資料     越前・若狭・丹後・丹波への旅
      (平成七年度  謡曲名所めぐり ガイドブック)

観光コースのあらまし


第1日目 5月9日(火) 

 東京駅発(東海道新幹線ひかり205号7:28)→米原駅着(9:50)→米原駅発(しらさぎ3号9:57)→武生駅着(10:50)全員集合・同駅発(11:00)→紫式部公園→今立町寿屋昼食→花筺公園(皇子ケ池、岡太神社他)→和紙の里会館→味真野神社・味真野苑→気比神宮(敦賀市、車中参拝)→ 小浜市(サンホテルやまね泊)

第2日目 5月10日(水) 

 サンホテルやまね発(8:00)→世阿弥船出之地記念碑→遊覧船のりば(蘇東門めぐり)→神宮寺・名水百選「鵜の瀬」→舞鶴港引揚記念公園一巡→成相寺→傘松公園→天の橋立一ノ宮→智恩寺(文珠堂)、和泉式部歌塚→天橋立(文珠荘新館泊)

第3日目 5月11日(木) 

 文珠荘新館発(8:00)→大江山酒呑童子の里(鬼のモニュメント、鬼の交流博物館)→二瀬川、鬼の足跡、頼光腰掛け岩→元伊勢外宮→大江駅→福知山サンプラザ万助昼食→氷室神社(八木町)→京都(17:00)

  東京参加者京都駅(新幹線ひかり264号17:44)発 

    東京駅着 20:21 解散

  武生参加者着後京都駅にて解散


(注)1.JRの時刻変更あるときは、改めてお知らせします。

   2.コースは予定であり、都合により変更(最悪の場合カット)することが
     あります。


            主 な 謡 蹟   

 謡蹟名        関連曲    謡蹟名      関連曲

紫式部公園       源氏供養   花筺公園、皇子池 花 筺

味真野神社、味真野苑  花 筺    気比神宮     安 宅

世阿弥船出之地碑    謡曲一般   成相寺      盛 久

和泉式部歌塚      東 北    大江山      大江山

氷室神社        氷 室    



           (観光順路略図 割愛)



            観光のポイント御案内

1. 紫式部公園       10. 成 相 寺

2. 花筺公園        11. 天 橋 立

3. 和紙の里会館      12. 智恩寺(文殊堂)・

4. 味真野神社・味真野苑     和泉式部の歌塚

5. 気比神宮        13. 酒呑童子の里

6. 世阿弥船出之地記念碑  14. 二瀬川・鬼の足跡他

7. 遊覧船で蘇東門めぐり  15. 元伊勢外宮 

8. 神宮寺・名水「鵜の瀬」 16. 氷室神社

9. 引揚記念公園      (参考)その他の謡蹟

                             


1. 紫式部公園   福井県武生市千福町  「源氏供養」

 「源氏物語」の作者として名高い紫式部が、当時日本の表玄関敦賀を擁する大国越前国守に任じられた父藤原為時とともに、国府の置かれた武生に滞在した。北陸の雪の日々や、敦賀港から入る宋の国の文化に接したことは、青春の多感な頃の紫式部にとって大いに刺激的であったと考えられる。そしてそんな紫式部を偲んで造られたこの公園は、全国でも珍しい寝殿造庭園で、平安時代の雅やかな雰囲気が漂っている。紫式部像、池と釣殿等見所が多い。

 「紫式部像」・・公園の中でもひときわ美しく輝いているのが紫式部像である。制作者は文化勲章受章者の圓鍔勝三氏。高さは(台座にかかる十二単衣の裾を入れて)約3メートル。北陸の緑や雪に映えるようにと金箔で仕上げられており、聡明できれいな女性であったと言われる紫式部の表情がうかがえる。

 「池と釣殿」・・平安貴族の住宅樣式の寝殿造とは、寝殿(正殿)を中心とした数棟の建物と、池や築山などを取り入れた庭園で構成された邸宅である。この公園でも遣水の他に約700坪の池が工夫して配置され、例えば一晩中、池の水面に月が映り続けるようになっていたり、四季折々の自然の姿が池にあらわれるように配慮されている。池辺に再現された釣殿は総桧造り。釣殿は、納涼や月見・雪見の宴、詩歌管弦の場所として使われた。


2. 花筺公園(皇子池・岡太神社他) 福井県今立町粟田部 「花 筺」

 継体天皇は即位前の御名を男大迹皇子といい、この里に永く住んでいた。村人たちはその皇子の名にあやかって、この里を「男大迹部の里」と呼んでいたが、後に皇子と同音の地名では恐れおおいというので「栗田部」と名づけられたといわれる。このあたりには皇子にちなんだ旧跡が沢山残されている。

