鑑神社

謡蹟めぐり  烏帽子折1 えぼしおり

ストーリー

財物を東国へ運ぼうという三条吉次と吉六の兄弟の一行に加わった牛若は近江の国、鏡の宿に着いたが、牛若に追手がかかったということを聞き、元服して姿を変えようと烏帽子屋で源氏方の左折の烏帽子を注文する。
亭主は今は平家の世で右折とすべきなのにと怪しみながらも、この左折の烏帽子は先祖がその昔八幡太郎義家に折ってさしあげたことなど語り、この烏帽子を着て出世されよと祝った。牛若は喜んでお礼として刀を与えた。烏帽子屋の妻はその刀を見て驚いた。これは正しく牛若のご誕生の時に義朝公より守刀として賜わった刀で、その使いを自分が承ったのであるとて、懐旧の涙にむせぶのであった。再会を約して牛若は旅立ち、美濃の国赤坂の宿に到着した。
その夜土地の盗賊熊坂長範の一味が、吉次吉六兄弟の宝を奪い取ろうと企てて夜討に押し寄せてきたが、牛若の目ざましい振舞に目的を果たし得ず、かえって長範もあえなく斬り倒されてしまった。(謡本の概説を意訳)

鏡の宿 (滋賀県竜王町)       (平7・1記)

本曲前半の舞台は近江の国、鏡の宿である。現在滋賀県竜王町の国道8号線に沿ったあたりが往時鏡の宿といわれたところである。鏡神社は義経が元服の式を挙げたところといわれる。
境内には義経烏帽子掛けの松があるが、切り株のみが残され、これにしめ縄がかけられ小さな屋根で覆われている。神社の近くには義経元服之池碑と形ばかりの小さな池がある。元服の儀式を行う時に使った水の池とのことである。また、国道に沿って源義経宿泊の館跡碑もある。現在は畑の中に碑が建っているだけで館の面影はない。

鑑の宿 鏡の宿 本曲の舞台となったあたり 滋賀県竜王町 (平6.9)

鑑神社 鏡神社 義経が元服の式をあげた所という 滋賀県竜王町 (平6.9)

烏帽子掛けの松 義経烏帽子松 鏡神社境内に保存されている 鏡神社 (平6.9)

元服の池 義経元服之池碑 鏡神社近く8号線沿い 滋賀県竜王町 (平6.9)

義経宿泊の館跡 義経宿泊の館跡碑 これも鏡神社近くの8号線沿い 滋賀県竜王町 (平6.9)

吉次関係の古蹟    (平7.1記)

本曲のワキ三条の吉次(金売り吉次)関係の謡蹟もいろいろあるようであるが、私の訪ねたところだけを掲げてみよう。

首途(かどで)八幡宮   (京都市上京区今出川上ル)

神社略記によると『今から約八百年前、安徳天皇寿永年間(西暦1182年)に、源九郎義経は、牛若丸時代、金売吉次の屋敷であったこの地で、鞍馬山を抜け出して吉次と落ち合い、屋敷近くにあった「内野八幡宮」に奥州平泉の藤原秀衡のもとへ出発するにあたり、道中安全を祈願して出立したという。
「首途(かどで)」とは「出発」の意味で、以来この由緒により「首途八幡宮」と呼ばれるようになった。』とのことである。

首途八幡宮 首途八幡宮 吉次の邸跡ともいわれ義経はここから奥州へ旅立った。京都市上京区今出川上ル (平5.9)

長者が原廃寺跡(吉次屋敷跡)  (岩手県衣川村)

『 ・・ここは承安4年(1174)に16歳の源義経を京から連れてきたという秀衡の御用商人三条吉次季春(すえはる)、通称金売吉次の屋敷跡と伝えられてきたが、礎石の配列や遺物の配置及び出土した土師器等から平泉藤原氏の時代かそれ以前の重要な寺院跡と推定されている。   (岩手県指定史跡 昭和32年7月19日指定)  』

