昭和29年に宝生流の謡曲を習い始めてから53年あまりの歳月が流れ、今では謡曲は私の生き甲斐の一つになっている。何回かに分けて謡曲関係の思い出を綴ってみたい。
昭和28年KDDという新しい会社が発足したときは、何か社員全員に溌剌とした空気が漲っていたように思う。その勢いがレク活動にも向かったのであろうか。レクサークルの設立が続いた。謡曲関係では先ず観世流がサークルを結成した。これに刺激され当時既にプロの先生に宝生流の謡曲を習っていた、官練の先輩村本脩三さんが宝生流謡曲サークル(KDD宝生会)を結成した。そして会員の募集には、これも官練の先輩で同じ職場の経理部におられた秋元亮一さんが積極的に動かれた。
秋元さんに勧められ、何人かの仲間と一緒に村本さんの最初の稽古で「竹生島」を謡ったのが謡曲との最初の出会いである。まだ娯楽やスポーツも少ない時代だったせいもあって、サークルの会員は徐々に増え、昭和58年頃の最盛期には女子も含め、会員の数は約70名、年4回の例会では日頃の稽古の成果を披露し、その後の懇親会は各自の隠し芸で賑わった。
KDD宝生会53年間の歩みをまとめるのは容易ではない。幸い手許に私が作成したこの会関係の書物が何冊か残っているので、その中で記したものを紹介することとする。
昭和59年はサークル発足30年にあたったが、私がちょうどサークルの会長をしていたので「30年記念誌」の作成を思い立ち、秋元さんの指導を得て完成配布した。その中で私は「発刊のことば」と「懐古」の一文を書いている。
平成4年1月には秋元亮一さんが亡くなられた。秋元さんは、KDD宝生会だけでなく会社の仕事のうえでも、仕事を終えてからも、またその後教授嘱託会でもいろいろとご指導をいただいた方。仲間と相談して追悼文集「秋元亮一を偲ぶ」を作成した。彼を知る87名の方からの追悼文をいただき、私も「秋さんのあとたどりつつ四十年」「編集後記」を書かせていただいた。
昭和54年渡邊三郎先生のお取次で宗家より教授嘱託の免状をいただいてからは、私も会員指導を分担することとなった。病気のため中断したこともあったが、平成16年の50周年記念大会まで続いた。その間に稽古用の資料として選んだ曲目についての私が謡い、舞い、能を観、謡蹟を巡った思い出を「謡舞観巡」としてまとめ、会員に差し上げてきた。平成19年8月にようやく180曲全曲分を完了した。約1.300頁となり、その内容を全部紹介することは出来ないが、その「まえがき」と「あとがき」のみを紹介する。ただこの中に収録した「謡蹟めぐり」関係だけは、「謡蹟めぐり」としてインターネットで公開しているので参照ねがいたい。
また平成15年4月には、「謡舞観巡」の別冊第1号として「KDD宝生会五十年回顧」を作成したが、これも「まえがき」と「目次」のみを紹介する。
平成16年4月には「50周年記念誌」も作成された。私も顧問ということでその作成に参加させていただき、「KDD宝生会後半二十年のあゆみ」「謡の稽古用に作った資料の数々」の二つを掲載させていただいた。
我々のサークルも今日では現役が少なくなって、OBの集まりのようになってしまったが、それでも昨平成19年5月に杉並能楽堂で開催されて春季大会の番組には会員19名が参加しており、来賓の鳳声会からも4名が参加されている。会長渋谷英一、幹事長平野保の皆さんにお世話していただきながら、柳川英夫、山田清重のお二人が指導にあたっている。毎年例会も開催されており、また、官庁実業団連盟(官実連)の謡会にも昭和38年以降40数年間、毎年無本参加の伝統を守っており、頼もしく思っている。
KDD宝生会の創設は 村本先輩昭和二十九
同じ課の秋元さんに誘われて 仲間に入る発足の時
もう一度もう一度との異名とる 稽古きびしき村本師匠
最盛期会員の数七十名 年四回の例会をもつ
KDD宝生会30周年記念 村本脩三先生叙勲祝賀大会
熱海市 ホテル・ニューアサヒ (昭和59.5)
KDD宝生会50周年記念大会 杉並能楽堂 (平成16.4)
KDD宝生会50周年記念大会 筆者の独吟「勧進帳」 杉並能楽堂 (平成16.4)
第49回官実連参加 連吟 「黒塚」 (平成14.8) 宝生能楽堂
「日々是好日」 −高橋春雄・私の履歴書−