清明神社

謡蹟めぐり  鉄輪 かなわ

ストーリー

都に住む女が、自分を捨て新妻を迎えた夫の不実を恨み、貴船神社に日参し願を掛けています。今日も社前に進むと、待ち構えていた社人が「頭に鉄輪を頂き、その三本の足に火を灯し、顔に丹を塗り、赤い着物を着て怒る心を持てば鬼となり、恨みを果たせる」と神託があったと告げます。女は、それは人違いだと言いますが、急に顔色が変わり、薄情な夫に思いしらせてやろうと走り去ります。
一方、下京の男は悪い夢見が続くので陰陽師清明に占ってもらいます。すると、女の恨みで今夜にも命が尽きると言われ、急いで祈祷を願います。清明が夫と新妻の人形を作り祈り始めると、間もなく凄まじい空模様の中悪鬼となった女の霊が現れます。そして夫の心変わりを責め新妻の髪を掴み激しく打ちすえなどしますが、守護の神々に追われ、神通力を失い、心を残しながらも退散します。(「宝生の能」平成10年10月号より)

鉄輪跡  (京都市中京区)   (平3・12記)

本年9月、小豆島での戦友会に出席の帰途京都に一泊、下京区あたりの謡蹟を訪ね歩いてみた。なんと言っても京都は謡蹟の宝庫、歩いて回れるくらいのところに沢山の見所がある。
この時も朝7時頃から12時頃まで歩いてかなりの謡蹟を訪ねることが出来た。主なものは「東本願寺・枳穀邸(渉成園)(融)」「夕顔の墳(半蔀)」「五条大橋(橋弁慶)」「長講堂(大原御幸)」「堀川館址(正尊)」「五条あたり(半蔀)」「五条天神(橋弁慶)」などである。
「鉄輪跡」もこの時訪ねたのであるが、五条大通りの大橋からそれほど離れていない所を北に少し歩いた所に、小さな石碑が建っているだけである。
周りは極く普通の家が並んでおり、なんのへんてつもない場所である。鉄輪の中の夫婦がこのあたりに住んでいて、夫婦喧嘩をしたとしても少しもおかしくない雰囲気である。
しかし男は本妻を離別して、新しい女をめとり、妻は「貴船神社」に祈り鬼となって命をとろうというのだからすさまじい。ここから貴船神社までは地図ではかっても10キロ以上はあるようだ。まだ貴船神社に参詣したことはないが、鞍馬神社のまだ奥のはずだからかなりの道のりである。女の執念というのは恐ろしいものである。
一方旦那さんのほうは、安部清明という人に占ってもらうと女の恨みであるという。この清明という人が住んでいた所が上京区葭屋町にある「清明神社」のあたりという。ここは下京の住まいからはさほど離れていないから真実味がある。次の機会にはぜひ訪ねてみたいものである。

<追記 平13・10 鉄輪の井戸>
その後、平成8年4月再びここを訪ねこの鉄輪跡の碑のある所を少し奥に入ったら鉄輪の井戸があったのでその写真も掲げてみる。以前は塚もあったともいうが今は小さな祠の中に井戸が残されている。

鉄輪跡の碑 鉄輪跡の碑 京都市中京区 (平3.9) 五条大通りの大橋近くを北に少し歩いた所に碑が立つ

鉄輪の井戸 鉄輪の井戸 京都市中京区 (平8.4) 井戸の上に祠が建てられている

清明神社 (京都市上京区堀川通り)   (平7・5記)

安部清明を祀ったのが清明神社である。神社の由緒によると
「 御祭神晴明公は孝元帝の皇子大彦命の御後胤にして幼時より甚だ御賢明な方にて万の道に秀でられ、特に天文暦学の道に通達し神道自在の妙術を得られた。長ずるに及び天文陰陽博士として朱雀帝より村上、冷泉、円融、花山、一条の六代の帝の側近に仕えられ、数々の功績をたて給い、中にも村上帝の御代進んで入唐し、城刑山にて伯道仙人の神伝を承け帰朝するやわが国独特の陰陽道を確立され朝廷の祭政、民族生活の基範を定められた。今日我々が日常生活の基準とする年中行事、暦術、占法等、皆この時を創りとする。・・・」
この神社は晴明公の邸趾とのこと。地図をみると鉄輪跡のある本曲ワキツレの男の住居からここまではかなり離れており、電車やバスのない時代、夢を占ってもらうためここまで来るのは大変だったと思うが、奥さんのほうの貴船神社まで行ったのに比べれば全く比較にならならない。

