八幡歌碑

謡蹟めぐり  草紙洗2 柿本一麿関係謡蹟

ストーリー

柿本人麿関係謡蹟    (平16・2記)

本曲に「清涼殿の御会なれば・・かくて人丸赤人の御影をかけ・・」とあり、柿本人麿、山部赤人の名が歌聖として登場している。
柿本人麿は孝昭天皇の皇子天足彦押人命の子孫で、敏達天皇の時、門辺に柿の樹があるので柿本をその姓としたという。人麿は持統天皇、文武天皇に仕え、殊に和歌の道に優れ、万葉集に沢山の歌を残してている。また任地石見の国においても国守となり石見紙の発明そのた殖産興業をおこし治績をあげた。
人麿の歌として一般によく知られるものには、百人一首の

   あしびきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜を一人かもねん

があるが、数多くの歌の中から歌碑となっているもののうち、私が訪ねたものも紹介しようと思う。

柿本寺址 奈良県天理市

奈良県天理市には柿本寺址があり、荒廃して寺は取り払われたが、歌塚が残っており人麿の墓と伝えられている。人麿の出生その他については不明の点が多いが、任地の石見(いまの島根県)で死んだとする説が有力で、その遺骨をこの地に埋葬したもとのいう。

柿本寺址 柿本寺址 奈良県天理市櫟本 (平8.9)

歌塚 歌塚 柿本寺址 (平8.9)

石上(いそのかみ)神宮 奈良県天理市

柿本寺址から2キロほどしか離れていない同じ天理市布留に石上(いそのかみ)神宮がある。この神宮の拝殿で昭和60年に、長く廃曲となっていた能「布留」が奉納されたというから、立派な謡蹟である。
その境内に人麿の歌碑がある。この歌碑は昭和43年に、天理ライオンズクラブが結成4周年を記念して山の辺の道顕彰のために建立し、石上神宮に奉献されたものの由である。
歌碑の文字はなかなか難しいが
   をとめらが袖振る山の瑞垣の 久しき時ゆ思ひき吾は
と読むそうで万葉集巻4-501の歌。
その意は山崎しげ子著「大和路能とまつりの旅」によれば、
「 乙女らが振る衣の袖、その布留山に鎮座する布留社。その神域をめぐる瑞垣が久しい昔からあったように、わたしはずっといぜんからあなたのことを恋い慕っていました。 」

石上神宮 石上神宮 奈良県天理市布留 (平8.9)

歌碑石上 人麿歌碑 石上神宮 (平8.9)

山の辺の道  奈良県天理市

この神宮を起点とする「山の辺の道」には、古事記・日本書紀・万葉の歌碑が40基ほど建てられているようであるが、事前に調査しなかったので人麿の歌碑はこの分を含め3基しか気がつかなかった。よく調べて再度訪ねたい道である。

念仏寺を過ぎて長岳寺に向かう途中に人麿の歌碑を見つけた。これは漢字ばかりでとても読めなかったが、調べてみると
   衾道を引手の山に妹を置きて 山路を行けば生けりともなし
と読むようで、万葉集巻2-212にある由。犬養孝の筆になるものという。大岡信はその著「私の万葉集」でその意を「フスマヂヲ引手の山に妻をひとり置き、山路を帰って行く。生きた心地もない私だ」として亡妻を思う挽歌だとしている。

歌碑念仏 人麿歌碑 山の辺の道 念仏寺近く (平8.9)

さらに進んで桧原神社に近い所にも人麿の歌碑がある。これは吉田富三の書でひらがなで書かれているので私にも読むことができる。
   いにしへにありけむ人もわが如か みわの桧原にかざし折りけむ
万葉集巻7-1118の歌で、斉藤茂吉によればその意は「古人もまた、今の吾のように、三輪山の桧原に入り来て、挿頭(かざし)を折っただろう、というので、品よく情味ある歌」としている。

歌碑檜原 人麿歌碑 桧原神社近く (平8.9)

