左中将平清経に仕える淡津三郎は、自害した主人の遺髪を抱いて、清経の妻の家にたどりつき主人の最期の様子を報告します。妻はかねての約束をたがえて清経が自殺したことを嘆き、形見さえ物思いの種といって寝もやらず打ち沈んでいます。いつか、まどろむうちに清経の幽霊が現れます。妻は約束を徒にしたことを責め、清経も妻が形見を返したことを恨み嘆きます。しかしやがて恨みも晴れて、清経は合戦の話をして聞かせます。
平家一門は豊前国柳ヶ浦に陣を張りますが、既に源氏が長門国へ押し寄せたと聞き、あわてて海上へ船を出します。清経も自分の最期を悟り、船の上で心ゆくまで笛を吹いた後に海に身を投げたのでした。さらに清経は修羅道の苦患の有様を再現して見せますが、やがて御法の船に救われて成仏得脱することを語って消え失せます。(「宝生の能」平成12年8,9月号より)
曲中清経は「豊前の国柳が浦の沖で身を投げ空しく」なったと書かれてあり、また別の所には「さても九州山鹿の城へも敵よせ来ると聞きし程に、取る物も取りあへず夜もすがら、高瀬船に取り乗って豊前の国柳といふ所に着く」という文句がある。
平家は一の谷、屋島の戦いに敗れ、壇の浦に逃れてここで滅亡したものと簡単に考えていたが、清経入水、山鹿城、柳が浦や宇佐八幡宮がどのように関係するのか知らなかった。本年10月、熊本でのクラス会に出席の帰途これらの地を回って調べて見た。
清経入水の「柳が浦」には以前から二説あるとのこと。
一つは北九州市、門司駅のすぐ近くにある「柳御所」の沖合いであるという。門司駅の近くの戸上神社が柳御所の趾という。ここには「安徳帝柳御所旧址」の石碑が建っており、説明板には次のように記されていた。
「 柳 の 御 所
寿永2年(1183)木曽義仲に都を追われた平家一門は、安徳天皇を奉じて西に逃れ、太宰府に落ちていった。
しかし、ここでも、豊後の豪族、緒方三郎惟義が攻め寄せると聞いて、さらに遠賀郡山鹿の城を経て、豊前国柳が浦にたどりついた。
この柳が浦が現在の大里のことで、古い記録に「内裏」と書かれているのは、しばらくの間、仮の御所があったからである。
現在、戸上神社のお旅所となっているこの地がむかしの仮御所の跡であろうと伝えられて「柳の御所」と呼ばれている。 」
境内には平家の公達、時忠卿と経正卿が栄華を極めた都の生活をしのんで詠じた歌碑がある。
君住めは ここも雲井の 月なるを
なお恋しきは 都なりけり 時忠卿
分けてきし 野辺の露とも 消へずして
思はぬ里の 月をみるかな 経正卿
戸上神社(柳御所の趾) 北九州市門司区大里戸ノ上 (平3.10) このあたりが柳御所の趾といわれ、その石碑や歌碑が建っている
安徳帝柳御所旧趾の碑 戸上神社 (平3.10)
時忠卿の歌碑 戸上神社 (平3.10) 君住めは・・の歌碑が建つ
経正卿の歌碑 戸上神社 (平3.10) 分けてきし・・の歌碑が建つ
もう一つは大分県宇佐市にある「柳が浦」である。ここには「柳が浦」というJRの駅もあり、駅館川という大きな川が海に注ぐ河口の小松橋のたもとに「清経供養の五輪塔」とその由来を記した「清経の碑」が建っている。近くにある説明には次のように記されている。
「 清経終焉之地
宇佐氏に援助を求めて太宰府よりこゝ柳ケ浦につく
謡曲清経に豊前の国柳といふところに着く・・・げにや所も名を得たる浦は並木の柳陰・・・世の中のうさには神もなきものをなに祈るらん心づくしにの御神託があり、前途を悲観したものか船出にあたり舟の舳板に立ち上がり腰より横笛を抜き出し音もすみやかに吹き鳴らし今様を朗詠し・・・入水清経は重盛の三男で横笛の名手だったとか。この小松橋に歩道橋をつくるにあたり歴史を語り風情を残した柳の老木が枯死したので植えついで後世にのこさん為に植之
1979年4月吉日 宇佐ロータリークラブ建之 」
