遊女祇王御前は、入道相国(平清盛)に寵愛され日夜朝暮の御酒宴に常に側近く仕えていました。
ここに加賀の国から仏御前という白拍子がはるばる上洛して来て、相国にお目通りをしたいと申し出ました。けれども相国は祇王のある間は、たとえ神であろうと佛であろうと対面する事は罷りならぬと言って聞き入れませんでした。このことを祇王が聞いて、相国に佛御前の事をよきように取りなし、自分も四五日の間は出仕を差し控えていました。ところが相国は、灘尾太郎に命じて、祇王も佛も共に出仕せよとの事なので、祇王は佛を伴って相国の前に出仕したのです。
そうして二人は仰せによって相舞を舞いましたが、この時相国はあまりの佛の美しさに心を惹かれ、今度は一人で舞えと命じ、佛はやむをえずそれに従います。佛は立ち去ろうとする祇王を引き留め、二人の友情に変わりはないと告げるのでした。(「宝生の能」平成12年2月号より)
現在の祇王寺は、昔の往生院の境内である。往生院は法然上人の門弟良鎮によって創められたと伝えられ、広い地域を占めていたが、いつの間にか荒廃して、ささやかな尼寺として残り、後に祇王寺と呼ばれるようになった。
この祇王寺は明治初年になって廃寺となり、残った墓と木像は、旧地頭大覚寺によって保管された。大覚寺門跡楠玉諦師は、これを惜しみ、再建を計画していた時に、明治28年、京都府知事北垣国道氏が、祇王の話を聞き、嵯峨にある別荘の一棟を寄付され、これが現在の祇王寺の建物となっている。
祇王寺墓地の入口には「祇王祇女仏刀自の旧跡」の碑がある。この文字の左側には「明和八年辛卯正当六百年忌、往生院現住尼法専建之」とあり、右側の「性如禅尼承安二年(1172)壬辰八月十五日寂」とあるのは、祇王のことらしいという。とすると祇王の600年忌に往生院の尼さんによって建てられたものということになる。
墓地には祇王、祇女、母三者の供養塔と清盛の供養塔がある。仏間には清盛公、祇王、祇、母刀自、仏御前の木像が安置されている。
それにしても哀れな物語である。自分で取りなした仏御前に清盛は心を奪われ、館を追われることになった祇王はせめてもの忘れ形見にと
萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき
の歌を障子に書き残して祇王寺へ去ったのが、祇王21歳、妹の祇女19歳、母刀自45歳の時であったという。仏御前も無常を感じて祇王のあとを追って祇王寺にて仏門に入ったのが17歳。場所は嵯峨野の奥、深緑、紅葉は美しいところかも知れないが、苔むした庭にひっそりと建つ草庵で暮らすのにはあまりに若すぎるのではなかろうか。
祇王寺 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂 (平3.4) 祇王、妹の祇女、母刀自それに仏御前までが尼となり過ごした所
「祇王祇女仏刀自の旧跡」の碑 京都市 祇王寺 (平3.4) 祇王の600年忌に建てられたもの
祇王、祇女、母三者の供養塔と清盛の供養塔 京都市 祇王寺 (平3.4) 左側が祇王、祇女、母三者の供養塔、右側が清盛の供養塔である
滋賀県野洲町にも祇王寺がある。祇王と祇女の姉妹はこの地に生まれたが、保元の乱で父を亡くしたため母とともに京都に出て白拍子になり、平清盛に仕え寵愛を受けた。ある時、祇王は清盛から「何か望むものはないか」と聞かれたが、「故郷の人々が水不足で苦しんでおり、ぜひ故郷に水路を引いて下さい」とお願いしたところ、早速清盛は野洲川から水路を引かせた。おかげで付近一帯の水不足は一気に解消し近江でも有数の米どころとなった。
地元では深く祇王の恩沢を謝し、生地中北に一宇を建立して祇王寺と名づけ、邸跡には碑石を建て功績を永久に伝えることとなった。
祇王寺 滋賀県野洲町中北 (平6.9) 地元では水路建設に貢献した祇王に感謝しこの寺を建立したという
祇王屋敷跡 滋賀県野洲町中北 (平6.9) 祇王と祇女の姉妹はこの地に生まれた
この種の物語には異説はつきもので、ここでは祇王祇女はこの地の出身で、清盛に追われた後、再びここに帰って母とともに余生を送ったという。
祇王祇女の屋敷跡 福井市三郎丸 (平2.10) ここでは祇王祇女はこの地の出身という
仏御前は永暦元年、白河兵太夫の娘として生を受け、幼時より深く仏法を信じ名も仏と呼ばれていた。承安2年14歳の春京に上り、叔父白河兵内のもとで白拍子となった。天性の美貌の上にすぐれた歌と舞はたちまち洛中の評判となり、その非凡な才能は遂に清盛の目にとまり、その寵愛を受ける身となった。