 「皇子ケ池」・・花筺会館に向かって右の坂下。男大迹皇子(継体天皇)の産湯の池とも、また御子安閑、宣化両天皇の産湯の池とも伝えられる。

 「岡太神社」・・公園内。継体天皇を祀る。

 「名勝花筺公園碑」・・公園内。碑文は、越前福井16代藩主松平慶永(春岳)公の直孫松平永芳氏(靖国神社宮司)の書であり、碑石は福井城本丸の石で花筺公園保勝会が昭和41年に建立した。

 「花筺ゆかりの地碑」・・公園内。宝生流第17世宝生九郎氏の筆で、謡曲の「花筺ゆかりの地」と書かれたものである。台石は、御大典記念の大砲が台上にあったが戦時中供出し台のみ残っていたものである。昭和30年1月建立。

 「薄墨桜」・・公園から山道を登り三里山山頂近くにある。かなり遠いので今回の旅行では割愛したが、皇子ゆかりの桜とのことなので紹介する。樹の廻り4.5メートル余、幹の高さ9メートル余、500から600年の樹齢と推定される。桜を愛した皇子が即位のため、上京の折、神社に形見として残された桜を世人は筺(カタミ)の花と言い伝える。後俗風に染まるをおそれて、人跡まれな現在の地に移し植えて天皇の遺跡とあがめるようになったという。天然記念物。

 (参考) 継体天皇のご上洛について

 越前にいた男大迹皇子が、都から迎えがきて、恋人の照日の前に告げることも出来ないほど急に上洛し、しかも血縁でもない武烈天皇の皇位を継承するというのは尋常ではない。応神天皇の五代の御孫ということになっているが、いかにも不自然なので歴史の書物を二、三調べてみた。

 「仁徳天皇の子孫は六世紀初頭の武烈天皇で絶え、仁徳の父応神天皇の五世の孫の継体天皇が越前からむかえられ、大連の大伴金村らの力によって河内の樟葉で即位したという。しかしこの伝えは事実かどうか疑わしい。

 おそらく継体天皇は大和の諸豪族に推戴されたのではなく、自分の実力をもって大和に存在した対立勢力をうちたおし、約二十年の闘争ののちにようやく天皇となったものと思われる。」

          (中央文庫 直木孝次郎箸「日本の歴史2」)

というあたりがどうも歴史的事実のようである。万世一系で教育されてきた私には素直に受入れにくいが、古代の日本の歴史もなかなか興味深い。継体天皇には尾張氏から出たきさき目子媛を母とする安閑、宣化の二帝と、仁賢天皇のむすめ手白香皇女を母とする欽明帝が皇子としているのであるが、皇位継承をめぐって争っている。どうも本曲の照日の前は歴史の上には登場してこないようである。

 福井市の足羽公園に継体天皇の大石像があり(今回の名所めぐりの候補地にあげておいたが、時間の関係で割愛せざるを得なかった。)、天皇の御陵は大阪府茨木市藍野にある。


3. 和紙の里会館  福井県今立町新在家

 花筺公園から味真野苑に向かう途中に「和紙の里会館」がある。こうぞ、みつまたなどの和紙原料をはじめ、数々の文獻、古紙や製品など1500年の和紙の歴史が展示されている。即売コーナーでは多彩な和紙のお土産品に目が移り、足がいつまでも止まってしまうのが心配だ。

 会館を出ると和紙の里通りとなっており、せせらぎに沿って散策が楽しめる。何軒かお店もある。

 和紙の里通りの突き当たり「パピルス館」では紙すきの実習が出来る。500円で手作りの立派な色紙が作れるというので多くの人が集っている。係員が指導してくれるので難しいことはない。色紙用の金網を持ち水そうの中の原料を汲み紙をすく。色紙の中に入れる木の葉を1〜2枚選び、色のついた原料で模様をつける。あとは係員が機械で水分をとり乾燥してくれて出来上がり。しかし、乾燥するだけでも10分くらいかかるので、時間に余裕を見込み、バスの時間に遅れないようくれぐれもお願いします。


