資料   「秋元亮一を偲ぶ」より     平成4年9月

       秋さんのあとたどりつつ四十年


                   高 橋 春 雄


 秋元さんとの出会いがなければ、私の人生も今までとかなり違ったものになったのではないかと思います。

 というのは、この四十年間、仕事の上でも趣味の面についても、秋元さんに導かれ、そのあとをたどりながら過ごしてきたような気がするからです。

 仕事の上では昭和28年KDDが発足した年に東京国際電報局から本社経理部会計課に転勤、そこに官練3年先輩の秋元さん(以下秋さん)がおられたのが最初の出会いです。秋さんの人柄に魅せられて、同じような経理関係の仕事を続けるうち、秋さんと同じにKDDの最後は経理部長、定年後は子会社国際ケーブル・シップKKの取締役経理部長というコースをたどることとなりました。

 また、趣味の謡曲の面では昭和29年、秋さんのおすすめで、村本脩三さんに教えていただくことになったのがキッカケで謡の道に入りました。その後このお二人のおすすめで、渡邊三郎先生の門下に加えていただいたり、多くの会にも参加させていただくようになりました。教授嘱託会の会合に出るよう勧めてくれたのも秋さんです。

 仕事や謡の面だけでなく、会社がひけた後や休みの日にも、秋さんにずいぶんお付き合いいただきいろいろ教えていただきました。お酒、カラオケ、ゴルフ、ボウリング等々。時にはご自宅までお邪魔して家族ぐるみでお世話になりました。

 こんな状態でこの四十年を過ごしてまいりましたので、秋さんの想い出は尽きることがございませんが、思い出すままにそのいくつかを記してみます。


◯ 熟慮の人 調整の人

 仕事上直接の上司となれば判断を仰ぐことも沢山ございます。しかし、少し混み入った問題になると、秋さんはなかなか結論を出さない人でした。会議の席上でも気の短い私どもはイライラしているのですが、ジックリ考えてから結論を出すのです。しかし一旦結論を出されてみるとなるほどと感心させられるのが常でした。おそらく頭の中のコンピュータをフル回転させながら、いろいろの意見の利害得失を調整したうえで結論を出していたのでしょう。

 私どももコツを覚えてまいりまして、自分の言いたいだけ言っておけばあとは秋さんに適当な時間を差上げれば立派な結論が自動的に出てくるものと信じ、余りイライラしないで待つようになりました。


◯ 記憶力抜群の人 努力の人

 私が知っているだけでも秋さんが参加している謡の会にはKDD宝生会、渡雲会、教授嘱託会、青葉宝生会(旧逓信関係)、弥生会(練馬近辺の渡雲会会員)、武蔵野宝生会(登坂先生関係)、田無文化祭、官実連(官庁実業団連盟)、練馬区謡曲連盟大会、若松弥生合同謡会、末広会(KDDの宝生、観世合同全国大会)、麓華会等と沢山ございます。

 これらの会が年に何回かの例会を催しているのですから、中には自分の仕舞、舞囃子や仕舞の地謡、無本出演の連吟等、暗記しなければならない曲もかなり多かった筈です。これらの曲を何時どうやって覚えるのか知りませんが、苦もなくスラスラ出てくるのにはびっくりさせられました。全部暗記している曲もいくつかございました。

 歌を唄う時でも歌詞の本やビデオの世話にならずに唄っておりましたし、往年の映画の俳優の名前などもポンポン飛び出しておりました。先天的に頭の良い方であるのは確かですが、私どもの見えぬところで人一倍努力されておられたのではないかと想像しております。


◯ 人生を楽しんだ人 それを教えた人

 秋さんは私なんかより少なくとも十倍ぐらいは人生を楽しんでいると自分でもそう思い、人にも話しておりました。謡は別格としてもゴルフ、マージャン、カラオケ、ボウリング等も好きなだけでなく、かなりの腕前に達しておりました。若い頃は弓もやられたそうです。また、自分でやることだけでなく、読書・映画や、野球・相撲など見るスポーツについても驚くばかりに精通しておられ、天文、哲学の話から、歌手、俳優さんのゴシップまで、まことに話題の豊富な人でした。

 私など何一つ太刀打ち出来ません。対等に付き合えたのはお酒ぐらいです。誘われたり、誘ったりで二次会、三次会にも随分お付き合いしました。お酒にはこんな思い出があります。

 KDD 宝生会では夜のお稽古は毎週月曜日だけで、秋元先生の受持となっておりました。稽古が終わると反省会と称して新宿西口の飲み屋で一杯やるのが恒例となっておりました。私も当時は一杯やるのがなにより好きで、仕事で遅くなって謡の稽古に出ない時でも反省会には万難を排して出席しておりました。談論風発楽しい会合でした。

 反省会が済んで一同新宿駅まで来ます。秋さんと私は同じホームに降ります。秋さんは田無ですから山手線で高田馬場、私は中野ですから中央線の鈍行がノーマルルートです。しかし、秋さんはここで迷うのです。まっすぐ山手線に乗るか、中野まで行って経理部定宿のカラオケバーに寄るか。

 そして迷った時は大抵中央線に乗りました。時には同じ謡仲間で秋元さんのあとを追うように亡くなった三鷹の加児君も合流して中野駅で下車、呑み直しです。呑み且つ唄い、興が乗ると三次会にまで発展、午前様になるのも珍しくありませんでした。今は二人とも亡くなり、私も病気してからはお酒を呑まなくなってしまいました。淋しい限りです。

