天皇山稲荷

謡蹟めぐり  大原御幸2 平家落人伝説

平家落人伝説 (平13・5記)

壇の浦の戦いに破れた平家は日本全国に散らばり、その落人伝説は沢山残されているようであるが、私の訪ねたところはほんの数ケ所に過ぎない。

安徳天皇四国潜幸伝説 (平13・5記)

安徳天皇は壇ノ浦の決戦で入水したと伝えられるが、伝説では四国の地で生きながらえる。私が訪ねたのはこの伝説の最後の地、横倉山だけであるが、この地に至るまでの足跡を参考資料により辿ってみよう。

屋島の戦いに破れた平家は帝の身代りを立て、秘かに四国の山中に分け入った。吉野川の上流、香川県から高知県に至る土讃線に沿って、その古跡が点在するようである。徳島県井川村、西祖谷山村(大歩危、かずら橋、平家屋敷あり)、東祖谷山村(鉾神社、剱神社あり)、高知県に入って物部村(御在所山を望む、天皇の塚あり)、さらに高知県もはるか西に移って池川町椿山、仁淀村別枝を経て越智町の横倉山に落ち着くのである。
横倉山は高知市の西方約30キロの山中にあり、千古の原生林に覆われた要害の地、壺中の小天地であって、山青く、水清く、世を忍ぶには究竟の場所であった。屋島を出てすでに2年の逃亡潜幸生活が続き、帝は10歳になっていた。帝は毎朝近くの畝火山に登り、東に向かって神武天皇を遙拝し、都への復帰を祈願した。最後まで希望を捨てなかった帝だったが、長年の山暮らしはやがて帝の体をむしばみ、宝算23歳という無念の崩御であった。
横倉山の山頂近くに苔むした安徳天皇陵がある。歴代天皇の御陵と同型のもので、昭和元年、安徳天皇御陵参考地として国から指定を受けた。途中までタクシーが通るが、駐車場からでも坂道が多いので私どもの足では往復2時間くらいかかったように思う。
途中には安徳天皇を祭神とする横倉宮や、平家の守護神熊野権現を祀る杉原神社がある。 そのほか、家臣の墓、安徳天皇行在所跡や武家屋敷跡の木柱、安徳天皇に供御したという安徳水など、往時の偲ぶものが数多く残されている。

横倉山御陵 安徳天皇御陵 高知県越智町横倉山 (平9.4) 伝説と思えないほど立派なもの

横倉宮 横倉宮 横倉山 (平9.4) 安徳天皇を祭神とする 

杉原神社 杉原神社 横倉山 (平9.4) 平家の守護神熊野権現を祀る

山口県豊田町の安徳天皇御陵と日置町の二位が浜 (平18・12記)

山口県豊田町(現在下関市)の豊田湖畔には宮内庁所管の安徳天皇御陵参考地がある。壇ノ浦で二位の尼に抱かれて入水した安徳天皇の亡骸が流れ着いて漁師の網にかかった。遺体を網と一緒に棺に納め、京へ運ぼうとしたがこの地までくると遺体を乗せた駕篭が急に重くなりここに葬ったと言う。
また、ここからはかなり離れているが、日置町(現在長門市)にある二位が浜は現在海水浴場として整備されているが、二位の尼の死体がここに漂着したとつたえられ、碑が建っている。

安徳天皇御陵豊田町 安徳天皇御陵 山口県下関市豊田町 (平15.10)

二位が浜 二位が浜 長門市日置町 (平15.10)

鳥取の安徳天皇御陵 (平18・12記)

安徳天皇は二位の尼のほかを従えて、壇ノ浦を逃れて船を進めるうち、強風に流されて鳥取市の賀露の浦に漂着する。国府町の光良院の宗源和尚に助けられて山間を目指し潜居された。鳥取市国府町岡益の岡益の石堂は、安徳天皇の御陵とも言われ、御陵参考地として宮内省で管理している。
また国府町新井にある石舟古墳は二位の尼の墓とも伝えられている。

安徳天皇御陵鳥取 安徳天皇御陵 鳥取市国府町岡益 (平18.8)