嵯峨野の奥に世を逃れた祇王の心情に無常を悟り、遂に17歳の秋、丈なす黒髪をおろし、祇王親子とともに仏道に精進した。
安元2年の春故郷の空が懐かしく、美濃の国穴間谷を越え、白山の麓木滑を経て原の里に帰り、草庵を結び余生を感謝のうちに過ごし、治承4年8月、22歳で薄命の生涯を閉じた。
庵のあったところは仏御前屋敷跡、仏御前の墓となっている。
またこの近くには、仏御前尊像安置所と書かれた木柱が建っている。この地の林成一さんのお宅である。案内を乞うて仏御前の尊像を拝観させていただいた後、一緒に記念撮影させていただく。また、江戸時代の漢詩の大家である頼山陽の詩碑が家の前に設置されていた。
林氏は気軽に私どもを家に招じ入れ、快く仏御前の尊像を拝観させてくれ、御前についての話を詳しく語ってくれた。像もみごとな仏壇に安置され生花も供えられ、お話とともに氏の尊像保存にかける情熱がひしひしと伝わってくるのを覚えた。(いただいた資料によると、小松氏原町ト24 仏御前奉賛会 林成一 電話07621-47-1241 とある)
仏御前屋敷跡 小松市中海町 (平2.10)
仏御前の墓 小松市中海町 (平2.10)
仏御前奉賛会 林成一氏宅前にて (平2.10) 中央が林成一さん
仏御前の尊像 林氏宅 (平2.10) みごとな仏壇に安置され生花も供えられ仏御前も満足そう
仏御前尊像安置所と書かれた木柱 林氏宅前 (平2.10)
頼山陽の詩碑 林氏宅前 (平2.10) 頼山陽は、仏御前を日本を代表する12姫に数えて賞讃している。
仏御前は清盛から拝領した履行(くつはき)阿弥陀如来を背負い故郷の原に帰る途中、石川県吉野谷村木滑で急に産気づき、石に寄りかかって清盛の子を産んだ。
木滑神社の下に仏のお産石の小堂があり、中に仏のお産石が納めてある。小堂の傍らには仏のお産石の歌碑も建っている。不幸にして死産であったが、里人の手厚い介抱により故郷の原に帰ることが出来たという。
仏のお産石の小堂と歌碑 石川県吉野谷村 (平9.8) ここで仏御前は清盛の子を産んだ
履行阿弥陀如来は後に慶長年間深譽上人が夢の話で、原から加賀市大聖寺に正覚寺を建立して安置したという。寺にはこの阿弥陀如来像と仏の木像もある由だが、私の訪ねた時は工事中で拝観出来なかった。いただいた履行阿弥陀如来像のお姿を掲げる。
正覚寺 加賀市大聖寺神明町 (平9.3) 履行阿弥陀如来、仏御前の木像を安置する
履行阿弥陀如来のお姿 (寺でいただく)
清盛が主人公となる謡曲はないようであるが、清盛は本曲のほか「小督」「俊寛」にも登場する重要人物である。「敦盛」「大原御幸」「景清」で取り上げたものや、「経政」「清経」等今後取り上げる予定のものを除き、平清盛を中心に平家関係で私の訪ねた謡蹟を掲げてみよう。
忠盛は清盛の父、祇園女御は清盛の母。祇園女御は後白河法皇が忠盛に賜わった方で清盛は法皇のご落胤ともいわれる。
平家発祥伝説の地・・桓武平氏の主流としては、国香−貞盛−維衡・・正盛−忠盛が挙げられる。維衡以来伊勢に根拠地を築いて伊勢平氏と呼ばれ、このあたりが平家発祥の地といわれる。
忠盛塚・・忠盛のこの地で生まれたといわれ、立派な忠盛塚(忠盛胞衣塚)が建っている。
平家発祥伝説の地碑 津市産品 (平3.4) このあたりが平家発祥の地といわれる
忠盛塚 津市産品 (平3.4) 清盛の父忠盛はここで生まれた
八坂神社の境内に忠盛灯籠がある。白河法皇が祇園女御の許に通われた時、鬼のようなものが見えた。供の忠盛に斬れと命じたが、忠盛は沈着にそれが灯籠に火をともす蓑を着た老僧であることを確かめた。法皇は忠盛の思慮深さに感じて祇園女御を賜わったという。
八坂神社の近く丸山公園の一角には清盛の母、祇園女御の塚がひっそりと建っている。
また、京都御苑の堺町御門の近くには厳島神社があるが、清盛が祇園女御のため安芸の厳島神社から勧請したもので、後に女御も併祀された。珍しい鳥居があり、京都三珍鳥居の一つといわれている。
八坂神社 京都市東山区 (平6.9) ここの境内に忠盛灯籠がある
忠盛灯籠 八坂神社 (平6.9) 忠盛の思慮深さを示す伝説の灯籠
祇園女御の塚 京都市東山区 円山公園 (平6.9) 清盛の母祇園女御はここにひっそりと眠る
厳島神社 京都市上京区 京都御苑 (平5.9) 京都御苑にも厳島神社がある