4. 味真野神社・味真野苑  福井県武生市池泉  「花 筺」

 味真野神社は「花筺」前段の舞台で、継体天皇を祀る。天皇が男大迹皇子の頃、母振媛命とともに住まわれたところと言われる。

 「継体天皇御宮跡碑」・・境内入口の鳥居の傍らに大きな碑が建っている。

 「謡曲花筺発祥之地碑」・・神社境内にある堂々とした碑には圧倒される。傍らの建碑由来によると

「ここは人皇第二十六代継体天皇が男大迹王と申された頃、鞍谷御所を営み潜龍されたという聖地伝承の地である。

 謡曲花筺に天皇がこの地を即位のため都に上られた頃の人情味豊かで詩的***を遠く鎌倉時代に於いて斯界の巨匠世阿弥によって作曲修辞佳麗世に名作とうたわれている。

 本会は天皇一千四百五十年祭を記念し碑石を美濃の恵那に求め揮毫を時の良二千石中川平太夫先生に仰ぎ聖跡を千歳に顕彰するものである。

  昭和五十四年十月吉日

  味真野花筺会会長    帰 山 登 喜 雄 文

              帰 山   * 仙 書     」

とある。中川平太夫先生というのは、当時の福井県知事だったようで、雄渾な筆跡は恵那産の碑石によく調和して、見る者をして1500年の昔に誘ってくれる。


 味真野神社に隣接して「味真野苑」がある。苑内には「郷土資料館」「比翼の丘」「連理の松」「万葉の相聞歌碑」などがあり、「花筺」のほかに、万葉集に残る中臣宅守(なかとみのやかもり)と狭野茅上娘子(さぬのちがみのおとめ)との恋愛贈答歌63首の舞台としても知られるところである。

 「上村松園 花がたみの絵」・・郷土資料館内。女性として初の文化勲章受章者である上村松園の代表作を、上村氏のご好意により写真複製したものが展示されている。謡曲「花筺」に取材したもので、照日の前の狂乱の姿を優雅・典雅に描ききって、女性美の深奥を極めた傑作といわれる。松園には他に「序の舞」「母子」などがある。

 「比翼の丘」・・今から約1200年前の天平10年頃、時の朝廷に仕えていた中臣宅守は、女官狭野茅上娘子と燃えるような恋におちてしまった。中臣宅守は恋のとがを受け味真野の里へ流罪となってしまった。引き裂かれた二人は、互いを思う心を歌にして贈答しあった。

 万葉集巻15には、娘子23首、宅40首の悲しい愛の歌が残されており、この味真野苑には代表的な15首が歌碑となっている。

 比翼の丘に建てられた二人の相聞歌碑を紹介しよう。

    君が行く道の長手を繰り畳ね

        焼き滅ぼさむ天の火もがも 

                狭野茅上娘子

    塵泥(ちりひじ)の数にもあらぬ我故に

        思ひわぶらむ妹(いも)がかなしき

                中臣宅守


5. 気比神宮   福井県敦賀市曙町 「安 宅」   

 「安宅」の曲に「気比の海宮居久しき神垣や」とある。義経主従12名もこの地を通り、気比神宮に道中の安全を祈願したことであろう。

 今回の名所めぐりでは残念ながら車中参拝となってしまったが、木造としては、厳島神社、春日大社とならんで、日本三鳥居のひとつに数えられる大きな鳥居は拝観できることと思われる。

 願わくは機会を作って再び訪ねていただき、1万坪を超す境内をゆっくり散策、参詣するとともに、これも「虹の松原」「三保の松原」とともに日本三大松原と言われる「気比の松原」にも足を伸ばしてほしいものです。

 気比神宮の祭神は、伊奢沙別命(いささわけのみこと)、仲哀天皇、神功皇后、日本武命、応神天皇、玉妃命、竹内宿弥命とのことで、謡曲で馴染みの深い名前も多い。

 伊奢沙別命は食物を司り給う神、神功皇后・応神天皇は漁業に対する御神徳著しく、古来五穀豊穰、海上安全、大漁祈願が行われ、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・竹内宿弥命は無病息災延命長寿、また神功皇后・玉妃命は音楽舞踊の神であるとのこと。

 私どもの交通安全、無病息災延命長寿、そして謡や仕舞が上手になるようお祈りしましょう。


6. 世阿弥船出之地記念碑 福井県小浜市台場浜公園「謡曲一般」  

 遊覧船で蘇東門めぐりをする予定となっているが、その遊覧船乗り場の近くに公園があり、その一角に「世阿弥船出之地記念碑」が建っている。

 能楽の大成者世阿弥は、その晩年、時の将軍義教の怒りにふれ、老の身を佐渡へ流された。永亭6年5月4日、かって華やかに活躍した都を発ち、翌日、ここ若狭小浜の地に至り、風待ちのためしばらく留まった後、佐渡へ船出をしている。その様子は、佐渡で世阿弥が記した「金島書」の「若州」で知ることができる。本土最後の地、この若狭小浜の美しい江の風景は、船出を待つ世阿弥の胸の中に焼きついたことと思われる。

 世阿弥の遺業を偲んで地元有志が昭和62年にこの碑を建立した由である。若狭の地は江戸時代を通じて能楽の盛んな土地であり、今も、各神社に古い能舞台が残り、能楽ゆかりの地も多いとのこと。

