、独吟「黒塚」を謡ってくれた。これが彼の謡を聞いた最後で、平成8年2月京都で亡くなられた。


 当会の生みの親村本さんまでが亡くなられてしまった。村本さんはKDD宝生会を発足させただけではなく、戦前から渡邊三郎先生に師事して渡雲会でも中心的存在で能も数多く演じておられる。中でも昭和50年の春、金沢の能楽堂で舞われた「天鼓」は、本人も「故郷に錦を飾った」と言っておられたが、私たちにも思い出の深いものであった。青葉宝生会を発足させたのも村本さん。これも現在も続いている。教授嘱託会では埼玉県支部長として、関東甲信越大会を大宮で開催する等幅広く活躍されてきた。通夜には謡曲関係の方も大勢参列、奉謡させていただいた。最初は埼玉グループ10名ほどで「誓願寺」を、次いで私どもの「江口」を霊前に捧げた。用意したコピーを埼玉グループにもお配りし、40数名の合同謡となったが、とてもよく揃っていた。私も途中2回ほど声がつまってしまった。謡い終るとすぐ長男の方が涙ながらにお礼の言葉を述べられた。平成12年3月の例会は村本さんの追善大会となった。「江口」の曲は、シテ田中成欣、ツレ長島経治、ワキ児玉栄太郎、私は地頭をつとめさせていただいた。


6 おわりに

 後半20年は衰退の歴史を語るようでまことに気の進まぬことであった。衰退の原因としては、産業界全般の競争の激化、若者の興味の変化、会員の老齢化等さまざま挙げることが出来ると思うが、これはひとり我がKDD宝生会だけに限ったことではなく、KDDの観世のサークル、KDD以外の謡曲サークルでも同じような悩みを抱えているようである。

 しかし、最近、日本の能楽界にとって明るいきざしが出て来た。例えば、ユネスコによる能楽の世界の無形遺産宣言、小中学校における邦楽教育の取入れ、「武士道ブーム」に見られる古き日本の見直し等々である。七百年の伝統を有する能楽が見直されつつあるような気配を感ずるのである。

 私たちのKDD宝生会も今回作成の名簿によると33名の会員を擁し、毎週の稽古を続け例会も開催、官実連にも参加している。今回の記念大会にも25名の会員が参加、その底力を見せてくれた。能楽が日本人に訴える何物かを持っていることは誰よりもよく知っている私たちである。会員全員の勧誘による会員の増強、若返り、世話役の補充、会の運営の見直しなど、アイデアを出しあって会の発展をはかるとともに、流儀の発展に貢献されることを願って拙い筆を擱くこととする。

           (「KDD宝生会 50周年記念誌」より)



謡の稽古用に作った資料の数々



高 橋 春 雄


1 まえがき

昭和29年4月、村本先生から謡曲の手ほどきをしていただいた私は、村本さんや秋元さんのご推薦で39年、渡邊三郎先生の渡雲会に入門、昭和54年3月、先生のお取次で、同僚の丸山乗一、長島経治のお二人と一緒に教授嘱託の免状をいただいた。

 その頃KDD宝生会では、村本、秋元、児玉の先生方が中心となって会員のお稽古にあたっていたが、私も昭和56年1月から週一回お昼休みにお稽古を分担することとなった。この稽古は62年3月まで6年余り続いたが、62年4月、喘息のため入院したためしばらく中断することとなった。

 その後2年間に5回ほど入退院を繰り返したが、平成元年4月から金曜日昼休みの担当に復帰し、この稽古は今日まで15年間続いている。この間、謡い方だけでなく、その曲の語句の解釈、関係する謡蹟、私の思い出等、曲の理解に役立つと思うことを資料としてまとめ、稽古に来られた方々に差し上げてきた。

 最近当会の資料を整理しているうちにこれらの資料を見つけ、23年余を振り返ってみて感慨深かった。この機会にその一端を紹介させていただく。

 資料の作成方法により、大きく四つの時期に分けることが出来るようである。


2 第1期 昭和56.1〜62.3の6年3ケ月  手書きで語句、内容の解釈中心

 どのような基準で曲目を選定したのか思い出せないが、「夜討曽我」「熊野」から始まって6年余に45曲を取り上げている。1ケ月に1〜2曲の割合である。資料は60年までの分はA5の用紙に手書きで書いてある。60年11月に富士通のワープロを購入したので、61年の分からはワープロを使用している。最初の「夜討曽我」は曾我兄弟の系図が書いてあるだけ。「熊野」は語句の解釈と、白洲正子の「謡曲・平家物語紀行」からの引用文や名所教えの道の地図などを掲げている。

 変ったものでは「大江山」で「桔梗刈萱仙蓼(ききょうかるかやわれもこう)」の秋の草の解説に植物図鑑を挿絵も添えて紹介したものや、「宝生流のはなし」から「宝生流の節」の解説を載せたものもある。「小督」や「敦盛」では平家物語の「小督局」や「敦盛最後」を解説付きで全文を掲載している。

 その頃はまだ謡蹟は殆ど訪ねていないので、その写真や案内を載せることは出来なかったが、主要な謡蹟についてはガイドブックの記事や地図などを添えて参考に供していた。


3 第2期 平成1.4〜6.3の5年間    独吟集とカセットテープ

 前述のように昭和62年4月に喘息で入院し、その後も入退院をくりかえしたが、2年ほどたつと小康状態となり、平成元年4月から金曜日昼休みの稽古を担当することとなった。

 どのように稽古するか考えたが、初会の席上次回から4名程度の方に独吟をやってもらうことになったのを思い出し、わんやから発行されている「宝生流独吟集」から私が数曲を選び、毎月1回テキストを作成することとした。併せて「宝生流声の名曲集」からテープを作成、稽古の時一回はこのテープを聞いてもらうこととした。独吟集は携帯に便利なようにB6版とした。