たもとに碑の建つ小松橋の名も清経の父小松内府重盛にちなんでつけられた名であろう。小松橋から海の方を眺めると河口まではまだかなりの距離がある。往時はこのあたりまで海岸だったかも知れない。橋に立って碑をながめ、河口の周防灘の彼方を見渡しながら、死を覚悟して船出をするときの清経の気持はいかばかりだったろうと想像してみる。
清経供養の五輪塔 宇佐市貴船町 (平3.10) 駅館川という大きな川の河口に近い小松橋のたもとにある
清経の碑 宇佐市貴船町 (平3.10) 五輪の塔と同じ場所にある
本曲中にも「宇佐八幡宮に参篭し神託を仰いだが、神託は平家に不吉で神仏にも見放されたかと落胆して柳に帰る。そのような時に長門の国経も敵向うと聞き、また舟に取り乗りいづくとのなく漕ぎ出す」旨の記述がある。
門司の「柳御所」から宇佐八幡宮はかなり遠いが、大分の「柳が浦」から八幡宮までは四キロぐらいしかない。宇佐八幡宮は全国四万余社という八幡神社の總本宮だけあって、境内も広く、朱塗りの大鳥居や社殿に目を驚かされる。この宇佐八幡宮はこの「清経」だけでなく、「巴」や「女郎花」にも出てくる謡蹟でもあり、境内には能舞台もある。
宇佐八幡宮 宇佐市南宇佐 (平3.10) 華麗な社殿もこの時は台風のため、屋根の一部が破損していた
宇佐八幡宮 宇佐市南宇佐 (平13.12) 10年後にも参詣したのでその写真を掲げる
この八幡宮に参詣した時、「宇佐神宮由緒記」なるものを入手した。50頁にわたり由緒が綴られているが、以下、平家一門の宇佐八幡参篭の箇所を抜粋してみる。
「 宇佐神宮由緒記抜粋
源氏が氏神として八幡宮を崇敬するだけでなく、頼朝から攻められ西海に追われた平氏の一門は宇佐の兵力をたより且つは再挙、戦勝を祈るため神宮に参篭した。
時に寿永2年、木曽義仲に攻められた平氏は安徳天皇を奉じて西国におちた。九州の源氏の勢力を討伐すると共に、再挙をはかるのが目的であった。8月、太宰府につかれたのち豊後の緒方惟栄(これよし)らから攻められ、筑前、遠賀川の川口の山鹿城で大敗し、門司大里(だいり)の柳から陸路宇佐に向い、森山にあった宇佐大宮司公通(きんみち)の館を、天皇の行在所となした。
平宗盛をはじめ清経、忠度らの公卿は17日間の祈願をこめたが、半ば明月に都をしのんでの管弦や歌詠みに日をたてたのである。生目(いきめ)神社にまつられた藤原景清も、お伴のなかにあったが、兵乱にそなえて調練しているのを、公卿たちは敵が来たと、あわて、ふためいた。景清の手兵ときいて腹を立てたので景清が、たいへん嘆息したと伝えられている。
満願の日に、宗盛は平家再興について神託を乞う歌を詠むと、「今ここに、神はまさず、祈っても甲斐なし」の反歌が、きこえたと「源平盛衰記」にある。空しく安徳天皇を奉ずる平氏の一門は柳ケ浦から船で、瀬戸内海に出て屋島から都に登られたが、利あらず、神戸の福原の行宮に引返し、一の谷、屋島の戦に破れ、ついに下関壇の浦の海底の藻屑となられた。
宇佐を去る時に小松内府重盛の子の清経が柳ケ浦で前途をはかなんで入水した哀史もある。平氏が宇佐に参宮した理由は、これよりさき治承4年、正三位太宰大弐となり、豊、筑、対三州太守護を兼摂した大宮司宇佐公通の勢力をたよる為でもあった。
公通は平清盛の女婿との俗説もあるが、平氏には忠勤をぬきんじ、養和元年、九州各地に源氏に味方している敵勢のあることを報告したが、雪月花の栄華に酔うている平氏一門は一顧だにもあたえなかった。
平氏一門は宇佐を引きあげた翌元暦元年7月、豊後の緒方惟栄が神宮に乱入。神宝を掠め多くの仏像経巻や民家堂宇を火にかけた。惟栄は後、凱旋の帰途、立石の馬上八幡の社前で、落馬して死んだという。
緒方惟栄は源家の命で攻めたので、後に総大将三河守範頼は、掠めた神宝を、もとのように奉納して神宮におわびを申上げている。 」