 (参考) 世阿弥の「金島書」より

 「永亭6年5月4日都を出て、次日、若州小浜と云う泊に着きぬ。ここは先年も見たりし処なれども、今は老耄なれば定かならず。見れば江めぐりめぐりて、磯の山浪の雲と連なって、伝え聞く唐土の遠浦の帰帆とやらんも、かくこそと思い出られて

 船止むる、津田の入海(小浜港あたりの古い呼び名)見渡せば、五月も早く橘の、昔こそ身の、若狭路と見えしものを、今は老の後背山、されども松は緑にて、木深き木末は気色だつ、青葉の山の夏陰の、海の匂いに移ろいて、さすや潮も青浪の、さも底いなき水際かな・・・。」 


7. 遊覧船で蘇東門(そとも)めぐり  小浜湾・若狭湾

 若狭国定公園の中心。奇岩洞門は6キロにわたり、陸路からは人を寄せつけない。断崖絶壁の下にポッカリと穴のあいた大門・小門、またその昔、小浜が唐との交流が盛んだった頃、唐船をつないだといわれる唐船島は、見るほどに感心させられる親子亀岩や、獅子岩などの奇岩、そして、時おり現われる滝や美しい松が、見事な調和美を添えている。


8. 神宮寺・名水百選「鵜の瀬」  福井県小浜市神宮寺

 小浜の港は、14世紀の南北朝時代のころから大陸との交易が盛んになり大いに繁栄した。渡来品や若狭の産物は若狭街道を経て京都、奈良へ運ばれた。古社寺や仏像などの文化財をはじめ、数々の伝統工芸を今に伝えるこの町は「海のある奈良」と呼ばれ、国宝めぐりの定期観光バスがいくつも出ている程である。今回はそのうちのひとつ、神宮寺を訪ねる。 


 神宮寺は、お水送りの寺でも知られ、毎年3月2日には、奈良・東大寺へ名水百選の「鵜の瀬」からお香水が送られ、多くの参詣で賑わう。

 この寺は和銅7年(741)泰澄大師の弟子、滑元が創建、神願寺と称し元明天皇の勅願寺となり、鎌倉時代に将軍・藤原頼経が、七堂伽藍二十五坊を寄進、神宮寺と改め、若狭一の宮の別当寺となり、絢爛豪華な寺院として繁栄を誇ったが、時代の流れとともに衰微し、いまは本堂と仁王門を残すのみとなったが、二つとも重要文化財に指定されている。


 神宮寺から1.5キロ程の所に名水百選の「鵜の瀬」があり、きれいな水がこんこんと湧き出ている。この水が奈良の東大寺の二月堂に送られるという。由緒記によると

 「天平の昔、若狭の神願寺(神宮寺)から奈良の東大寺にゆかれた印度僧実忠和尚が、大仏開眼供養を指導の後天平勝宝4年(753)に二月堂を創建し修二会(しゅうにえ)を始められ、その二月初日に全国の神々を招待され、すべての神々が参列されたのに、若狭の遠敷明神(彦姫神)のみは見えず、ようやく2月12日(旧暦)夜中1時過ぎに参列された。それは川漁に時を忘れて遅参されたので、そのお詫びもかねて若狭より二月堂の本尊へお香水の閼迦水(あかみず)を送る約束をされ、そのとき二月堂の下の地中から白と黒との鵜がとび出てその穴から泉が湧き出たのを若狭井と名付け、その水を汲む行事が始まり、それが有名な「お水取り」である。その若狭井の水源がこの鵜の瀬の水中洞穴で、その穴から鵜が奈良までもぐっていったと伝える。この伝説信仰から地元では毎年3月2日夜、この渕へ根来八幡の神人と神宮寺僧が神仏混淆の「お水送り」行事を行う習慣がある。       小浜市  」


9. 引揚記念公園京都府舞鶴市

 昭和20年10月7日に引揚第1船「雲仙丸」が舞鶴港に入港して以来、13年間にわたり、66万有余人の引揚者と1万6千余柱の遺骨を迎え入れ、多くの喜びと悲しみのドラマが生まれた。異国での長く苦しい抑留生活に耐え、日夜ふるさとの山河を思い、夢にまで見た祖国への第1歩をこの舞鶴にしるした人たちは、待ちつづけた肉親との再会を歓び、こみ上げる涙でほほをぬらしたと語り継がれている。

 喜びにわく人波の陰では、未だ帰らぬ夫や息子を待ちわび、船が着くたびに桟橋にたたずむ女性の姿が見られるようになり、誰言うとなく「岩壁の母」、「岩壁の妻」と呼び、その切々とした姿は、全国民の涙を誘った。