忠盛は中央に進出して白河院の信任を得、三十三間堂の前身である得長寿院を建立して1001体の仏像を安置したのを機に昇殿を許された。後に地震で倒壊したのを、清盛・重盛が再建したのが今の三十三間堂である。
三十三間堂 京都市東山区三十三間堂廻町 (昭59.3) 忠盛が前身の得長寿院を建立、清盛・重盛が再建した
当時このあたり一帯に清盛の邸宅があった。寺内に清盛塚があり、清盛の像も安置されているという。
六波羅蜜寺 京都市東山区轆轤町 (昭58.9) このあたり一帯に清盛の邸宅があった
清盛塚 六波羅蜜寺 (平7.9) 寺の境内に阿古屋姫の塚と並んで建つ
清盛は厳島神社には何回も参詣しているが、安芸守に任ぜられた翌年には大規模な社殿造営を行なった。平家納経の複本が宝物殿にあり、神社に近い大元公園には清盛神社がある。
厳島神社 広島県宮島町 (昭59.3) 清盛は安芸守に任ぜられた翌年には大規模な社殿造営を行う
清盛神社 宮島町大元公園 (平11.9) 安徳天皇と二位の尼が併祀される
清盛経塚 宮島町国民宿舎近くの丘 (平11.9) 一門の繁栄を祈って一字一石経を納めたという
呉市と倉橋島の間の音戸の瀬戸は清盛が開鑿したと伝えられ、この地の清盛尊敬の念は厚い。倉橋島の海峡に面して清盛塚が築かれている。
戦時中、私も倉橋島にあった呉海軍工廠の分廠で特殊潜航艇の機構を勉強していたことがある。外出を許され音戸の瀬戸を通って呉まで往復したことがあり、このあたり私にとっては忘れ難い所である。
清盛塚 広島県倉橋島音戸町 (昭53.11) 清盛が開削した音戸の瀬戸、倉橋島の海峡に面して建つ
音戸の瀬戸を見下ろす呉市の日迎山高鳥台に清盛公の銅像がある。対宋貿易と厳島神社参詣のため海上の捷路音戸の瀬戸開削工事を指揮した平相国清盛公が、永萬元年(1165年)7月10日、沈む太陽を中天に招きかえして、その日のうちに、この難作業を完成させたという古来の伝説にもとづき、瀬戸開削800年を記念してその遺徳を偲び、当時48歳の清盛公の英姿を、昭和42年、ゆかりのこの地に建立したものである。
清盛公銅像 呉市日迎山高鳥台 (平4.9) 音戸の瀬戸開削工事を指揮した清盛が沈む太陽を中天に招きかえして、その日のうちに、この難工事を完成させたという
神戸築港に続いて、福原遷都により神戸の発展が進められたのを徳として建てられた。清盛の歿後100年余の弘安9年(1286)北条貞時は清盛の邸趾に建てたといい、もとは海岸近くであったが、今は神戸市の切戸町にある。清盛塚と琵琶塚の間には清盛の像も建っている。
近くの能福寺は兵庫大仏で知られるが、ここに清盛の墓所(平相国廟)もある。
清盛塚 神戸市兵庫区切戸 (昭61.9) 福原遷都により神戸の発展が進められたのを徳として建てられた
清盛像 神戸市兵庫区切戸 (平8.9) 塚と琵琶塚の間に建つ
清盛墓所 神戸市兵庫区 能福寺 (平8.9) 800回大遠忌を記念し建立復興したという
明石市大観町にある善楽寺はは清盛がこの寺の造営に多額の寄進をしたといい、寺では清盛を徳としてその供養塔を建てたという。
善楽寺 明石市大観町 (平8.9) 清盛のこの寺の造営に多額の寄進をしたという
清盛供養塔 善楽寺 (平8.9) 清盛を徳として供養塔を建てた
神戸市兵庫区島上に築島寺がある。
清盛はわが国の貿易の中心地はこの兵庫であるとの確信をもって、良港を築くため海岸線を埋め立てる工事に着手した。しかし潮流が早く非常な難工事で、完成寸前に押し流されることが二度に及んだ。
時の占い師は「これは龍神の怒りである。三十人の人柱と一切経を書写した経を沈めると成就するであろう」と言上した。清盛は生田の森に隠れ関所を構え通行の旅人を捕らえさせたが、肉親の悲嘆は大きかった。
この時、清盛の侍童で17歳の松王が「自分一人を身代わりにして沈めた下さい」と申し出た。応保元年(1161)7月13日、千僧読経のうちに松王は海底に沈み築港造営は完成した。清盛はその追善供養のためこの寺を建立したという。境内に松王小児入海の碑が建っている。
また境内には祇王祇女の塔がある。祇王寺に庵を結び仏門に入った祇王祇女は、その後平家が壇ノ浦で敗れたのを知り、この兵庫の地の八棟寺(築島寺の末寺)に住持し平家一門の菩提を弔ったという。
築島寺 神戸市兵庫区島上 (平8.9) 松王追善供養のため清盛が建立したという
松王小児入海の碑 築島寺 (平8.9) 兵庫の港建設工事の人柱となった松王が海に入った所
祇王祇女の塔 築島寺 (平8.9) 平家一門がが滅びたのちここに住持し菩提を弔った