自刃して果てたとされる義経は、その1年前に北へ旅立ったといわれている。真偽のほどはもちろんさだかではないが、その生死とは別に、伝説は北行を裏付けるように点々と残っている。
岩手、青森、秋田県の観光連盟が作成した資料に北行伝説ゆかりの地が掲載されていたので紹介する。まだ殆ど訪ねていないが、機会を得て訪ねてみたいと思っている。
文治5年に、この館で自刃したのは、義経の影武者杉目太郎行信で、義経はその1年前に弁慶らをともない館を出て北へ向かったという。
この寺に義経夫妻の位牌があるが、これは当時の住持頼然が世間を欺くため、偽りの位牌を作って義経の北行脱出を助けたものと伝える。
雲際寺 衣川村 (平6.5)
義経一行が第一歩を印し、常陸坊海尊が仙人と出会ったといわれる。
ここで一泊。亀井六郎重清の笈が保存されている。
義経主従は白粟5升を求め、炊かせて空腹を満たした。かって弁慶が住んだという。
弁慶屋敷跡 江刺市 (平6.5)
昔の藤原清衡の館跡。一行の宿泊地。
豊田館跡 江刺市 (平6.5)
ここに投宿し、謝礼として「笈」を残したといわれる。
多聞寺 江刺市 (平6.5)
道中の安全祈願をするため、5日間投宿した。
玉崎神社 江刺市 (平6.5)
逃亡途中暫しこの地に滞留した。このため「源休館」の名が生まれた。
一行はこの峠を越えて江刺市から住田町へ入る。
姥石峠から険しい山々を通り、このあたりで野宿した。
急勾配のため、草や木につかまりながらよじのぼった。義経が手をかけた松を「判官手掛けの松」、弁慶が川を渡ろうとした時つけたのを「弁慶の足あと」という。
峠を越えた一行はここで人馬を休めたが、義経の愛馬は力尽きて倒れた。
一行はこの家で、風呂をたてさせ入浴したといわれる。このあたりは柳田国男の著書「遠野物語」で知られる民話のふるさとである。
義経の愛馬が死んだため、祀ったと伝えられる。
一行はこの峠を越えて現在の釜石市方面の海に向かった。
一行が宿泊し、その礼として鉄扇などを置いていった。義経の石像が安置される。
大槌の代官所を避けて、船越へ渡るために逗留したという。
ここで馬を繋ぎしばし休息した。それをしのびこの地の人々が小祠を建てた。
一行がここで野宿した。里人が祠を建て「判官様」とよんで尊崇してきた。
義経主従が滞在し、鞍馬寺の毘沙門天を奉祀したという。
静御前を祀ったといわれる。
保元の乱に敗れた源氏の落人が建立したもので、ご神体は「鏡」という。
諸国行脚の老僧の建立といわれ、義経主従がお経を納めたという。
大槌町から義経主従は、海岸沿いに北上したとの伝説もある。
この八幡神社の御神体は、屋島で義経の身代わりとなって戦死した佐藤継信の守り神であったものを、義経がこの地で継信の子供に渡したものである。
義経主従は佐藤基治(義経の軍師)の第三子を頼り、箱石家に宿泊した。
ここに宿泊し、「北に向かう」ことを明らかにし、お供も願い出た者に対しては、「世をしのぶ身であるため」と謝絶した。
ここに立ち寄り仮の館を営んだ。この祠は義経主従が去ったあと建てられた。
義経の甲冑を埋めその上に祠を建てたといわれる。
宮古湾景勝の中心。三百年前、この地を発見した霊鏡和尚が「さながら極楽浄土のごとし」を賛嘆して名付けられたという。宮古にしばらく滞在した義経はたびたび ここを訪ねたという。
浄土ケ浜 宮古市 (平3.6)
義経主従が3年3カ月にわたって行をおさめ、般若経600巻を写経し納めた。黒森は、九郎森から転じたものである。
源氏の一族である源義里が居館を構え、義経主従が立ち寄った。
一行の中に金売吉次、吉内、吉六の三兄弟が従っていたが、このうち吉内信氏が当地に産出する金銅砂鉄を求めてここに館を構えた。
義経の子を祀ったものと伝えられる。
義経追捕を命ぜられた畠山重忠がこの地まで来たとき、その乗馬が斃れたのでこの地に埋め祠を建てたのがはじまりという。
道に迷い牛追いの子供に道をたずねたところ、鞭で「不行道」と地に記し、これより北に行けないと教えられたという。
七日七夜にわたって海上安全、武運長久、諸願成就を祈願、社殿を建立した。
義経主従の追捕を命じられたのが畠山重忠であったが、落ち行く義経に同情した彼はわざと矢をはずし義経を助けた。
八戸に隣接するこの地区に義経の従者、子弟などが住んだといわれる。
町内の旧家には義経が手に入れた鬼一法眼虎の巻があったと伝えられている。