 戦後50年を経た今、往時を偲ぶ引揚桟橋や建物などは残っていないが、この引揚の地を見下ろす小高い丘に、昭和45年「引揚記念公園」が設けられた。この公園には、記念碑や歌碑なども建てられ、舞鶴に第1歩をしるした引揚者とその家族の方々の安寧と、不幸にして異境の地に倒れ、帰らぬ人となった精霊に、心からの思いを寄せるとともに、訪れる人々に平和の尊さを語りかけている。


10. 成 相 寺  京都府宮津市成相寺  「盛 久」 

 謡曲「盛久」に「偖も主馬の判官盛久は、丹後の国成相寺に忍んで候を、よき案内者をもって生捕り申し、唯今関東へ御供仕り候」とある。

 「大江山」の曲中には成相寺の名は出てこないが、頼光一行は大江山に近づいてから成相寺に落ち着き、ここから鬼退治に向かったといわれ、この寺には頼光の負櫃(おいづる)、願文、酒呑童子退治絵巻などが所蔵されているともいう。

 この寺は文武天皇の勅願寺として慶雲年間(704〜708)の創建といわれ、西国三十三カ所第28番札所となっている。本堂内陣右上に左甚五郎作と伝えられる「真向(まむき)の龍」が見え、本堂への石段右手には悲しい伝説をもつ撞かずの鐘がある。


 「慶長14年(1609)山主賢長は、古い梵鐘にかえ新しい鐘を鋳造するため、近郷近在に浄財を求め喜捨を募った。1回、2回と鋳造に失敗し、3回目の寄進を募った時、裕福そうな家の女房が「子供は沢山いるがお寺へ寄付する金はない」と険しい目の色で断った。

 やがて鋳造の日、大勢の人の中に例の女房も乳呑児を抱えて見物していた。そして銅湯となったルツボの中に誤って乳呑児を落してしまった。このような悲劇を秘めて出来上がった鐘を撞くと山々に美しい音色を響かせていた。しかし耳をすますと子供の泣き声、母親を呼ぶ悲しい声、聞いている人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って一切この鐘を撞くことをやめ、撞かずの鐘となった。          」


 また、成相寺の由来について次のような話も伝えられている。

 「一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修行中深雪のため、里人の来往もなく食糧も絶え何一つ食べる物もなくなり、餓死寸前となった。

 死を予感した僧は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈った。すると夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に狼のため傷ついた猪(鹿)が倒れているのに気付いた。僧として、肉食の禁戒を破ることに思い悩んだが命にかえられず、決心して猪(鹿)の左右の腿をそいで鍋に入れて煮て食べた。

 やがて雪も消え里人達が登って来て、堂内を見ると本尊の左右の腿が切り取られ鍋の中に木屑が散っていた。それを知らされた僧は観音樣が身代りとなって助けてくれたことを悟り、木屑を拾って腿につけると元の通りになった。これよりこの寺を成合(相)寺と名付けた。  」

     波の音松のひびきも成相の

           風吹きわたす天の橋立   (御詠歌)


11. 天 橋 立  京都府宮津市

 安芸の宮島・陸奥の松島と並び日本三景の一つに数えられる天橋立は、宮津湾北西岸の江尻から、宮津湾(与謝ノ海)と西方の阿蘇海を真一文字にたち切り、南北につき出した全長3.6キロの砂浜である。この砂浜には大小約8000本の松がつづき、遠目には海面上に松並木が浮かび上がっているような錯覚にとらわれる。

  成相寺から専用のバスで下ってくると傘松公園である。ここの「股のぞき」は天橋立の展望には欠かせない所。股のぞきの台石が数個据えられており、石にのり股間からのぞくと、海と空が逆転し、橋立が天に横たわる長い柱のように見える。

 丹波風土記によるとその昔イザナギの神が天に通っていたはしごが、ある日昼寝をしている間に倒れて橋立になったのだという。股のぞきをしていると、なるほど天に登るはしごというのもうなずけるような気もしてくる。

 ここからケーブルかリフトで降りると一の宮。松並木の天橋立公園を歩くか、船に乗って対岸の文殊堂まで渡ることができるのだが、私たちはバスで岩滝を廻って文殊堂に向かう。