この一文を読んで、私の疑問点もだいぶ解明されてきた。壇の浦に至る前に平家一門は九州でも、太宰府、山鹿城、柳、宇佐と転々としていたことがはっきりしてきた。
太宰府というのはその昔太宰府政庁があり、また天満宮でも知られた所でもあり、一度ここを参詣したこともあるが、「山鹿城」というのはどの辺にあるのかも知らなかった。
調べてみると北九州市の西隣り、遠賀川が響灘に注ぐ河口に位置する芦屋町にあることが分かった。芦屋町は謡曲「砧」の里でもあるので、一層興味をひかれ訪ねてみた。芦屋町の城山公園が山鹿城の跡ということであるが、それらしい標識も見あたらず、源平の戦いの説明板も見いだせなかった。
城山公園 芦屋市 (平3.10) 山鹿城の跡といわれる
それでもこの公園の近くで、町の人に話しかけたところ、町役場の観光課を紹介してくれ、役場を訪ねて「芦屋ガイドブック」なるものを手に入れることができた。帰京後、詳しく読み返してみると、平家と山鹿氏とのことが記されており、山鹿秀遠の碑も城山公園内にあることが分かった。
「 芦屋ガイドブックより『平家と山鹿氏』の項抜粋
源氏の台頭で平氏が都落ちし、安徳帝を擁して九州入りしたのは寿永2年のこと。太宰府に下り、さらに宇佐神宮へと移るが、源氏に付いた豊後の緒方三郎惟義の反撃に遭って再び太宰府へ。その太宰府も危くなり、筑前箱崎(福岡)、宗像を経て、当時北九州の雄であった山鹿藤次秀遠を頼って山鹿城に入った。
安徳帝はその時、まだ六歳であったという。この帝の母が平清盛の娘徳子(建礼門院)である。
芦屋での帝の行在所は、山鹿城の東北の茶臼山に設けられた。今の「大君」地区で、その由来から地名になったという。この山鹿の地も安住できず、1カ月足らずで北九州門司から屋島へと向かった。
君すめば ここも雲井の 月なれと
猶恋しきは 都なりけり 平大納言時忠
これは山鹿での月見の宴で詠まれた一首。都落ちの心情が吐露されている。
山鹿秀遠は緒方軍十万の大敵をさけ、平家一門を柳ケ浦(門司の大里)へと導いた。
都なる 九重のうち 恋しくは
柳の御所に 立ちよりて見よ 薩摩守忠度
門司区大里の戸上神社の社前にこの歌を刻んだ碑が建てられている。大里という地名も、「内裏」から出た名という。
山鹿を立ったのが寿永2年9月で、屋島が10月、そして一の谷合戦がこの翌年2月7日である。さらに次の年(文治元年)の2月19、20の2日間が屋島の合戦となる。平家の滅亡となった壇の浦の合戦はこの年の3月24日のことで、その日の夕刻には勝敗が決まった。山鹿の地を出て約1年半の出来事である。
『平家物語』による壇の浦合戦の描写では、先陣が山鹿秀遠の軍500余艘、第二陣に松浦党300余艘、そのあとが平家の主力300余艘で、三陣で戦いは進められた。
『吾妻鏡』の方の描写にも、山鹿秀遠や松浦党らを主力にして挑んだとされているが、『源平盛衰記』では菊地高直、原田種直の西国勢の名はあっても山鹿秀遠の名は出ていない。
秀遠のその後については、勢州(伊勢)へ逃れた、あるいは鎌倉で下獄した、芦屋に帰ったなど諸説がある。いずれも平家に加担した者は所領を没収された。 」
本年9月10日に月並能で師匠渡邊三郎先生の能「清経」があることを知った。大好きな曲で、しかも渡邊先生の能ともなれば是非拝見したいものと手帳を見ると、毎年小豆島で開催している戦友会とぶつかっている。両方に参加したいが身体は一つ。自分でも残念であり、先生にも申し訳なかったが、次のような事情で欠席させていただいた次第、ご理解願いたいと思っている。
この戦友会は特殊潜航艇の訓練を受けていた特攻隊仲間が、終戦を迎えた小豆島で、10年以上も継続して毎年戦死した仲間の慰霊祭を行なっている会なので、今年も出席を予定していたこと。