二位の尼墓 二位の尼の墓 鳥取市国府町新井 (平18.8)

天皇山 青森県つがる市木造町 (平18・12記)

壇ノ浦での源平合戦に敗れた安徳天皇が安東水軍に守られてこの地に逃れたという。標高56メートル、山頂には稲荷神社拝殿がある。私が乗ったタクシーの運転手もその存在を知らず探すのに苦労したが、神社境内の木柱にははっきりと「天皇山高山稲荷神社」と書かれてあった。

天皇山稲荷 天皇山高山稲荷神社 津軽市木造町 (平18.5)

水天宮と按察使局 (平13・5記)

九州の久留米市瀬下町の水天宮は全国水天宮の総本宮として知られ、安徳天皇、建礼門院、二位の尼を祀る。
壇の浦で帝を抱いて入水したのは、二位の尼ではなく、女官の按察使局(あぜちのつぼね)伊勢で、按察使局は帝を抱いてこの地に逃れて隠栖、帝が崩御された後は千代と改名、二位の尼を弔って尼御前社を建立したのが水天宮の起源で後に安徳天皇を祀ったという。
境内には千代を祀る千代松神社と称する小さな祠が建っている。近くのゴム会社に按察使局伊勢の墓があるというので、かなり探し廻った末、アサヒコーポレーションという会社の門前にようやく発見することが出来た。

水天宮久留米 水天宮 久留米市瀬下町 (平11.11) 安徳天皇、二位の尼、建礼門院を祀る

千代松神社 千代松神社 水天宮境内 (平11.11)水天宮の創始者按察使局を祀る

あぜち局墓 按察使局伊勢の墓 久留米市瀬下町 アサヒコーポレーション門前 (平11.11) 見つけるのに苦労した

水天宮とは筑後川を挟んで対岸となるが、佐賀県鳥栖市下野のあたりも安徳天皇潜幸の地といわれ、下野水天宮は安徳天皇を祀り、帝と一行の生活を書いた伝記や所持品の目録、印鑑なども残っている由。近くにある老松宮は天皇の御陵と伝え、二位の尼の墓もある。

下野天満宮 下野天満宮 鳥栖市下野 (平11.11)安徳天皇を祀る。このあたり潜幸の地といわれる

老松宮 老松宮 鳥栖市下野 (平11.11) 安徳天皇の御陵といわれる

二位尼の墓 二位の尼の墓 老松宮境内 (平11.11) 小祠のある丘全体が墳墓

東京の日本橋にある水天宮も安徳天皇、建礼門院、二位の尼を祀る。その御由緒によると、文政元年(1811)港区赤羽に在った有馬藩邸に当時の藩主有馬頼徳公が領地(福岡県久留米市)の水天宮の御分霊を神主に命じて藩邸内に御分社を祀らせたのが創めとのことで、久留米の水天宮の由来も記されている。
水天宮というと安産の神様として知られ、私も安産のお参りに行ったことがあるが、ここが謡曲「大原御幸」に関係あるお宮とは今まで知らなかった。

水天宮日本橋 水天宮 中央区日本橋蛎殻町 (平6.12) 安徳天皇 建礼門院 二位ノ尼を祀る。

湯西川温泉、平家の里 (平13・5記)

栃木県湯西川温泉に「平家の里」があると聞き訪ねてみた。この里の近くにも関連の古蹟があるので紹介する。
「平家の里」についてはその案内板に説明していただく。
『          「平家の里」の由緒
当地湯西川温泉郷は、日本各地に残る有数の平家落人伝説地の一つとして知られております。長閑に開けた里ゆえにそこには、多くの秘話伝説や風習芸能が連綿として、継承されてきました。その昔の栄華を極めた平家一門は、寿永4年3月、壇の浦の戦いに敗れ、厳しい源氏の追手を逃れながらも、その再興を心に誓い全国に四散し、隠れ住むことになったのです。
東国に都落ちたある一族は、霊峰鶏頂山に身を隠し、追手を避ける生活を送っていました。その頃一族に男児が生まれ、よろこびのあまり幟を掲げたところ、源氏の追手に隠れ家を発見され命からがら湯西川へ逃げのびたのが、湯西川平家落人の里の始まりと言われております。
以来、この里では、端午の節句は一日遅れてお祝いし「鯉幟はあげない」「鶏は飼わない」という風習になっております。(後略)     』