12. 智恩寺(文殊堂)、和泉式部歌塚 

             京都府宮津市文珠 「東北(和泉式部)」

 平安初期の創建と伝えられ、天下の景勝「天橋立」を境内としており、日本三文殊の一つに数えられる智恵の文珠を本尊とする「文殊堂」がある。境内には「和泉式部の歌塚」と伝える宝篋印塔がある。この塔はもとは宮津街道山手の「鶏塚」に建てられてあったが、明応年間(1492〜)の水災で土砂に埋まったのでここへ移したと伝えられる。鎌倉初期の寛喜元年(1229)、時の丹後国司藤原公基が日置の金剛心院から乞いうけた式部の歌を、あの小丘に埋めてこの塚を建てたという。

 塔は明らかに鎌倉時代の作風をあらわし、重要文化財として市内にその類をみない貴重な遺物となっている。


 (参考) 謡曲「九世戸(くせのと)」の舞台

 宝生流にはないが、観世流に「九世戸」という曲があり、その舞台がこの文殊堂と天橋立となっている。曲の概要は次のとおり。

 「朝廷の臣下(ワキ)と従者(ワキツレ)が丹後の国九世戸に参詣する。ここは天竺五台山の文殊を勧請した文殊堂である。天橋立の景勝を賞でているところへ漁翁(前シテ)と漁夫(前ツレ)が現われる。ワキが九世戸の名の由来を尋ねると、天神七代を経て地神二代の神がこの国に降り、天竺五台山の文殊を勧請したから、七代と二代を合せて九代、すなわち九世となった、と答える。さらに天から天人が、海から竜神がそれぞれ御燈を捧げてこの松の枝に並べるのが今宵であり、「・・短か夜の空も更け行く浦風の、音を静めて待ち給え」と言い、文殊に仕えるさいしょう老人であると名のり、松の木蔭に消える。(中入)

 やがて天女(後ツレ)が御燈をかかげて天降れば、竜神(後シテ)も竜宮から御燈を捧げて海を渡って来り、天地の両燈一つになって九世戸を煌々と照らす。竜神は海山を自由に飛び廻って舞を舞い、やがて天女は空に、竜神は波間に姿を消す。」

 

13. 酒呑童子の里  京都府大江町  「大江山」

 大江町では鬼退治伝説にちなんで、鬼をテーマとして町おこしをはかっている。酒呑童子の里に日本の鬼の交流博物館や鬼のモニュメントを建て、二瀬川に吊り橋や遊歩道を造り、駅前には全国から鬼瓦を集めて公園にする等々、さまざまなアイデアをこらした施設が整備されつつある。

 「酒呑童子の里」・・宮津市から大江町に入り二瀬川に沿って暫く降ると酒呑童子の里入口が見えてくる。大きく「酒呑童子の里」と書いた標識があり、赤い鬼の人形が金棒を持って出迎えてくれる。少し進むと山伏姿の頼光一行の人形も見える。

 「日本の鬼の交流博物館」・・酒呑童子の里を少し登ると「日本の鬼の交流博物館」があり、変わった外観や入口前に立つ巨大な鬼瓦に度肝を抜かれる。内部には鬼に関する数えきれない程の資料が陳列されている。

 「鬼のモニュメント」・・また、博物館近くの丘にはこれも巨大な鬼のモニュメントが人目をひいている。

 「吊り橋と遊歩道」・・二瀬川渓谷をまたいで大きな吊り橋が建設されており、これを通って「鬼の足跡」や「頼光腰掛け岩」などにも通ずる遊歩道が整備されつつある。私たちの旅行までにどの程度完成しているか楽しみである。

 「鬼瓦公園」・・日本全国から鬼瓦を集めて駅前の広場に陳列し公園としているがこれも壮観である。

          (大江町地図 省略)


14. 二瀬川・鬼の足跡・頼光腰掛け岩他 京都府大江町「大江山」

 大江町には町が近年町おこしのため建設設置したもののほかに、昔から受け継がれた大江山に関する謡蹟も沢山保存されている。

 「二瀬川渓谷」・・頼光の一行はこの川で捕えられてきたとおぼしき官女が洗濯をしているのに出会い、その官女に道を訪ねて酒呑童子のいる大江山の窟に向かったという。「官女洗濯岩」というのがある由。

 「鬼ケ茶屋」と「ふすま絵」・・二瀬川渓流の谷間の村にある「鬼ケ茶屋」は、酒呑童子が都への往復に休んだ所といわれ、秘蔵の鬼退治の7枚のふすま絵がある。くすんだような色あいがドラマチックな夢物語を語りかけてくるようである。

 「鬼の足跡」「頼光腰掛け岩」・・鬼ケ茶屋を出て二瀬川に沿って登ると、これらの表示板が目に入ってくるが、このあたりで頼光と鬼が戦ったという。「鬼の足跡」は鬼が遠くの山からここに飛びおりたところ。「頼光の腰掛け岩」はあまりに大きく「鬼の腰掛け岩」のほうがふさわしいような代物である。

