常陸の国の平松殿に仕える高師四郎は、主君の遺言を守りその子春満を預って育てていますが、平松殿の一周忌の日に春満が出奔してしまいます。置手紙を読むと、両親を始め祖先の成仏のため出家するという内容です。四郎は、なぜ自分を伴ってくれないのかと悲しみつつ春満の後を慕い当てのない旅に出ます。
ここは紀州の高野山です。春満はこの山中に入って修行していましたが、今日は師僧のお供をして三鈷の松に出かけて来ます。一方四郎は若君の文を挟んだ竹を肩に、物狂いの姿で偶然にも同じ場所にやって来ます。僧は、四郎の風体を見て咎めますが、四郎は宗教問答で逆襲して僧を興がらせ、更に様々な舞いをまって見せます。春満はこの物狂いを見ていてこれが四郎であることに気づき、自分は春満であると名乗ります。二人は再会を喜び、四郎も改めて仏に仕える身となります。(「宝生の能」平成12年4月号より)
本年2月、思いきって高野山にのぼり、総本山金剛峯寺に参詣、山中の宿坊に一泊し、「高野物狂」の舞台を訪ねてみた。
「三鈷(さんこ)の松」は本曲の中で説明されているとおり、弘法大師が帰国に際して唐土から投げた三鈷が光を発して飛び去り、この松に止まったので、ここを修行の地と定めた、と伝えられている伝説の松である。
御影堂の前にある筈と入手した案内図を頼りに歩く。先ず目に入るのが根本大塔である。塔の高さは48メートルもある由で朱塗りの大伽藍に圧倒される。御影堂はこの大塔のすぐ近くにある。もとは弘法大師の住房であったが、後に真如親王筆と伝えられる大師御影が奉安されてから御影堂と呼ばれるようになったとのこと。御影堂の前に格子に囲まれた松があるが、立て札も説明もないので謡曲に興味のない人は見過ごしてしまいそうである。私は近くで車を止めていた僧に聞いて三鈷(さんこ)の松と確認できたので、得意になって家内にそのいわれを説明してやったのだが、「三鈷とはどんなものか」と質問を受けてなかなか明快な返答ができなくて弱った。
「坊さんが持っている金具で、三つの爪のようになっていて杖の上のほうにでもつけるのではないか」と、適当に答えたが聞かれてみると全然自信がない。
家に戻って調べてみた。「謡曲大観」によると「三叉の金剛杵。金剛杵はもと印度古代の武器で、煩悩を破る菩提心の表象としている。」とある。まだピンとこない。
「広辞苑」で「金剛杵」をひいてみる。「もとインドの武器。密教で、煩悩を破砕し、菩提心を表す金属製の法具。修法に用い、細長く手に握れるほどの大きさで、中程がくびれ両端は太く、手杵に似る。両端がとがって分れぬものを独鈷、三叉のものを三鈷、五叉のものを五鈷という。」として絵がついている。
また、金剛峯寺で求めた写真集の中にも、この絵と同じようなものが金銅法具として紹介されており、これを見て家内もこんどは納得してくれました。
高野山 和歌山県 (平2.2) 弘法大師は唐より帰朝された後、都塵を避けてこの地に真言密教の根本道場を建立された
金剛峯寺 高野山 (平2.2) 高野山真言宗寺院の総本山
根本大塔 高野山 (平2.2) 塔の高さ48メートル、朱塗りの大伽藍に圧倒される
御影堂 高野山 (平2.2) もとは弘法大師の住居であった。大師の御影が奉安されている
三鈷の松 高野山 (平2.2) 弘法大師が唐土から投げた三鈷がこの松に止まったので、ここを修行の場と定めたという
金銅法具 寺の写真集より 左から三鈷、独鈷、五鈷
