この会は村本脩三氏が発起人となり、昭和37年12月に発足した旧逓信省出身者の謡会である。電波振興会の青葉荘で第1回会合を開いたので青葉宝生会という名にしたそうである。途中からKDDの新宿会館(後KDDIホテルストラーダと改称)、会館が閉館の後は鳩森神社に会場を移し、原則として年4回開催してきたが、平成16年3月には第155回会合を最後に休会状態となっている。
私は昭和41年7月入会した。入会と同時に会の案内の作成発送、会場設営等世話役を担当、第二の職場KCSを退任する昭和63年5月まで22年間続けさせていただいた。
始めの頃は素謡5曲を取り上げ、シテ役と地頭だけを前回の会合の懇親会の席上で決めておき、その他の役は当日抽選で決める方式をとっていた。途中から素謡を4曲とし、そのかわり、仕舞・独吟を3,4名指名することとなった。会員の中には逓信省の事務次官を務められた鈴木恭一さん、山田忠次さんはじめ、石川武三郎さん、田倉八郎さん、倉沢岩雄さんなど、錚々たる顔ぶれが揃っており、啓発されることが多かった。中でも90歳をとっくにこえた山田忠次さんが、独吟で「隅田川」を無本で謡われた際、「頭の衰えを少しでも喰い止めるため、独吟は無本でやるよう心がけている」と言われたのを今でも思い出す。
また昭和62年12月、100回記念のとき、河東義方氏作詩、村本脩三氏作曲の「青葉宝生会の謡」が初めて謡われ、以後今日に至るまで会の冒頭に全員で謡うことにしている。その歌詞は次のとおりである。
青山に、生まれてその名青葉会、文化の礎逓信に、黄金の釘打ち終えて、
共に謡えば友を生み、友と謡えば情け湧く、心も身をもすこやかに、
五つの雲に結ばれて、寿(いのち)を延ぶるぞ有難き寿を延ぶるぞ有難き。
10周年の時には、田辺梅太郎さんに麗筆をふるっていただき、素謡扇を配ったり、77歳または80歳を超えた方に「翁」を謡っていただくことになった。第一号は山田忠次さんのシテ、田倉八郎さんの千才であった。
昭和57年の20周年記念には「発会20周年記念帳」が作られた。この時私は始めて村本さんに指導していただきながら、多くの方に原稿を書いてもらい一冊にまとめる体験をした。手書きの原稿をそのままコピーして綴じただけのものであるが、その後の私の本づくりに大きな影響を与えたものと思っている。私も「私の謡歴」と「編集後記」を書いている。また、その際会の継続発展に協力した一人として村本さんとともに私まで記念品を頂戴したのは感激である。
昭和63年5月、私はKDDの子会社KCS退任を機に、世話役を柳川英夫氏にバトンタッチした。その頃から競争原理の導入によりKDDの独占体制も揺らぎはじめ、KDD新宿会館の使用も難しくなってきた。他方この会を支えてきた秋元亮一、阿部理一、倉沢岩雄、河東義方、田近老雄、滝波健吉、田中正人、田辺梅太郎、細野春雄、山田忠次、吉川武男など有力な方々が亡くなる一方、若い方の入会が続かず苦慮している時に、この会の生みの親である村本さんが平成11年11月に逝去された。
平成13年9月にはKDD新宿会館も使えなくなり、しばらく空白の期間が続いたが、14年8月千駄ヶ谷の鳩森神社で再開することが出来た。席上この年が本会の40周年に当たることから記念行事の一環として、記念誌を作成することを提案了承された。幸い22名の方から玉稿をいただき、「あおば」なる記念誌を作成配布することが出来た。私も柳川氏とともに「青葉宝生会後半二十年のあゆみ」を書き、個人としても「村本脩三さんの思い出」を綴ってみた。
山田忠次さんの俳句
謡声 聞ゆる館 青葉風 人生の 余白とは今 老の春
第29回例会 KDD新宿分室 (昭和45.1)
10周年記念扇 田辺梅太郎氏揮毫 (昭和47.10)
村本脩三氏の仕舞
第57回例会 KDD新宿会館 (昭和52.2)
20周年記念大会 KDD新宿会館 (昭和57.8)
第113回例会 KDDホテルストラーダ (平成8.2)
「日々是好日」 −高橋春雄・私の履歴書−