あたり一面水田が広がっており、のどかな田園風景である。しかし、このあたりは義経、弁慶の最後の地でもあり、それ以前も安倍一族と八幡太郎義家が前九年、後三年の役を戦った地でもあり、村の中いたる所が史跡となっている。1日かけて自転車で村内を廻り往時を偲んできた。

長者が原廃寺跡 長者が原廃寺跡 岩手県衣川村 (平6.9)

吉次兄弟の墓      (福島県白河市白坂)

『            吉次吉内の墓
承安4年(1178)奥州平泉、藤原秀衡の家臣吉次兄弟は、京からの帰り道に、群盗藤沢太郎入道等に襲われ、この地で殺害された。群盗は兄弟の砂金が入っていた皮籠を奪い、田畑や橋の上で分配し逃げ去った。このためこの付近に、小金橋、金分田、小会田等の地名がある。のち治承4年(1180)源義経は、牛若丸の頃、吉次によって鞍馬山から連れ出され、平泉の秀衡に預けられた恩義により、兄弟の最後を哀れみ、八幡神社にその霊を合祀した。里人も兄弟を厚く葬り墓を建立し、菩提を弔った。真中の宝篋印塔は吉次、左が吉内、右が吉六の墓碑塔である。   白河観光協会  』

波乱万丈の生涯を送った吉次兄弟も、幹線道路から300メートルほど奥まった林の中の立派な墓に静かに眠っている。

吉次兄弟の墓 吉次兄弟の墓 白河市白坂 (平5.5)

吉次の墓     (栃木県壬生町上稲葉)

『       金売り吉次の墓(伝説)
金売り吉次は、鎌倉時代の初めに源義経に仕えた金売り(砂金などの売買を商売とした者)です。
義経は平家を壇ノ浦に滅ぼした後、兄頼朝と不仲になり、奥州平泉へ逃れました。吉次は義経の伴をし、この稲葉の地まで逃れてきましたが、病にたおれこの地で生涯を終えました。里人たちにより、吉次の墓とともに吉次の守護仏である観音樣を祀ったお堂(ここより約20メートル東に現存)が建てられたといわれています。
また、江戸時代の「奥の細道」で知られる松尾芭蕉に随行した曹良の日記に、「壬生ヨリ楡木へ二リミフヨリ半道ハカリ行テ吉次が塚右ノ方二十間ハカリ畠中に有」と記されています。
   昭和六十二年三月    壬生町教育委員会  』
白河の墓に比べると簡素なものであり、このあたりを義経一行が通って奥州へ逃れたとなると謡曲「安宅」も成り立たなくなりそうであるが、そこが伝説の面白いところ。家内の実家が壬生にあるので、家内の弟に案内してもらい訪ねてみた。

吉次の墓 吉次の墓 栃木県壬生町上稲葉 (平5.4)

判官塚 (栃木県鹿沼市北赤塚町)

『      判官塚古墳
・・・この古墳は、源九郎義経の冠を埋めたので冠塚と呼ばれ、また、判官の名前をとって判官塚というなど、いくつかの伝説を秘めています。
   平成三年七月一日   (鹿沼市教育委員会)』
また、吉次等と平泉に向かう途中、義経等が潜居した所とも伝えられる。

判官塚 判官塚 栃木県鹿沼市北赤塚 (平5.6)

<追記 平13・4記>
その後、山形市にある住吉神社と唐松観音を訪ねた。この地に住む炭焼き藤太という長者のところへ、京都一条殿の豊丸姫が清水観音のお告げにより藤太との縁を知り、訪ねて来て夫婦となった。
二人の間に生まれたのが吉次、吉内、吉六の三人であるという。
住吉神社は吉次が摂津の住吉神社を勧請したものであり、唐松観音は姫が都より持参した聖観音の像を安置したのが始まりと伝える。

住吉神社 住吉神社 山形市上宝沢 (平12.6)

唐松観音 唐松観音 山形市滑川 (平12.6)


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