平成3年6月「田村」演能の後も各地の謡蹟を訪ねているが、そのうちから「田村」関連のものを掲げてみる。
明通寺は大同元年(806)、田村麿の創建と伝え、本堂、三重の塔は国宝に指定される名刹である。周囲の老杉と調和し落ち着いた雰囲気を漂わせている。お寺の風景もさることながら、寺の受付に飾られている人形に目をひかれた。明通寺縁起人形というのだそうで、ここにお住まいのおばあさんの手作りで、坂上田村麿周辺の人々をモデルにした由である。ほのぼのとした気持ちでこの寺を後にした。
明通寺 (平6.11)
「土賊」の謡蹟を尋ねてこの地に来たのだが、思いがけず坂上田村麿通過の史跡と書かれた碑を発見し、田村麿の足跡の広いのに改めて驚いた。碑には次のように書かれている。
「 田村麿は後漢霊帝の曾孫阿智使主の子孫といわれ桓武天皇は延暦20年(801)我国最初の征夷大将軍に任命され東北征伐のためこの道を往復された史跡である。
夜鳥山主 慈昭しるす 」
このあたり、現在ではこの下を中央高速の恵那山トンネル通っている。難所ではあるが、交通の要衝であることは往時も変わりなく、この碑のある月見堂付近には、伝教大師、慈覚大師、日本武命ほか多くの著名人が通過したことを示す碑が残っている。また謡曲「土賊」の舞台でもある。
田村麿通過地の碑 (平7.10)
月見堂付近 (平7.10)
普光寺境内にある毘沙門堂は田村麿が東夷征討のおり、自らの護持仏毘沙門天を奉祀、国家鎮護を祈念して創建したと伝えられる。私はこの寺の隣町の小出町で育ったのであるが、裸押合祭りのことはよく知っていたが、田村麿の創建とは私にとっても新しい発見であった。
毎年3月3日に行われる雪中の裸押合い祭りは全国三大奇祭の一つで、滝壷の水で身を清め、裸で押し合う信者の熱気あふれる祭りは古式そのまま今に引き継がれ行われている。
毘沙門堂 (平6.10)
裸押合祭のポスター (平6.10)
田村麿が蝦夷平定に、また源頼義が安倍氏追討に際して、この杉に表矢を献納したと伝えられる。樹高35メートル、樹齢1200年と伝えられる。
矢立杉 (平8.5)
田村麿が京都の清水寺に似せて建立したという。坂東第32番の札所となっているので家族とともに札所めぐりで参詣した。
清水観音 (平1.8)
田村麿が東征の途次、この観音堂に通夜して悪龍を退治し、観音を岩穴に祀ったのが起源といわれる。正式の名は岩殿山正法寺で、坂東第10番の札所となっている。
岩殿観音 (平1.11)
田村麿が蝦夷討伐のおり、逆賊調伏のため、千手観音菩薩を安置し大願成就と祈って堂宇を建立したと伝えられる。
太平寺 (平4.7)
田村麿が山城国宇治郡(現京都府宇治市)鎮座の許波多こはた神社を勧請したのが起源と伝えられる。
木幡神社 (平5.10)
田村麿が夷酋を討ち平らげた恩徳を慕い祠を建ててまつったといわれる。境内には佐藤継信、忠信兄弟の妻たちが男装して母を慰めたという甲冑堂がある。(甲冑堂の写真は「摂待」参照)
田村神社 白石市斉川 (平7.6)
塩釜市に近い利府町に田村麿生誕の地と伝えられる所がある。今は子安観音が祀られている。天平2年(758)の生まれで、父は坂上苅田麿、母の阿久玉姫は九門長者の婢女であったという。
子安観音 (平7.6)
悪路王討伐に霊験のあった明神を田村麿が祀ったものといわれる。
愛宕神社 (平6.6)
払田柵址は岩手県胆沢城と秋田城の中間に位置しており、平安時代、田村麿によって築かれたものと見られている。復元工事が進められていた。
払田柵址 (平6.6)
達谷窟に立てこもった悪路王を田村麿はこの一関城に拠って戦い、遂にこれを打ち破った。現在は釣山公園となっており公園の中には一関城跡の碑や、坂上田村麿を祭神とする田村神社がある。
一関城址(釣山公園) (平6.5)
田村神社 (平6.5)
8世紀末、この窟に拠った悪路王の勢力が強大となり、奥州王化の妨げとなっていた。蝦夷平定の勅を受けた田村麿は激戦の末、遂にこれを打ち破った。田村麿は多聞天のご加護によるものと、京都の清水寺の舞台造りをまね、窟の前にお堂を建て108体の多聞天を祀り、達谷窟毘沙門堂と名づけた。
毘沙門堂左の大磨崖仏は岩面大仏と呼ばれ、後年源頼義が戦没者の諸霊を弔うために弓弭ゆはずで岩面に阿弥陀如来(一説に大日如来)の尊像を彫りつけたと伝えられる。
達谷窟毘沙門堂 (平6.5)
岩面大仏 (平6.5)
田村麿が勅命によって前方の山に八幡大神を祀ったので八幡山と呼ぶようになったという。この神社はこの村で最も古く造られたので、旧殿(ふるいお社)といわれる。このあたり、前九年の役で激戦が繰り広げられた古戦場の跡である。
旧殿古戦場址 (平6.5)
胆沢城は桓武天皇が坂上田村麿をして造営させ、鎮守府を移して東北開発経営の中心とした所である。現在は広い水田や林の中に碑や案内板が残るのみであるが、同じ頃、宇佐八幡宮を勧請して創建されたという鎮守府八幡宮は立派に現存しており、往時を偲ばせてくれている。
胆沢城跡(平6.5)
鎮守府八幡宮 (平6.5)
田村麿が大同年中、八幡大明神を祀ったのが起源といわれる。南部一之宮として、重厚で精巧を極めた社殿があり、義経着用と称される国宝の赤糸おどしの鎧がある。
櫛引八幡宮 (平6.6)
古来死者の魂が集まる霊場とされ、死者の口よせをする巫女も有名である。地獄谷、無限地獄、修羅地獄、賭場地獄等々地獄模様が繰り広げられるが、一方、地蔵堂、大師堂、薬師堂等々救いの場も沢山もうけられている。
田村麿に滅ぼされた蝦夷の残党が、田村麿の落胤の佐井丸夫妻を殺したため、夫妻の怨霊が今もこの恐山を逍遥低迷しているという。
恐山 地獄 (平6.6)
恐山 地蔵堂 (平6.6)