旅順で基礎教育を受け、内地に戻ってからは瀬戸内海の各地を毎月のように転々としながら訓練を受けたのだが、戦後、青春の一時期を過ごした地が懐かしく、一人で廻ったり、家族と一緒に廻ったり、戦友と一緒に廻ったりして撮りためた写真がかなりの数になった。戦後50年の節目に整理して、戦友に贈呈したいと思い準備していたこと。
(ようやく「つわものどもの夢の跡」と題して、90頁程度の手作りの冊子にまとめ、当日の出席者25名、常連で欠席した方数名に贈呈することができた。)
清経は平重盛の三男であり維盛はその長男である。重盛はもちろん清盛の長男、従ってこの二人は平家一門の嫡流の血統にありながら、ともに源氏との戦いを交えることなく自ら命を絶ってしまった。父重盛も性格的には清盛と正反対で武将には向いていなかったようで、この二人も父の性格を受け継いだのかも知れない。また一門のリーダーとしての重圧に耐えかねたのかも知れない。
先ず三男の清経が本曲に謡うような経緯で入水自殺をした。長兄の維盛は富士川の合戦や木曽義仲との合戦に敗れ、武将として自信を失っていた。そのような時に清経が柳ケ浦で入水したのを聞き、ますます厭世観をつのらせ、秘かに屋島の陣を脱出して高野山に入り剃髪して熊野三山に参詣した後、那智の浦から密閉した船を漕ぎ出して帰らぬ旅路に向った。
また一門の通盛は一ノ谷の合戦を前に秘かに自分の陣屋に戻って妻と名残を惜しんだ。このことは謡曲「通盛」」に謡われる。
このような武将らしくない態度ゆえに、謡曲「清経」は江戸時代や戦時中は喜ばれない曲だったとも言い、「通盛」は女々しい曲だから謡わない、教えないという人もいたようだが、現在ではかえって主人公の人情味に惹かれる人が多いようである。私も「箙」「八島」などの勝修羅と言われる曲も嫌いではないが、この「清経」や「通盛」「敦盛」「経政」など、いわゆる負修羅の曲により心を惹かれる。
「清経」を謡っていると、武将として責務と愛する人への情愛に板挟みになって悩む姿、不利な戦況に加えて頼みにしていた神託にも見放された気持、雑兵の手にかかりたくないというプライド、どうせ死ぬなら月の夜に横笛を吹いてからという優雅さなどが痛いほど伝わってくる。
通盛は宮中一の美人小宰相の局に三年越し文を送り、ようやく思いが叶ってめでたく夫婦の縁を結んだが、程なく一ノ谷の合戦になる。戦いの前夜通盛はひそかに自分の陣屋に帰って小宰相に逢い名残りを惜しむ。弟の教経に呼びかけられて後ろ髪を引かれる思いで立ち出でる。一ノ谷の合戦で夫が討死したと伝え聞いた小宰相の局は、夫の後を追い鳴門の海に身を投じてしまう。女々しいと言えばその通りかも知れないが、二人の逢う瀬の情緒纏綿たる場面、小宰相の局の投身の場面は、読む人、謡う人の心の琴線に触れて離さない。
敦盛も出陣を前にして今様を朗詠し、笛を吹く。そして熊谷直実に呼び止められ、逃げれば逃げられたかも知れぬのに馬を引き返し討たれてしまう。そして敦盛を討った直実は後日出家して敦盛の菩提を弔う。
経政は若いながらも琵琶の名手。一ノ谷の合戦に討死したが、生前愛用した琵琶の名器「青山」を手向けての管弦講に幽霊となって公達姿で夢幻のように現れ、手向けの琵琶をかき鳴らし、その昔、宮の御傍らで楽しく過ごした夜遊の有様を偲び、舞を舞って追懐の情に耽る。
「然るに一門かどをならべ、累葉枝を連ねし装い、誠に槿花一日の栄に同じ・・」
「敦盛」の一節で、舞囃子の謡い始めの部分、今年の支部大会で謡うことになり、暗記を始めた所の句である。まこと平家が世を取って二十余年、まことに一昔の過ぐるは夢の中である。若い平家の公達が次々に世を去っていった。まこと「一門の果てぞ悲しき」である。しかし、日本に謡曲や能が残るかぎり、これらの曲は謡いつがれるであろう。