 「鬼嶽稲荷神社」・・鬼のモニュメントから千丈が岳(大江山)に向い3キロほど登ると鬼嶽稲荷神社がある。大江山の八合目ほどにあたるらしい。ここまでは車で登ることが出来るのだが、今回の名所めぐりでは時間の制約で割愛した。このあたりも童子の住家だったらしい。

 「鬼の窟」・・本曲の舞台「鬼の窟」は「鬼嶽稲荷神社」から険しい山道をかなり登らなければならない。私たちの足では時間があってもちょっと無理のようだ。


    <酒呑童子異説>

 今から約1000年の昔、平安時代は京の都から都一の美人とうわさされていた池田中納言の娘紅葉姫の姿が突然消えた。

 「さては最近ちまたで酒売り長者と評判の高い酒呑童子の仕業ではないか。」と日頃その人気をねたんでいた占師の安部春明が帝に進言した。

 春明をかわいがっていた帝は、その言葉をうのみにして、日本一の武者と言われている源頼光に姫の救出を命じた。

 何も知らない頼光は、酒呑童子が酒の仕込みに都を離れたのを追っ手から逃れるためと思い込み、極悪非道の酒呑童子を討つためさっそく後を追って大江山へと向かった。

 大江山に来て頼光が目にしたものは、都の美しさにひけをとらない童子の屋敷と、仲むつまじく暮らす童子と紅葉姫の姿であった。

 かねてから紅葉姫に思いを寄せていた頼光は、紅葉姫の幸福そうな姿を見て「童子なら許せる。」とつぶやきながら山を下りようとしたその時、うしろで童子の悲鳴が聞こえた。

 急いでもどってみると、安部春明に率いられた武者の一団が童子屋敷に火を放ち、使用人たちを次々に痛めつけているところであった。「紅葉姫はどこじゃ。」声の限りをつくして叫ぶ頼光に姫の返事はなかった。

 帰路二瀬川の松の木に血に染まった紅葉姫の着物が掛かっているのを見つけ「姫は、恐怖と童子を失った悲しみのあまりこの川に身を投げたのかも知れない。」と家来の一人がつぶやいた。

 その後、酒呑童子と紅葉姫の姿を見たものはだれもいないという。」


15. 元伊勢外宮   京都府大江町   

 この大江町に元伊勢内宮、元伊勢外宮、元伊勢天岩戸神社など、お伊勢さまの元の姿がこの町にあることを知って驚いた。

 時間と交通の関係で今回は外宮にだけ参詣することとしたが、簡単に紹介のこととする。

 「元伊勢内宮」・・当地の伝承によれば、第10代崇神天皇の39年、大和笠縫邑から天照大神の御神体である八咫鏡を4年間お祀りした丹波吉佐宮の旧跡といわれ、その後全国を転々と移動した後、5年後に今の伊勢神宮の所に正式に鎮座されたとされることから、古来より元伊勢内宮皇大神社として西日本各地の崇敬を集めて来た。

 「元伊勢外宮」・・丹後地方へ天下った農業の神様豊受大神を祀ったもので、雄略天皇の22年、神夢により伊勢山田原に迎えたのが伊勢神宮外宮の始まりとされた。ここの豊受大神はその元宮だと言われている。

 「元伊勢天岩戸神社」・・神々が天下った所と伝えられ、奇岩と清流、うっそうとした古木に覆われた幽境に、天下った神々が座したといわれる巨大な御座石が威容を誇る。古くはこの上で巫女が神楽を舞ったと伝えられており、どこか神秘的な雰囲気がただよう。


 (参考) 戦友の歌碑 

 謡曲や元伊勢とはまったく関係ないが「戦友の歌碑」がこの大江町にあるのでご参考までに。

 「ここはお国の何百里・・」と愛唱された「戦友」の歌は私たちの年配の方なら知らぬ人はいないと思うが、この歌の作者、真下飛泉はこの町の出身。宮川河畔にその歌碑がある由なので申し添える。


16. 氷室神社  京都府八木町氷所  「氷 室」   

 謡曲「氷室」の舞台になっている所である。亀山の院に仕える臣下(ワキ)が、丹後の国九世戸(文殊堂)に参詣の帰途ここに立ち寄り、前シテの氷室守の翁に出会う。そして後シテは氷室の神であるから、全曲を通してこの氷室神社あたりが舞台になっている訳である。

 昨年11月下見のため始めてここを訪ねた。国道から離れており、途中何回か道を聞きながら、林の中に静かに鎮座している神社に到着した。これほどの謡蹟だからかなり大きな神社で、「氷室」に関する資料も簡単に入手できると思っていたのだが、神社の案内板を見ても氷室に関する記述もなく、由緒を書いた資料も置かれていない。

