春日野

謡蹟めぐり  春日龍神 かすがりゅうじん

ストーリー

山城国栂尾の明恵上人はこのたび入唐渡天しかの国を巡拝したいと思い、その暇乞いに春日明神参詣のため奈良に下ります。春日の里に着くと宮守の翁が現れて、上人が唐・天竺に赴くと聞いて驚きます。
そしてかねてから春日明神は明恵上人を特別に守護しておられるのに、日本を去ることは神慮に背くものであると言ってとがめます。そして仏在世の当時ならば利益もあるが、釈迦入滅の今日ではこの春日山こそが仏が説法された霊鷲山であることなど入唐が不必要であることを説きます。
これを聞いて上人も思い直し、宮守に名を問います。翁は明神の使いであることを名乗り釈迦の一代記を見せる約束をします。 やがて一面金色となり八大竜王が幾百の眷族を連れて現れ、他の仏達も参会し御法を聴聞する様を見せます。上人はこの奇特を見て入唐を思いとどまり龍神は消え失せます。(「宝生の能」平成11年4月号より)

謡蹟 三笠山(若草山)   (奈良市雑司町)
春日野、水谷神社 (奈良市春日野町) (平7.5記)

舞台は春日の里、春日大社であるが、春日大社は「采女」で取り上げたのでここでは省略し、春日野の写真を掲げる。また、曲中に出てくる水屋とは春日神社の摂社、水谷神社を指すとのこと。

春日野 春日野 奈良市春日野町 (平6.4)

水谷神社 水谷神社 春日大社摂社 (平6.4) 水屋とはこの神社をさすという。

謡蹟 南都七大寺 (奈良市) (平7.5記)

曲中に出てくる南都七大寺とは東大寺、西大寺、元興寺、薬師寺、法隆寺、興福寺、大安寺をさす。大安寺にはまだ参詣していないが、その他の寺には参詣したのでその写真を掲げてみょう。

東大寺・西大寺

東大寺 東大寺 奈良市雑司町 (平13.7) 奈良の大仏樣で有名。「大仏供養」も関連

西大寺 西大寺 奈良市西大寺芝町 (平13.7) 東大寺にたいして西の大寺として創建された。

元興寺塔址

元興寺はかって飛鳥寺を草創とするわが国でもっとも古い大寺の一つであった。平城遷都によって現在地に新しい伽藍を建立、南都七大寺の一つとして栄えたが、都が京都へ移ると次第に寺勢は衰え、平安時代に伽藍の大部分を失い、その後わずかに残っていた五重塔・観音堂も1859年に焼失した。元興寺の往時の面影をわずかながらも伝える元興寺(塔跡)・元興寺極楽坊・元興寺小塔院跡の3地域が史跡に指定されている。
写真は塔跡で「史蹟元興寺塔阯」の碑が立ち、数個の塔の礎石の間には「元興寺」と刻まれた古い石碑がある。

元興寺塔址 元興寺塔址 奈良市芝新屋町 (平6.4) 我が国の最も古い寺の一つ、塔址が元興寺の面影をわずかに伝えている

薬師寺 奈良市西ノ京町

昭和56年6月、KDDの末広会が奈良で開催された際、たしか秋元亮一さんの提案で大会のあと、このあたりの謡蹟めぐりをしようということになった。会の終った日の午後、村本脩三、太田延男、宮嶋仲、三上聡雄の皆さんと私は、観光バス「たそがれの古都めぐり」コースで、薬師寺、唐招提寺、平城宮跡、新薬師寺を廻った。秋元さんは別の寺を廻った。翌日は1行6名はタクシーに分乗、久米寺、甘樫丘、飛鳥神社、酒船石、橘寺、石舞台、橿原神宮、法隆寺、西大寺を廻った。
この時の印象は強烈で、特に甘樫丘から眺めた「畝傍山」「耳成山」「香具山」の三山は忘れ得ない。いわば私の謡蹟めぐり第1号のようなものである。この写真もその時のものである。

薬師寺 薬師寺 奈良市西ノ京町 (昭56.6) 左から宮嶋、高橋、村本、三上の皆さん

法隆寺 奈良県斑鳩町

現存世界最古の木造建築として有名。前記の方々と一緒に参詣したのであるが、今でも印象に残っているのは、この法隆寺の隣に中宮寺というお寺があってこのお寺に安置されている本尊弥勒菩薩跏像を拝観したことである。お寺の方の説明を聞きながら、東洋のモナ・リザといわれる「古典的微笑(アルカイック・スマイル)」をたたえた仏像を見ていると、なんともいえないすがすがしい気持ちにさせられた。

法隆寺 法隆寺 奈良県斑鳩町 (平13.7) 世界最古の木造建築として有名

興福寺 奈良市登大路町

五重の塔と猿沢の池で名高い。「采女」参照。

興福寺 興福寺 奈良市登大路町 (平6.4)

大安寺 奈良市大安寺町

奈良市南西部のはずれにあり、南大寺とも呼ばれていた由。まだ参詣していない。

明恵上人と高山寺 (京都市右京区梅ガ畑栂尾町) (平7.5記)

明恵上人は承久3年(1173)、和歌山県金屋町に生れた。父は平重国。早く父母を失い、文覚上人に師事、東大寺、仁和寺、華厳院で修行する。修行や戒律の重要さを説き学徳の誉れ高く、後鳥羽院より栂尾山を賜わり華厳宗高山寺を再興する。建礼門院、北条泰時らの深い帰依をうける。南都仏教の復興にも力を注ぎつつ仏典研究につとめた。
明恵上人は33歳のとき印度へ渡ろうと志したが、病気のため断念し、そのかわり事細かな「印度行程記」をあらわして自らの心を慰めた。本曲と違って栂尾に移る前のことであった。
栂尾山高山寺は高尾山神護寺、槇尾山西明寺とともに三尾と呼ばれ、嵐山高尾パークウエイあたりの山にあり、11月に訪ねたが紅葉がみごとだった。
高山寺には国宝建造物の「石水院」がある。この建物は明恵上人が禅堂とした庵室で後鳥羽天皇の御学問所を移築したものであり、寝殿造風の鎌倉初期住宅の簡素な趣きがあり、上人在住時代の唯一の建造物とのことである。
高山寺裏山には明恵上人の御廟がある。明恵上人の入寂は貞永元年(1232)であった。
なお明恵上人は栄西禅師が宋から持ち帰った茶を初めて栽培したことで知られ、高山寺裏山に「日本最古の茶園」がある。

石水庭 高山寺石水庭 (平5.11)

明恵上人御廟 明恵上人の御廟 高山寺 (平5.11)

日本最古の茶園 日本最古の茶園 高山寺 (平5.11)


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