 私がやって秋さんが出来なかったのは車の運転ぐらいではなかったでしょうか。私が定年後、運転の練習を再開した時、秋さんも運転したくて仕方なかったのです。私が使った中古車をお譲りする予定でしたが、奥様のお許しが出なくてとうとう断念されました。車の運転はしなくとも、大型免許を持っておられたようで、道路のことなど私よりよほど良く知っており、もし運転しておられたらこれも私などはるかに及ばぬ名ドライバーになっておられたことでしょう。


◯ 弱音をはかぬ人 誠実の人

 会社の仕事の面でも苦しい時が多かった筈ですが、秋さんの弱音を聞いたことはありませんでした。謡の世界でも特に教授嘱託会に入ってからは、本部理事、東京支部副支部長、東京支部長と責任が重くなるにつれ、ますます多忙になった筈ですが、やはり弱音を聞いたことはありませんでした。

 最近になって自分が会計関係の仕事を少しお手伝いするようになって、秋さんやその先人の方々のご苦労が如何に大変なものか実感しております。

 東京支部大会、全国大会を中心になって取り仕切り、そのほか、東北大会、中国四国大会、関東甲信越大会に参加するための番組作成、役割の決定、自分自身の参加等、目の回るような忙しさに加え、素謡会の運営、会員の加入脱退、会費の整理等々。

 これらの仕事を体調が優れないにもかかわらず、黙々としてしかも几帳面に整理されておられるのを拝見して、ただただ脱帽するのみであります。そのほか

・ 秋さんの企画で飛鳥路を散策したこと

・ 秋さんがシテ役の能「蝉丸」「夜討曽我」「絃上」に助演したこと

・ 秋さんとKDD宝生会三十周年記念誌を作成したこと

・ 名所めぐりの際、藤戸寺で「藤戸」を奉謡したこと(秋さんがシテ役)

・ 昨年渡雲会初会で秋さんが「翁」を披いた時、千才を勤めたこと

・ 秋さん最後の舞台となった関東甲信越長岡大会のこと

・ 警察病院に何回も訪ねて嘱託会の会計事務を引き継いだこと

・ 田無文化祭に仕舞「松虫」を舞えずに逝った秋さんの霊前でこの曲を奉謡したこと

等々、書きたいことは沢山ありますが、あまり長くなるのでこの辺で終ります。

 秋さんの人柄に惹かれ、後を追っかけながらこの四十年を過ごしてまいりましたが、その秋さんに逝かれてしまい、目標を失って戸惑っております。

 でもなにか秋元さんの生きざまみたいなものは僅かながら掴めたような気がしますので、これから残された時間これを大事にしながら精一杯生きてみようと思っております。どうぞ見守って下さい。

 そのうちそちらに参ることは確実でございますので、その節はまたよろしくお願いします。

                            合掌

   秋さんのあとたどりつつ四十年

         そちらへ行ったらまた頼みます


    KDD経理部、KDD宝生会会員、渡雲会会員、教授嘱託会会員

                     







        「秋元亮一を偲ぶ」より        平成4年9月


            編 集 後 記


 生前秋元さんと親しくしていた方々との話し合いの中で、追想録作成の話が出て、是非やって見ようということになり実行に移したものの、果たして何通集まるか祈るような気持でおりましたところ、八十七名もの大勢の方々から玉稿を頂戴することができ事務局一同大きな感激でした。

 原稿は謡曲関係の方々からの思い出が一番多いようですが、そのほか仕事、学生時代、ゴルフ、マージャン、お酒、カラオケを通しての思い出など内容は多岐にわたっており、秋元さんを知る皆様に懐かしくお読みいただけるのではないかと思います。とりわけ、秋元さんの弟さん、妹さんの原稿で、秋元さんがあまり語らなかった幼少の頃のことや、生まれ故郷青森市や秋元家のことなど知るにおよび、秋元さんがよく唄っていた「津軽海峡冬気色」などは、ご本人にとって格別の感慨があったのだと認識をあらたにした次第です。

 心温まる皆様がたのご支援により、ようやくこのような形にまとめることができました。有難うございました。また、本書の発行にあたり、丸井工文社社長の今井正作さんには絶大なご指導ご支援をいただきましたことをご報告申し上げますとともに、誌上をかりて衷心よりお礼申し上げます。

 終わりに、名簿の作成、発送、写真・資料の調査作成、編集校正等々の作業に熱意をもって取り組み、まとめていただいた事務局各位の労に対し深く感謝申しあげます。 

                             (高橋春雄記)




主な内容

巻頭写真   56枚

追 想 録  87名

弔   辞  4名

故人の経歴

故人の残された記録

 渡雲会出演記録、嘱託会全国大会記、東京支部概況報告、謡曲名所めぐり、渡雲会とKDD宝生会、宝生流謡曲語句略解抜粋、青葉宝生会記念帳に寄せて、逓信同窓会誌に寄せて、KDD宝生会三十年のあゆみ、雑感等12点

A5版 307頁 平成4年9月刊行

秋元亮一を偲ぶ 平成4.9
秋元亮一を偲ぶ 平成4.9



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