現在ではこの温泉も観光地となって旅館の数も多く、平家の里も観光客向けに整備されている。展示館には清盛の入道になった姿や、敦盛の出陣する雄姿が展示されており、また分祠された赤間神宮もある。独特の落人料理を味わい、土地の生産物も販売されている。
売店で入手した文庫本「しもつけのくに湯西川」は、平家嫡流25代当主、本家伴久萬久旅館(伴玉枝)の発行で、この地の落人伝説が詳細に紹介されてあり興味深い。伴久の「伴」は、平家であることを世に知られぬために「平」を「伴」にしたのだそうである。「平」の字は一画を移動させると「半」の字となる。「にんべん」は「人」である。すなわち「平人」(平家の人)の意を以て「伴」を称したという。

平家の里 平家の里  栃木県栗山村湯西川温泉  (平5.10) 約4千坪の敷地に茅ぶき屋根の建物が立ち並び往時のたたずまいを再現している

湯西川へ向かったのは平忠実の一行といわれるが、一行の哀れな姿が無数の氷柱(つらら)がさがったこの岩に映り、一同は泣いて通ったという。
平家の里の傍らに平家塚がある。湯西川に落ちのびた落人たちは、ここを安住の地と定め、武装を解き甲胄、刀剣等をここに埋めたという。

鏡岩 鏡岩  栃木県栗山村川戸 (平5.10) 一行の哀れな姿この岩に映り、一同は泣いて通ったという

平家塚湯西川 平家塚  湯西川温泉 (平5.10) 落人たちは甲胄、刀剣等をここに埋めた

同じ栗山村でも湯西川温泉の南方、川俣温泉に向かう途中に「平家杉」がある。樹高約30メートル、樹齢600年以上と推定され、村の指定文化財となっている。
伝承によると、この地に逃れた平家の落人が昔日の栄華を偲び、一門の運命を占ってこの杉を植えたという。杉は年々成長したが、平家の世は還らず、杉の実が落ちても子杉が生えないので一名「子無し杉」ともいうとのこと。

平家杉 平家杉 栃木県栗山村上栗山 (平5.10) ご一門の運命を占ってこの杉を植えた。杉の実が落ちても子杉が生えなかったという

平家塚もいろいろあるが、川俣の平家塚が最も往時の面影を留めているように思われた。場所は川俣温泉に着く少し手前、国民宿舎渓山荘のあるところから小さな橋を渡り、かなり進んだ淋しいところである。
川俣方面に向かった落人一行の落ち着いた所は今は川俣ダム湖底に沈んでしまったとのことである。壇の浦で敗れた平家の落人達は、ここまで来たがこれより上流は登れぬと武装を解除し、黄金千枚[大判]、くわ千枚[刀剣類]、うるし千枚[よろいかぶと類]を一括し木炭を作り之を覆い、花崗岩を側壁にして土を盛り塚を作ったという。
村人の間では、見れば「目が腐る」、さわれば「手が腐る」、登れば「足が腐る」と言い伝えられ、誰もが側に寄ることを恐れているとのこと。

平家塚川俣 平家塚 栃木県栗山村川俣 (平5.10) 川俣温泉に着く少し手前の淋しい所にある塚

平重盛関係古跡 (平13・5記)

重盛は清盛の長男であるが、性穏健で父と後白河法皇の間に立って衝突を阻止したが42歳で病没した。従って平家滅亡の憂き目にあうことはなかったが、その妻や妹は一族の平貞能たちと一緒に関東に向かっており、貞能は重盛の遺骨を携えたとも言われる。そのためか各地に重盛の墓もあり、他流には「重盛」という曲もあるので、私が訪ねた重盛関係の謡蹟を掲げる。

