東福寺

謡蹟めぐり  自然居士 じねんこじ

ストーリー

自然居士が京都雲居寺で説法を行うところに、聴衆の中から一人の少女が現れ諷誦(死者の追善のためお布施をして読経を請う文)とお布施として小袖を捧げます。幼くして両親を失った極貧の少女が身を売り、その代金を小袖に代えて親の供養を願うので、居士も聴衆もその痛わしさに皆涙します。
そこへ荒くれ男達が突然割り込んできて少女を強引に連れ去ります。これは人買どもの仕業と察した居士は、説法を中断して小袖と引き換えに少女を連れ戻そうと急いで後を追います。
ようやく琵琶湖の大津で追い付き、出しかけた舟に居士は水を渡って取り付いて引き止めます。居士が少女を連れ帰ろうとすると、無理にでも連れて行くなら命を取るとまで人買は脅しますが、居士は全く怯みません。
とうとう居士をもてあました人買は、居士にいろいろな遊芸をやらせて散々弄んだ末に許します。遂に居士は少女を取り戻し、共に都に帰ります。(「宝生の能」平成13年6月号より)

高台寺(雲居寺址)  京都市東山区高台寺下河原町 (平8・4記)

本曲前段の舞台は雲居寺で、現在の高台寺がその址と言われる。雲居寺は桓武天皇の菩提を弔うため建立されたが、応仁の乱で焼失、廃寺となった。今の高台寺は秀吉の正室北政所が剃髪して高台院となり、秀吉を弔うため慶弔10年(1605)開創した寺である。造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行なったので、寺観は壮麗を極めたという。しかしその後たびたび火災にあって多くの堂宇を失い、現在残っているのは旧持仏堂の開山堂、霊屋等で国の重要文化財となっている。
自然居士は今の大阪府泉南郡東鳥取町自然田の人で、南禅寺の大明国師に師事しこの雲居寺に住み、その弟子東岸居士とともに剃髪染衣せず、羯鼓を打ち編木を擦り、扇を持って舞うなどして、奇行をもって衆俗を仏道に導いていたという。

高台寺 高台寺 京都市東山区高台寺下河原町 (平6.9)

琵琶湖  大津市 (平8・4記)

本曲後段の舞台は大津市松本の湖岸である。
謡本には場所は特定されていないが、「謡曲大観」によると、狂言方との問答の中に「さようの者ならば、大津松本のあたりへ参ろうずるにて候間、某追っかけとめ申そうずるにて候」とあり、また「舞台は大津松本の湖岸」とはっきり書かれている。
地図で調べると大津市には現在も松本という地名はあるが、湖に面してはいない。往時はこのあたりまで湖岸となっていたことであろう。近くには木曽義仲の「義仲寺」がある。適当な写真が見当たらないので、近くの三井寺から眺めた琵琶湖の写真を掲げておく。

琵琶湖 琵琶湖 滋賀県大津市 (昭63.3)

東福寺 龍吟庵 龍吟庵枯山水庭園  京都市東山区本町 (平8・4記)

自然居士が修行したのは、臨済宗の大本山東福寺、その塔頭龍吟庵と言われている。
居士はここで修行した後、雲居寺に移ったようである。龍吟庵の裏山には自然居士が晩年隠栖した採薪亭址や、自然居士の墓があるとのことで探したが、龍吟庵自体が国宝に指定されていて、なかなか近寄れない場所となっており見つけることは出来なかった。

東福寺は摂政九条道家が、奈良の最大の寺院東大寺に比べ、また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で、京都最大の大伽藍を造営し、その一字づつをとり寺の名にしたという。19年の歳月をかけ建長7年(1225)完成したが、その後たびたびの火災で焼失している。貞和3年(1347)には、仏殿が再興され、禅宗寺院としての寺観を整えるようになった。それも明治14年(1881)の火災で、仏殿、法堂、方丈、庫裏を焼失している。以後逐次諸堂を再建してきた。
現在、本坊を中心に25カ所の塔頭が南北に広い山内を埋めている。また、紅葉の名所としても知られるが、私が訪ねたのは11月中旬、紅葉には最高の季節であった。

東福寺塔頭の龍吟庵は国宝となっていて普段は公開されていないようであるが、私が訪ねた時は特別公開ということで拝観することが出来た。庭園は寺の名前にちなんで龍が海中から黒雲を得て昇天する姿を石組によって構成した枯山水庭園で、青石による龍頭を中央に配し、白砂と黒砂は雲紋、竹垣は稲妻を表象しているという。

東福寺 東福寺 京都市東山区本町 (平5.11)

龍吟庵 龍吟庵 東福寺塔頭 (平5.11)

枯山水庭園 龍吟庵枯山水庭園 龍吟庵 (平5.11)


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