 最初に独吟個所をコピーし、次にその個所の大意を記し、その後は語句の解説や、謡蹟、その曲の思い出等を書いてきた。

 ワープロからNECのパソコンを経て、平成4年11月にはマッキントッシュのパソコンを購入したが、最初の頃は日本文字の縦書きが出来なくて横書きで作成しているのもある。この頃になるとだいぶ謡蹟めぐりにも熱が入ってきて、謡蹟の写真も取り入れているが、コピー機の性能がまだまだで鮮明な画像になっていない。

 5年間で取り上げた曲は105曲、1年分づつ製本したら5册で厚さが12センチほどになった。


4 第3期 平成6.4〜12.5の6年2ケ月  謡舞観巡(謡曲の自分史)

 独吟集も5年も続くと一般向けの選曲が困難になったのと、5年間に書き溜めた資料を見直す意味で、練習の曲目を五十音順に取り上げることとした。

 謡の独吟部分は別綴りとし資料と切り離した。資料の方も大きさはB5版と大きくし、資料のタイトルも「謡を謡い、仕舞、舞囃子、能を舞い、能を観賞し、謡蹟などを巡った思い出」という意味で「謡舞観巡」とし、副題を「謡曲の自分史」とした。

 謡蹟めぐりも熱が入り、あちこちとかなり訪ね廻ったので、その写真も添えることとした。ただし、初めのうちは私のパソコンでは文中に写真を取り込むのは困難のため、写真だけは別頁とし、末尾に一括して掲載していたが、パソコンやプリンターの性能も飛躍的に向上し、平成8年にはパソコン等を買い換えたので、私のパソコンでもカラー写真を文中に取り込めるようになった。

 この6年余に取り上げた曲は128曲、1214頁となった。


5 第4期 平成12.6〜現在の約4年   謡舞観巡、改訂版

 主な曲は一巡したが、宝生流には180曲ある由、今度は全曲を対象とし、次の諸点も考慮して引き続き資料を作成のこととした。

・ 曲目以外でも謡曲に関係あるもの、例えばKDD宝生会、渡雲会、名所めぐり等謡 曲に関係あるものについても取り上げる。

・ 各曲目について、前回以後に訪ねた謡蹟などを追加する。

・ 写真も文中に配置することとし、カラーコピーとする。

・ 今までの資料も読み直し、削除、存続、追記等を検討する。

・ タイトルは前回と同様「謡舞観巡」(謡曲の自分史)の改訂版とするが、頁は更新する。

 現在この線に沿って「謡舞観巡」の作成を続けているが、平成16年3月現在「高砂」まで92曲を取り上げ、その頁数は844頁となっている。また、「独吟集」は平成元年4月に作成した「鞍馬天狗・桜川・三山」の第1号から数えて「関寺小町・殺生石・摂待・蝉丸」の第107号となっている。


 また、「謡舞観巡」の別冊として次の三冊を作成、役員、師匠、大先輩等、少数ながら関係の方々に差し上げた。

 @ 別冊一 KDD宝生会50年回顧(平成15年4月 144頁)

 A 別冊二 渡雲会40年回顧(平成15年6月 176頁)

 B 別冊三 教授嘱託会25年回顧(平成15年11月 196頁)


6 おわりに

 二十年余りに亘ってこのような資料を作り続けることが出来たのは、会員の皆さんと一緒に稽古する機会を与えられたからで、自分一人でやろうと思ってもとても長続きしなかったと思う。生来怠け者の私は強制されないとなかなか出来ない性分である。次の稽古までに何かをと期限をきられることによって怠け心に鞭打つことが出来たと思う。振り返ってみて本当に良い機会を与えて下さったと感謝感激である。

 また、定年になってからクルマとパソコンを始めたのも役に立った。クルマを運転することで行動半径が拡大し、関東甲信越の謡蹟や神社仏閣はほとんどクルマで廻ることが出来た。パソコンも資料作製には強力な助っ人となった。手書きからワープロを経てパソコンと良い時代にめぐりあったものである。性能が向上する一方で値段も安くなって我々にも手が届くようになった。写真もパソコンに取り込めるようになり、しかもカラー印刷も楽しめるようになった。

 このように、謡とクルマとパソコンのおかげで定年後も少しも退屈することなく今日まで過ごすことが出来たし、謡蹟めぐりや謡舞観巡の作成は私のライフワークとなってしまったようである。

 私も満79歳を過ぎ身体も頭も衰えは覆うべくもない。50周年記念という節目の時を機会に、毎週金曜日のお稽古の方は辞退させていただきたいと思っているが、それでも身体の動けるうちはせっせと謡蹟めぐりや寺社めぐりを続け、参加している謡の会合には積極的に参加したいと願っている。またパソコンを使って当面は残された曲目の資料完成を目指すとともに、ホームページのことなども勉強して見たいと願っている。 

                            (平成16年4月記)


   主な内容


発刊のことば 田中成欣

祝    辞 渡邊三郎

写    真 KDD宝生会例会 16枚 末広会・讃和会 9枚  官実連 6枚

会員の寄稿  27名

50周年記念大会 日時場所 参加者名簿  番組毎の写真 懇親会スナップ写真

想い出の写真集 会員の能出演 その他

活動記録 会の年表 例会記録 末広会の出演記録 讃和会の出演記録 官実連の出演記録

     渡雲会・双葉会の出演記録 会員の能・舞囃子出演記録 会の稽古 役員記録

     会員記録

記念誌作成・記念大会開催準備記録

編集後記

B5版 144頁 平成16年8月刊行 

KDD宝生会 50周年記念誌 平成16年8月
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私の履歴書

「日々是好日」 −高橋春雄・私の履歴書−