京都市下京区寺町の浄教寺は重盛の屋敷跡といわれ、本堂には重盛像が安置されているとのこと。境内には内大臣平重盛公之碑と刻まれた大きな石碑が建っている。

浄教寺 浄教寺 京都市下京区寺町 (平8.4) 左のほうに石碑が建っている

栃木県塩原町に妙雲寺がある。平家一門没落の時に、重盛の妹、妙雲尼はその子平貞能とともに、宇都宮城を頼ったが、源氏の追討は厳しく、さらに高原山中深く逃れて、ここ塩原の地に草庵を結び、釈迦像を安置したと伝えられる。境内には苔むした「平家塚」があり、また妙雲尼塔とその墓じるしとして植えられたという三本の大杉がある。

妙雲寺 妙雲寺 栃木県塩原町下塩原 (平5.10) 平重盛公の妹、妙雲尼は逃れてここ塩原の地に草庵を結んだ

妙雲寺の大杉 妙雲尼塔の大杉 妙雲寺 (平5.10) 墓じるしとして植えられたという三本杉

平家塚妙雲寺 平家塚 妙雲寺 (平5.10) 苔むした塚が年代を感じさせる

静岡県沼津市香貫の霊山寺には平重盛の墓と言われる大きな五輪の塔があるが、昭和31年の調査の結果、古い時代のこの寺の住職の墓であることが判明した由である。

霊山寺 霊山寺 沼津市香貫 (平9.2) 重盛の墓と伝えられる大きな五輪の塔がある

重盛の墓霊山寺 重盛の墓といわれた五輪の塔 霊山寺 (平9.2) 調査の結果この寺の住職の墓と判明した

福山市南方の鞆の浦には小松寺がある。重盛が厳島参詣の途次立ち寄って建立したといわれ、重盛手植えの松は枯れて古木として邸内に保存されており、重盛の供養塔もある。

小松寺 小松寺 福山市鞆の浦 (平11.9) 重盛が厳島参詣の途次立ち寄り建立したという

手植えの松古木小松寺 重盛手植え松の古木 小松寺 (平11.9) 住職の邸内に保存されている

重盛の墓霊山寺 重盛の供養塔 小松寺 (平11.9) 重盛の子資盛が建てたという

重盛は熊野には度々参詣したといわれ、那智の熊野那智大社には重盛手植えの楠がそびえ、新宮の熊野速玉神社には重盛手植えの梛の巨木が茂っている。

重盛手植えの楠 重盛手植えの楠 熊野那智大社 那智勝浦町 (平10.3)

重盛手植えのナギ 重盛手植えの梛 熊野速玉神社 新宮市 (平10.3)

青森県八戸市南方の南郷村には高松寺があるが、この寺は宝徳年間以前は小松寺と号したといわれ、往昔治承元年、小松内大臣平重盛が父清盛への諌言が入れられず、ひそかに京都を去り、陸奥の国島森の郷に至って一寺を建立し、小松寺と号したという。境内に「カヤ」の大木があるが、重盛が植えたものと伝えられる。

高松寺 高松寺  青森県南郷村 (平6.6) 重盛はひそかに京都を去り、陸奥の国に至ってこの寺を建立したという。

重盛手植えのカヤ 重盛手植えのカヤ 高松寺 (平6.6)

平維盛(重盛の長子)関係古跡 (平13・5記)

平維盛は清盛の嫡男重盛の長子である。富士川の戦い、北陸の砺波山の戦いに敗れて逃げ帰るなど、武将として適格ではなかったようである。平家の前途に光明を見失ったうえに弟の清経が柳ケ浦で入水したのを聞き、秘かに屋島の陣を脱出して高野山に入り剃髪して熊野三山に参詣した後、那智の浦に向かう。
ここは生きながら密閉した小舟を漕ぎ出して帰らぬ船路をたどった、いわゆる補陀落渡海の出発地であり、維盛も補陀落山寺、浜の宮から舟をだして従者二人とともに投身したという。
補陀落山寺には維盛の墓があると聞いて訪ねたが、はっきりした標識が見当たらず特定することが出来なかった。
伝説では維盛はこの後も生き続け、各地にその古蹟も残るようであるが訪ねていないので省略する。

補陀落山寺 補陀落山寺 和歌山県那智勝浦町 (平3.10)このあたりから舟を出し投身したという

六代御前(維盛の嫡男、重盛の孫)関係古跡 (平13・5記)