清明神社 清明神社 京都市上京区堀川通り (平5.9)清明を祀り、また清明の屋敷跡ともいう

深泥(みどろ)池 (京都市北区上賀茂狭間町)
貴船神社     (京都市左京区鞍馬貴船町)(平7・5記)

本曲のシテさんの通った道をたどってみる。シテさんは貴船神社に願いをかけて、五条大橋あたりの自宅を出発して、糺の森(「班女」でとりあげる予定)を過ぎ、深泥池を通る。この池は周囲1キロほどの池で中央部に浮島がある。池中にはジュンサイをはじめ種々の珍しい水生植物群落があり天然記念物に指定されている。市原野辺(「通小町」でとりあげる予定)を過ぎると貴船口あたりで川は二手に分かれる。右が鞍馬川、左が貴船川である。この二つの川はここで合流し流れ下って糺の森のあたりで加茂川となる。
貴船川に沿って上ると間もなく参道が見えてくる。両側の朱塗りの灯籠を見ながら長い参道を上りつめるとようやく貴船神社である。シテさんはこの長い道のりをどれくらいの時間をかけて登ってきたのであろうか。「鉄輪」のシテさんが恨みを報いるために丑の時詣でに通ったこの貴船神社も、今は縁結びを願う人は、境内のすすきなどの長い葉を交互に結び合わせて奉納祈念すると、霊験あらたかで願いごとが叶うとされ、縁結びの神としてあがめられている。

深泥池 深泥池 京都市北区上賀茂狭間町 (平6.4) シテはこのあたりを通って貴船明神に丑の時詣でをした

貴船神社 貴船神社 京都市左京区鞍馬貴船町 (平5.11) 今は縁結びの神としてあがめられている

安倍清明神社 (大阪市阿倍野区阿倍野元町)(平13・10記)

寛弘4年(1007)の創建といわれ、安倍清明公が祀られている。清明はこの地で生まれたといわれ、境内には安倍清明公産湯井の跡が残されている。近くには「松虫」の舞台の松虫塚や熊野詣での熊野街道が通っている。

安倍清明神社 安倍清明神社 大阪市阿倍野区阿倍野元町 (平12.8) 安倍清明生誕の地といわれる

安倍清明産湯の井 安倍清明公産湯の井の跡 安倍清明神社 (平12.8)井戸のほか石碑も立っている

信太の森 (大阪府和泉市信太)           (平13・10記)

清明の生誕に関する信太の森の伝説がある。
和泉市の信太に信太の森があるが、昔この里に葛の葉という白狐がいた。安倍保名(清明の父となる人)が信太明神参詣のおり、狩人に追われた白狐を助けてやった。狐は命の恩人に報いるため美女葛の葉となり、保名に家を与え妻となって生んだ子が清明である。しかし清明が七歳の時、たまたま葛の葉の正体が知られ、葛の葉は
 「 恋しくは訪ね来て見よ和泉なる 信太の森の恨み葛の葉 」
という歌を障子に書き残して信太の森に戻ったという。
森の中には葛の葉を祀った葛葉稲荷神社、美女に化けて姿を映したという姿見の井戸、葛の葉が障子に書いたという「恋しくは・・」の歌碑がある。

信太の森 信太の森 大阪府和泉市信太 (平10.3) この楠は樹齢2千年といわれ根元より二つに別れるので夫婦楠ともいう

葛葉稲荷神社 葛葉稲荷神社 信太の森 (平10.3) 由緒では祭神は信太森葛葉稲荷大明神としている

姿見の井戸 姿見の井戸 信太の森 (平10.3) 葛の葉姫に化身した白狐が姿を映したという井戸

恋しくはの歌碑 「恋しくは・・」の歌碑 信太の森 (平10.3) 本文に記した歌が刻まれている

清明井戸 (太宰府市南榎) (平13・10記)

太宰府市南榎の道ばたに安倍清明が掘ったという井戸があり、どんな干天でも水か涸れないという。また出産時にこの井戸の水を使うと安産であるという信仰があり、祠の中には三角形の板状の石が置かれているが、これは水を守る神様を現しているという。

清明の井戸 清明の井戸 太宰府市南榎 (平11.11) 清明が掘った井戸でどんな干天でも水が涸れないという

川口神社 (銚子市川口町) (平13・10記)

清明が帝の勘気を蒙ってこの地に隠栖した時、銚子の長者の一人娘延命姫と契った。気は優しいが顔の反面が一杯にあざのある醜女であったため、清明は逃げだし、これを追って出た延命姫は投身入水した。その歯と櫛が流れ着いたので、これを祀ったのが歯櫛(白紙)明神であるという。

川口神社 川口神社 銚子市川口町 (平8.12) 清明と契った延命姫を祀る 


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