 しかし、思いがけぬところから思いがけぬ資料を入手できたのである。というのは、今回は旅行社から連絡してくれたため、氏子代表の方が3名もわざわざ神社で迎えてくれたからである。神社わきの普段使っていない建物に案内され、お茶をいただきながらいろいろとお話を伺うことが出来た。そして、私どものためにわざわざ

 「氷室、氷室大明神の参考事項(1994・7・18)」

というB4版7ページの手書き資料をコピーして持参されたのである。

 系統づけられたものではないが、いろいろの記録を抜粋されたもので、往時の様子をかいま見ることができるように思われるので、その中から氷室に関する部分を紹介する。

 「○ 南北朝期に入ると氷室文書に・・・中略・・などとあり、神吉氷室がなお主水司領として大嘗会米(この際は後光厳天皇践祚の大嘗会米)などの公事を免除されていたことがわかる。」

 「○ 文明五年(1473)氷室文書・・・中略・・などとあり、氷室をも包摂する氷所(あるいは氷所保)が禁裏御料所であったことがわかる。」

 「○ 臥雲日件録 康正二年(1456)・・・中略・・とみえ、外記清原業忠の所領氷所から六月一日に献氷していたことが知られる。」

 「○ 謡曲「氷室」は、亀山院の臣下が丹後の九世戸(現宮津市)の文殊に参詣した帰途、若狭路を経て、「丹波国桑田の郡」の氷室に立ち寄ったと述べ、「千年の山も近かりき」という「千歳山」(622.3M)は神吉上村と下村の境界近くにある。

 「○ 丹波志桑船記・・・当村の谷に氷室の池という五間四方の池があり、氷を献上したという伝えを載せ、当村に続く神吉下村の向山北麓に氷室がある。」

 「○ 氷室大明神については、氷所太平記によれば、亀山天皇の御宇、氷室山より氷を六月朔日宮中に奉った。大宝三年(703)六月二日氷室がおかれた。」

 「○ 主水司所管の氷室

山城国葛野郡徳岡、愛宕郡小野、栗栖野、上坂、賢木原、石前

大和国山辺郡都介、河内讃良郡讃良

近江国志賀郡部花(竜花の誤か?)

丹波国桑田郡池辺郷

の以上十ケ所あり。

・ 90cm角の荷物を8箇で一台の馬

・ 丹波の氷室からは毎日馬で一駄を出荷していた。

・ ・・それからは大堰川の舟便も利用して京へ運んだ。明治以後氷室の必要がなくなり、氷一日の神事だけとなった。」

 「○ 氷室守は小路、人見、中川氏がつとめ、年齢順に之に当った。氷朔日には祭礼があり、九月一日まで、日々壮丁が氷を担いで禁裏に運んだ。仙洞御所内に氷を貯蔵する井戸があり、現存する。

 氷を馬で運んだ道中は、神吉から越畑を経、竜王ケ岳の麓から首無地蔵の北を巡り、高雄に出て、周山街道を宇多野、御室を経て御所に至った。」

 氏子代表の皆様、ご好意に厚くお礼申し上げるとともに、この貴重な謡蹟を末長く保存していただくようお願い申し上げます。


(参考) 今回のコース近辺のその他謡蹟

 越前、若狭、丹後、丹波路の謡曲名所めぐりのコースを決めるにあたって、時間の関係、交通事情の関係などで割愛した所がかなりありますので、参考までに、今回のコース近辺の謡蹟を掲げてみます。機会を見つけてぜひお出かけ下さい。


 謡蹟名     場 所         関連曲目

越前路

 継体天皇石像  福井市足羽公園    「花 筺」

 藤島神社    〃          「桜 井」(他流)

                    新田義貞をまつる

 祇王・祇女の屋敷跡 福井市三郎丸   「祇 王」

 蝉丸塚    宮崎村陶ノ谷      「蝉 丸」

若狭路

 羽 賀 寺  小浜市羽賀       「巻 絹」行基開基の寺

 明 通 寺  小浜市門前       「田 村」田村麿建立

 後 瀬 山  小浜市後瀬トンネル   「氷 室」ミチユキに出る

 青 葉 山  高浜町西北部      「氷 室」ミチユキに出る

                    遊覧船、バスから見える

丹波路

 安 国 寺  綾部市         「桜 井」(他流)

                    足利尊氏生誕地

 如 城 寺  八木町室橋       「巴」義仲と巴の位牌

 頼政の首塚  亀岡市西つつじケ丘   「頼 政」  

        

                      (高 橋 春 雄 記)


       (参加者名簿 90名分 省略)

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