六代御前は平家全盛の頃生まれ、平家没落の際は母とともに京都高尾の菖蒲谷に隠れ住んでいたが、北条時政に捕えられ鎌倉へ護送された。その途中沼津の千本松原で危うく斬られそうになったところを、文覚上人が懇請した頼朝の赦免状が届き助命された。
その地には六代松の碑が建っている。
「 六代御前は文覚上人に伴われて京都高尾の神護寺に入り、剃髪して妙覚と称し修行に励んだ。
しかし、頼朝も他界しさらに文覚上人の陰謀が発覚して隠岐へ流された時、六代御前も捕えられ、正治元年、26歳で処刑された。場所は逗子市田越川の畔で、六代御前最後之故址の碑が建ち、丘の上には六代御前の墓がある。 」
こうして平家の嫡流は絶えてしまったのである。

六代松の碑 六代松の碑 沼津市千本松原 (平9.2) 間一髪で頼朝の赦免状が間に合い命を助かる

神護寺 神護寺 京都市右京区高尾 (平5.11) 文覚上人に伴われ修行した寺

六代御前最後の地碑 六代御前最後之故址の碑 逗子市田越 (平8.1) この地で処刑された

六代御前の墓 六代御前の墓 逗子市田越 (平8.1) 丘の上の大木の根元に眠る

越中五箇山 (平13・5記)

五箇山とは富山県上平村、平村、利賀村三つの村を含めた総称である。飛騨の白川郷と隣接し重畳する山なみの間を縫って庄川の源流が村の中を流れている。この五箇山の歴史は寿永の昔源平の戦いに敗れた平家の落人が逃げのびてきて、馴れぬ手つきで鋤鍬をもった頃に始まるという。合掌づくりの家が今でも残され、西赤尾にある岩瀬家は国の重要文化財に指定されている。

五箇山 越中五箇山  富山県上平村、平村、利賀村 (平1.8) 源平の戦いに敗れた平家の落人が逃げのびてきて鋤鍬をもった頃に始まるという

白川郷  (平18・12記)

五箇山と隣接する岐阜県白川村の白川郷も義仲に敗れた平家落人が住みついた所と言われる。合掌造りの民家の数々が今では「白川郷野外博物館合掌造り民家園」として保存されている。

白川郷 白川郷合掌造り民家園 (平18.11)

上時国家 (平13・5記)

平清盛の義弟平大納言時忠は、平関白ともいわれ、平家一族の実質上の統領であった。源平の合戦で平家が滅亡した際、時忠は神器の帰座の功により特別の計らいで能登に配流となり、配所で没した。その子時国は、近隣の村々300石を統治し、館を構え、江戸時代には天領の大庄屋を務め、苗字帯刀を許された。このころ第21代当主は、現代に残るこの豪壮巨大な屋敷を築き、第25代当主が現在もこの屋敷と伝統を守っているという。

上時国家 上時国家 石川県輪島市町野町南時国  (平6.8) 平清盛の義弟平大納言時忠配流のところ

親不知 (平13・5記)

源平盛衰の昔、平頼盛の夫人が夫を慕って愛児とともにこの難所にさしかかり、怒涛のため愛児を失った。深い悲しみの中で
   親しらず 子はこの浦の浪枕 越路の磯のあわと 消えゆく
の一首を詠み、以来、親不知、子不知というようになったと伝える。
天下の険も現在は北陸自動車道が通り、車ではアッと言う間に過ぎてしまう。

親不知 親不知 新潟県青海町 (平6.10) 平頼盛の夫人が夫を慕って愛児とともにこの難所にさしかかり、怒涛のため愛児を失ったという

以上、私の訪ねたところだけを掲げてみたが、安徳天皇の潜行伝説地だけでも全国に亘っているようであり、他の武将たちのも合わせると膨大な数になるのではないかと思われる。ゆっくり時間をかけて調べ訪ねてみたいと思っているが、何しろ交通不便の所が多く容易ではない。
謡曲に名の出る武将、例えば「清経」「通盛」「盛久」「景清」はその名の示す曲のところで取り上げる予定である。


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