2月の高野山はまだ寒い。宿坊の恵光院というお寺に夕方着いた時、室内でも温度は5度くらい。明け方はもっと寒い。先祖代々の供養ということで、朝6時半から30分ほどお寺の勤行に参加させていただいた。私たちの座る所には電気カーペットがあるが、坊さんの座る場所には火の気はない。この寒さの中の修行頭の下がる思いである。
朝食をいただき、7時半に出発。奥の院の参詣にでかける。お寺の屋根には霜がおり、参道のところどころには雪がまだ残っている。朝早いせいか人影も殆どない。高くそびえる杉木立の下には無数の墓が延々と続く。
それも、「多田満仲」「曽我兄弟」「平敦盛」など謡曲で馴染みある名前や、「石田三成」「武田信玄」「伊達政宗」など日本の歴史に登場する人物が次々に登場してくる。まるで、タイムマシンに乗って歴史の世界に迷い込んだような気がする。
寒さと、静けさと、薄暗い木立と、果てしなく続く苔むした墓碑や供養塔。弘法大師御廟まで一時間ほどこれが続く。
村本先生がいつか仕舞「高野物狂」を舞われ、その地謡を覚えた記憶がある。その中に「深々たる奥の院・・」という句があるが、この雰囲気をまことによく表していると思う。
奥の院 高野山 (平2.2) 屋根には霜がおり、参道のところどころには雪が残っている
奥の院参道 高野山 (平2.2) 高くそびえる杉木立、無数の墓が延々と続く。曲中の「深々たる奥の院」の雰囲気をよく現している
奥の院の無数の墓 (平2.2) 無数の墓が延々と続く。タイムマシンに乗って歴史の世界に迷い込んだような気がする。
弘法大師(空海)の生誕の地は善通寺とも多度津ともいわれており、このあたり弘法大師にまつわる謡蹟が沢山ある。
紀州の高野山、京都の東寺と並んで空海三大霊場の一つに数えられる総本山善通寺は四国霊場の第75番札所で、空海はこの寺の西院にある「御影堂」で生まれたと伝えられる。案内図には御影堂の近くに「産湯の井戸」があるように記されているので、探したがなかなか見つからない。お寺の方に聞くと御影堂の内部、宝物館の近くにあるとのこと。拝観料を払って内部に入り産湯の井戸の建物を拝観してきた。
善通寺御影堂 善通寺市 (平6.9) 紀州の高野山、京都の東寺と並んで空海三大霊場の一つに数えられる
産湯の井戸 善通寺 (平6.9) 御影堂の中に弘法大師の「産湯の井戸」がある
御影堂の前に稚児大師の尊像が安置されている。御影堂裏手の奥殿には鎌倉時代の木像の名作「稚児大師像」が納められている由であるが、この石像はこれを模して作られたものと思われる。
また、堂の前には「御影の池」がある。延暦23年、大師入唐にあたり御両親への形見に御身をこの池の水面に顔を映し自画像を描かれた。尊影は土御門天皇より瞬目大師の称号を賜わり、現在は御影堂の奥殿に安置されている。池中の尊像は大師31歳の御姿、前面には大師念持仏の虚空蔵菩薩、左右は大師御両親佐伯善通卿、玉寄御前である。
稚児大師の尊像 善通寺 (平6.9) 御影堂裏手の奥殿には鎌倉時代の木像の名作「稚児大師像が納められているが、この石像をこれを模して作られたもの
御影の池 善通寺 (平6.9)大師入唐にあたり両親への形見に御身をこの池の水面に映し自画像を描かれた。池中の尊像は大師31歳の御姿、前面には大師念持仏の虚空像菩薩、左右は大師御両親佐伯善通卿、玉寄御前である
この記念碑は、弘法大師が御修行に行かれた中国西安の青龍寺跡に四国四県の有志により建てられたものを縮小し復元したもので、往時を偲ぶために建てられたとのことである。
空海記念碑 善通寺 (平6.9) 西安の青龍寺に建てられたものを縮小し復元したもの
