大原野神社

謡蹟めぐり  小塩 おしお

ストーリー

京都下京に居住する人々があいつどい、今を盛りに咲いている大原山の花を見ようと、一日小塩のあたりへ出向きます。すると貴賤群集のその中に、一人の老翁が桜の枝をかついで、いかにも楽しげに華やいだ風情でやってきます。これを面白く思った花見の衆が、いかなる人ぞと言葉をかけると、老人は「大原や小塩の山も今日こそは神代の事も思い出すらめ」と詠まれた歌の心など語り、昔が恋しいと酔い泣き、また陽気になって業平と我が身のほどをほのめかしつつ、夕霞の影に消え失せました。
さては、ただびとでないと思われた今の老人は、在原業平の化身かと不思議に思う所に、業平がありし日の幽艶な姿を見せます。伊勢物語の歌を綴って恋の遍歴を回想し、舞の袖を返して、歌のとおり「夢かうつつか寝てか覚めてか」思い分かぬうちに消え失せ、明け方の空に花が残るばかりでした。(「宝生の能」平成10年3月号より)

曲中にちりばめられた和歌の数々 (平13・5記)

この曲は渡雲会でも他の会でもあまり出されないため、私は今まで曲の内容について多くを知らなかった。今回この項を書くに際し、詳しく読んでみて和歌が沢山織り込まれているのを知った。
最初は在原業平の和歌が数種程度かと思って、和歌の部分を特定しようと佐成謙太郎著「謡曲大観」を取り出し調べてみて驚いた。業平以外の歌人の歌も含め22首も引用されているのである。和歌の殆どをそのままの形で引用しているのは、業平の曲を中心に10曲程度と思われるが、これを中心に、多くの和歌を縦横に織り込んでこの曲を書き上げている。作者も随分苦労したと思うが、それを和歌の出典まで調べ注釈をつけた佐成謙太郎氏の研究にも驚く。
「謡曲大観」で調べた歌をまとめて掲載させていただく(○印は殆どそのままの形で謡曲に引用しているもの。その他は一部を引用している)。

手向にはつゞりの袖も切るべきに 紅葉に飽ける神やかへさん 古今集 素性法師

年ふれば齢は老いぬしかはあれど 花をし見ればもの思ひもなし 古今集 藤原良房

春の日の光にあたるわれなれど 頭の雪となるぞわびしき 古今集 文屋康秀

今日見ずは悔しからまし花盛り 咲きも残らず散りも始めず 拾葉抄 定頼卿

形こそみ山がくれの朽木なれ 心は花になさばなりなん 古今集 兼芸法師

姿こそ山のかせぎに似たりとも 心は花になさばならめや 拾葉抄 紀友則

わが恋はみ山がくれの埋木の 朽ちはてぬとも人に知られじ 続千載集 藤原冬平

君ならで誰にか見せん梅の花 色をも香をも知る人ぞ知る 古今集 紀友則

大原や小塩の山の小松原 はや木高かれ千代の影見ん 後撰集 紀貫之

都辺はなべて錦となりにけり 桜を折らぬ人しなければ 拾遺愚草 藤原定家

大原や小塩の山も今日こそは 神代のことも思ひ出づらめ 古今集 在原業平

鶯の笠に縫ふてふ梅の花 折りてかざさん老隠るやと 古今集 源常

月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身一つはもとの身にして 古今集 在原業平

今日来ずは明日は雪とぞ降りなまし 消えずはありと花と見ましや 古今集 在原業平

百敷の大宮人は暇あれや 桜かざして今日も暮らしつ 新古今集 山部赤人

思ふこといはでたゞにや止みぬべき われに等しき人しなければ 伊勢物語の歌

春日野の若紫のすり衣 しのぶの乱れ限り知らずも 伊勢物語の歌

陸奥の忍ぶもぢずれ誰ゆえに 乱れんと思ふわれならなくに 古今集 源融

唐衣着つゝ馴れにし妻しあれば 遙々来ぬる旅をしぞ思ふ 古今集 在原業平

武蔵野は今日はな焼きそ若草の つまもこもれりわれもこもれり 伊勢物語 二条后

君やこしわれや行きけん思ほえず 夢か現か寝てかさめてか 古今集 贈答歌 女

かきくらす心の闇にまどひにき 夢現とは世人定めよ 古今集 贈答歌 業平

大原野神社と十輪寺 (平13・5記)

