田蓑神社

謡蹟めぐり  芦刈 あしかり

ストーリー

津の国日下(くさか)の里の住人、左衛門は貧乏の末、心ならずも夫婦別れをします。妻は京に上って高貴な人の若君の乳母となり、生活の安定を得ます。そこで従者を伴って難波の浦へ下り、夫の行方を尋ねますがわからず、しばらくこの地に逗留して探すことにします。一方夫は、落ちぶれて芦を刈りそれを売り歩く男になっています。
ある日通りがかりの一行に、面白く囃しながら芦を売ります。そして問われるままに、昔仁徳天皇の皇居があった御津の浜の由来を語り、笠尽しの舞を舞うなどし、さて芦を渡す段になって初めてその人が自分の昔の妻と知ります。
左衛門は思わず今の身の上を恥じて隠れますが、妻の呼びかけに和歌を詠み交わし、心もうちとけ、再びめでたく結ばれます。装束も改めた左衛門は従者の勧めで爽やかに祝儀の舞を舞い、夫婦うち揃って都へ帰ってゆきます。(「宝生の能」平成10年5月号より)

本曲の舞台探し  (平6・3記)

謡本の「所」には「摂津国草香の里」とある。曲中には「浪も入江の里つづく、難波の浦に着きにけり難波の浦に着きにけり。御急ぎ候程に、これははや津の国日下の里に御着きにて候」とある。難波の浦と日下の里はどんな関係になっているのだろう。
木本誠二著「謡曲ゆかりの古蹟大成」では「本曲前半の舞台は、シテの語りからみて御津の浜の間近い所で、今の南区八幡町の御津八幡宮のある辺りである。昔は海浜であったろうが、今は海から二キロも離れた市街地である」とあるので、手元の大阪府都市地図で探してみた。大阪市には南区は今はなく、中央区あたりと思うが、八幡町も御津八幡宮も見つからない。でも、どうやら大阪城の近く、法円坂にある難波宮跡が仁徳天皇の御在所跡ともいわれ、往時はこの近くまで海が逼っていた模様なので難波宮跡の写真を掲げてみた。

難波宮跡 難波宮跡 昔はこの近くまで海がきていたようだ. 大阪市中央区法円坂 (平5.11)

草香(日下)の里については、木本氏は「現在のどこか明らかでない、大阪府で似た名の土地は、枚方市に編入されている孔舎衙(くさか)の日下であるが、津の国とはかなり隔った河内の国の外れであり、まして難波ではない。」としている。佐成謙太郎著「謡曲大観」では「河内国中河内郡にあり、今その郡の日根市村に属している。」とある。また、京都新聞社編「能百番を歩く」では、東大阪市日下町としている。三者同じ所を指しているのかも知れないが私には確認できない。いずれにしても、難波の浦や淀川からはかなり隔たった所で難波の浦の景色は望めそうにない。
曲中で謡われるように、ツレとワキは都を出発し、淀川を美豆野(みづの)、山本、水無瀬、渚の森、渡辺、大江の岸と下って難波の浦(日下の里)に着くのであるから、日下の里も自分勝手に、淀川の河口近くで、海が見え、芦が茂っている場所と想像している。曲中に出る「田蓑の島」のあたりが、現在も田蓑神社があり最もふさわしい場所と思われるが、まだ訪ねていない。手持ちの写真の中では、淀川河口近い江口の里あたりの淀川が最もふさわしいとおもわれるので掲げておく。

淀川江口の里あたり 江口の里あたりの淀川 往時は芦があったと思われる. 大阪市東淀川区南江口 (平3.9)

御津八幡宮 御津八幡宮 大阪市中央区西心斎橋 (平14.9)

高津宮跡碑 高津宮跡碑 仁徳天皇皇居跡といわれる 大阪市天王寺区餌差町 高津高校内  (平14.9)

田蓑神社 田蓑神社 大阪市西淀川区佃 (平14.9


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