ここにも暫く滞在した。神社には義経の佩刀が保存されるという。
長者山(新羅神社) 八戸市 (平6.6)
八戸滞在中に義経が構えた館。馬渕川の北方に高館の地名が残っている。
義経は小田八幡宮に毘沙門堂を建立、毘沙門天像を祀ったといわれる。
小田八幡宮 八戸市 (平6.6)
立派な神社で義経の鎧と称する鎧がある。
櫛引八幡宮 八戸市 (平6.6)
北の方を祀り、義経主従が奉納した弓矢、馬具などがあると伝えられる。
義経逗留の地で、毘沙門天を彫刻して中に八幡尊像を入れたという。
三戸八幡神社 三戸町 (平6.6)
藤ケ森地区にある圓塚は巫女塚と呼ばれ義経夫人の墓とされている。
曹洞宗の寺で弁慶の礼状があり、その礎石は弁慶の力石と伝えられる。
浄瑠璃姫(三河の矢矧で出会い義経と恋に落ちた)がここまで追ってきたが、ここで病死したため、義経は鷲尾三郎を姫の墓守に残した。三郎は姫を弔い義経の海路安全を祈って、京都鞍馬から勧請してこの神社を建立したという。
貴船神社 青森市 (平4.10)
謡曲「善知鳥」ゆかりの神社であるが、義経はこの神社にも参拝したという。
写真は「善知鳥」の項参照。
この神社の神容は義経が奉納したものといわれる。
一行はここの御堂に止宿。弁慶の大般若経や笈が残っている。
円明寺(工事中) 弘前市 (平18.6)
義経が蝦夷地への渡海を前に、三頭の神馬を授かったところという。
義経は蝦夷に渡ろうとしていたが、風波が高くて船がでない。
三日三晩風待ちの祈願をしたところ、白髪の老人が現れ渡海用の馬三頭を授けたという。
義経寺 青森県三厩村 (平18.6)
厩石 青森県三厩村(平18.6) この洞穴に三頭の馬を入れて渡航を待った
義経海浜公園 青森県三厩村 (平19.6) 義経寺近くの海浜は「義経海浜公園」と名付けられ立派に整備されている
以上は最も普遍的な伝承であるが、下北半島にも義経船出の古蹟がある。
ここは義経が蝦夷へ渡ろうとした時、波の鎮静を祈願し静まった海面に軽石が浮かんだのを里人が祀ったといい、この前の浜を源氏浜という。
一行が蝦夷に向かって出帆した地と伝え、ここの琵琶石は出帆のとき弁慶が琵琶を弾いて龍神に海路の安全を祈ったという。しかしその甲斐なく難船して津軽半島の 三厩に漂着したともいう。
恐山の奥の院とされ、津軽海峡に橋をかけようとした場所といわれる。
仏ケ浦 青森県下北半島佐井村 (平6.6)
一行はここに上陸した。境内に童子岩があり、この岩に童子が現われ清水の湧く泉を示したという。
ここも上陸地と伝える。境内に義経山標石がある。西方弥陀に念じ難船も助かり無事蝦夷に渡ることができたので、義経は報恩のため弥陀の像を刻み奉納し、義経山 の山号を命名したという。
松前から北上して江差に着く。弁慶が尻餅をついたという岩の上の水溜りや、義経の乗馬が化石となったという馬岩がある。
さらに北上してここにしばらく滞在したという。
アイヌの娘メヌカに恋慕された義経は「来年必ず来る」と約束した。これが転訛して雷電となったという。弁慶薪積岩や弁慶刀掛岩もある。
アイヌの娘メノコと恋をした義経はアイヌの秘宝の巻物を手に入れるのが目的であった。巻物を奪って舟で逃れた一行をメノコが追ったがこの岬で沈み、一念凝ってメ ノコ岩すなわち神威岩となったという。
古代文字で「我部下を率い大海を渡り、戦ってこの洞窟に入る」と書かれてあり、義経の蝦夷入りを示すものといわれる。
義経を慕ってきたアイヌの酋長の娘が狂って投身し、白龍となってこの山に棲み内地人の女が船でこの海岸を通ると海を荒らして命を奪ったという。
伝説としては義経の旧城址といわれる。
一行が土賊に襲われた時、この岩の洞窟内から五色の後光に輝く観音が現れ、土賊は眼が眩んで降参したという。
この辺りはアイヌの聖地とされた地であり、人文神としての蝦夷の統率者、義経を祀ったものである。
義経の砦の跡と伝える。
さらに伝説は日本を離れ、中国大陸へと移動する。
あの蒙古帝国を築き世界を席巻したジンギスカンこそ義経だというのだ。
その根拠としてジンギスカンのつけている紋のデザインは、源家の紋章と酷似していること、ジンギスカンの即位のときに掲げた九族の白旗の相似、両者の生きていた年代の一致などがあげられるという。
義経の旅は事実かどうかは別として、これだけ壮大なロマンに仕立てあげ、何百年もの間語りついできた日本人の心に私も共感を覚え私なりに伝説の地を整理してみた。