この曲の舞台である大原山(小塩山)は京都市西京区の一番西の奥にある。その麓に大原野神社があり、花の名所である。近くには西行桜の舞台である花の寺の勝持寺もある。
大原野神社は祭神として、奈良の春日神社と同じ四大明神を祀っている。藤原氏の氏神、京都の守護神として崇敬され、官祭である大原野祭には勅使が派遣されていた。二条の后がここに参詣した時、業平が供奉したことは曲中にも記されている。
西京区小塩の十輪寺は業平が晩年閑居した所として知られる。裏山には業平塩釜の址があり、そのいわれには、「業平は難波より海水を運びここで塩焼の風情を楽しまれた。殊に生涯の想い人であった二条后(藤原高子)が大原野神社に詣でる時、塩焼を行い紫の煙に恋慕の思いをこめて立ちのぼらせた。それを眺めた二条后は秘かに涙を流してしのんだ」と記されている。
業平はここで56歳で没したと伝え、寺の裏山には業平の墓がある。

大原野神社 大原野神社 京都市西京区大原野南春日町 (平7.9) 業平が二条后に供奉し参詣した

十輪寺 十輪寺 京都氏西京区大原野小塩町 (平7.9) 業平が晩年閑居したところとつたえる

業平塩焼き釜址 業平塩釜の址 十輪寺 (平7.9) ここで塩を焼き風情を楽しんだ

業平の墓 業平の墓 十輪寺 (平7.9) 寺の裏山に眠る

野火止めの塚 (平13・5記)

曲中に引用される「武蔵野は今日はな焼きそ若草の、つまもこもれり我もこもれり」の舞台は、埼玉県新座市の平林寺の裏山と言われる。このあたり現在でも野火止の用水路があり、野火止塚もあって武蔵野の面影を留めている。近くには業平塚(写真は「井筒」参照)もある。これらの塚は火田狩猟による野火、あるいは焼畑農法による火勢を見張ったものと言われる。

この歌は伊勢物語の中には次のように記されている。
『 十二 むかし、をとこありけり。人のむすめをぬすみて、武蔵野へ率(ゐ)て行くほどに、ぬす人なりければ、国の守(かみ)にからめられにけり。女をば草むらのなかにおきて、逃げにけり。道来る人、「この野はぬす人あなり」とて、火つけむとす。女、わびて、
   武蔵野はけふはな焼きそ若草の  つまもこもれり我もこもれり
とよみけるをきゝて、女をばとりて、ともに率ていにけり。 』

なお、古今集には詠み人知らずとして、冒頭の部分だけが違う次の歌があるとのこと。
   春日野はけふはな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり

この場面を堀和久は文春文庫の「春日局」の中で次のように記している。

『 川越路は、武蔵野平原をふみ固めた細道で、左右に水田は少なく、わずかな畑と雑木林がどこまでも続いている。途中、ところどころで、火煙が遠望された。焼き畑づくりの野火である。
「伊勢物語にございまする野火止め塚の由来をごぞんじでしょうか」・・(中略)
お福(春日局)は小さく笑い、野火止の一節を語った。
昔、ある男が懸想した娘を親から奪って武蔵野へ逃げこんだ。だが、盗人として捕り方に包囲される。男は娘を草むらにかくして、姿をくらました。
捕り方が、いぶり出しのため草原に火をつけようとしたところ、娘が飛び出して哀願し、一首詠んだ。
   武蔵野は けふはなやきそ 若草の 妻(夫)もこもれり 吾もこもれり
役人は感じ入って、二人をゆるした。
「その、野火止めの塚は、どこか、この近くにありまする平林寺という禅寺の境内に残っているはずでございまする」 』

平林寺 平林寺 埼玉県新座市野火止 (平8.1) 広大な境内の林の中に野火止塚や業平塚がある

野火止の塚 野火止塚 平林寺境内の林 (平8.1) 伊勢物語「今日はな焼きそ・・」の舞台 


−ニュース−

曲目一覧

サイトMENU

Copyright (C) 謡蹟めぐり All Rights Reserved.