善通寺に隣接して玉水院があり、西行法師が3年間住んだ所といわれるが、その一角に玉の泉がある。弘法大師が自ら泉を掘って阿弥陀如来(当山の本尊)に御水を供え、御自ら秘密開眼して、この泉を玉の泉と称したといわれる。
玉の泉 善通寺隣接 玉水院 (平6.9) 大師が自ら泉を堀り、阿弥陀如来に御水を供えたという
この山にある「捨身が嶽」は弘法大師伝説の一つを彩る断崖絶壁の岩場で、大師が7歳のときこの地で修行した折に、念願の釈迦如来の姿を見ることができなかったために、この断崖から身を投げたところ、天女を従えた釈迦如来が現れて大師を抱きとめたという伝説が残されている。
我拝師山 善通寺市 (平6.9) 大師がこの山から身を投げたところ、釈迦如来が現れて 大師を抱きとめたといいう
我拝師山の麓に位置する寺である。弘法大師が我拝師山から身を投じ釈迦如来に助けられたことから、如来像を刻んで寺を創建したのがこの寺の開基とされている。
出釈迦寺 善通寺市 (平6.9) 釈迦如来に助けられたことから、如来像を刻んで寺を創建した
弘法大師5歳の頃に、この原で泥遊びをして仏をつくり拝んでいるところへ、政府の役人が馬に乗って現われた。案内をしていた村人が、役人に無礼があってはならないと、慌てて空海を立ち退けようとしたところ、役人は自ら馬をおり、幼少の空海に向かって合掌礼拝をくり返したという。そして村人に「あの子供は神童に違いない。天蓋を捧げた四天王に守護されていた。」と語った。それ以後神仙が遊ぶという意味から、この地を「仙遊ケ原」と呼ぶようになったという。
仙遊原古跡 善通寺市 (平6.9) 大師が子供の頃泥遊びをしていたところ
弘法大師の先祖が創建した寺で世坂寺と呼ばれていたが、弘法大師が唐から持ち帰った金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を安置し、大日如来を祀って伽藍の造営をおこない、曼荼羅寺と改称したといわれる。境内には大師が自ら植えたと伝えられる不老の松がある。
不老の松 善通寺市 曼陀羅寺 (平6.9) 大師創建の寺、大師手植えの松という
弘法大師が満濃池の改修にあたったとき、岩窟に毘沙門天を祀り、改修を終えてから賜った功労金で堂塔を造立、自作の薬師如来を本尊としてこの寺を創建したと伝えられる。
甲山寺 善通寺市 (平6.9) 大師創建の寺
弘法大師の甥である智証大師(円珍)の誕生の地である。謡曲とは関係ないが、この寺は明治29年、旧11師団創立当時は乃木将軍の宿舎となったところで、境内には「乃木将軍の像」や「乃木将軍妻返しの松」がある。明治31年12月31日夕刻、静子夫人東京よりわざわざ来訪されたが将軍は面会せず、すぐ帰京せよとの厳命により夫人は途方に暮れ松の下に永らく佇んだ後引き返したので、この名がつけられたとのことである。
金倉寺 善通寺市 (平6.9) 乃木将軍妻返しの松がある
善通寺からそれほど遠くない多度津町の海岸にも弘法大師生誕の地がある。屏風浦海岸寺がそれで、境内には産湯の井戸が残されている。
弘法大師産湯の井戸 多度津町 屏風浦海岸寺 (平6.9) ここにも大師産湯の井戸がある
弘法大師の母、玉依御前のお屋敷の跡に建てられたのが仏母院で、境内の近くには大師のヘソの緒を埋めた胞衣塚がある。
仏母院 多度津町 (平6.9) 大師の母、玉依御前の屋敷の跡に建てられた
弘法胞衣塚 仏母院境内 (平6.9) 境内の近くに大師のヘソの緒を埋めた胞衣塚がある