今回、山の辺の道の地図をたどりながら、どのような歌碑があるかを調べてみたところ、この歌碑のすぐ近くと、謡曲「三輪」の舞台、大神神社に境内に日本武尊が臨終間際の残したといわれる

 倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし

(大意)
大和は、国々の上に秀でたつ国、山は山と重なりあい、目にしみる青垣をつくっている。
この山々に囲まれた、なつかしい故郷の大和ほどうるわしい国がまたとあろうか。
大和はいいなあ、帰りたいものよ。

の歌碑があることを知った。この歌は「草薙」の項でも紹介した歌である。二つともその場所まで行きながら見逃してしまったことを知り断腸の思いである。

小野小町と僧正遍昭のロマンス

石上神宮から山の辺の道へ向かう途中、神宮の近くで「石上神宮並びに良因寺絵図」と題するかなり大きな案内図を見つけた。人麿とは直接関係ないが、小野小町と「女郎花」や「雲林院」に名が出てくる僧正遍昭との歌のやりとりが紹介されているので、その要点を紹介する。

「 往時この神宮の近くに石上山良因寺という宏壮な寺院があった。この寺に住持していた僧正遍昭も歌人として世に知られていた。小野小町がはるばる都よりこの寺に詣で遍昭を訪ね、一夜の宿を乞うて詠んだロマンな歌が残されている。
後撰和歌集巻十七に
石上といふ寺に詣でて日の暮れにければ夜あけて罷り帰らむとち、とどまりて、この寺に遍昭侍りと、人に告げ侍りければ、物いひ心みむとていで侍りける。
  小町  いそのかみ旅寝をすればいと寒し 苔の衣をわれに借さなむ
  遍昭  世をそむく苔の衣はただ一重 かさねばうとしいざふたりねむ   」

遍昭は百人一首の
      天つ風雲の通い路吹きとじよ 乙女の姿しばしとどめん
の歌で親しまれ、「通小町」の深草少将のモデルとも云われるとのこと。

石上神宮付近絵図 石上神宮並びに良因寺絵図 石上神宮近く (平8.9)

人丸神社・人丸塚  京都市

京都では下京区に人丸神社があり、もと俊成邸(俊成神社)にあったものを、今の住吉神社境内に移したと云われる。中京区の壬生寺にも人丸塚があるが、景清の娘の人丸の塚とも云われる。仙洞御所にも人丸を祀る小社があることは京都御所の項で述べた。

人丸神社京都 人丸神社 京都市下京区醒が井通 住吉神社内 (平8.4)

人丸塚京都 人丸塚  京都市中京区壬生梛ノ宮町 (平7.9)

柿本神社 明石市

明石市の人丸山にも柿本神社があり、人麿を祭神として祀る。境内には人麿にちなんだ筆柿、盲杖桜、歌碑などがある。
拝殿西の玉垣内にある筆柿は、人麿が石見の国から都に上った時、自分の園の筆柿の実を持参し「敷島の道とともに栄えよ」と植えたものと云い伝え、妊娠した婦人がその実を懐中に入れると難産の憂いはなくなると伝えられている。
盲杖桜は拝殿東にあり、昔筑紫の国から盲の人がはるばるこの神社に詣で
   ほのぼのとまこと明石の神なれば 我にも見せよ人丸の塚
と詠むと、二つの目がたちまち開いたので、今まで頼みにしていた杖を広場に挿しておいたところ、根がついて今に数代目が栄えている。

柿本神社 柿本神社 明石市人丸山 (平8.9)

筆柿 筆柿 明石市 柿本神社 (平8.9)

盲杖桜 盲杖桜 明石市 柿本神社 (平8.9)

境内にはまた人麿の歌碑があり、尾上芝舟の筆で
   あまさかるひなのながぢゆ恋ひくれは 明石の門よりやまとしまみゆ
と万葉集所載の歌が刻まれている。その意味は「西から東へ向かって帰って来る時の趣で、一首の意は、遠い西の方から長い海路を来、家郷恋しく思いつづけて来たのであったが、明石の海門まで来ると、もう向うに大和が見えるというものである。」(斉藤茂吉著「万葉秀歌」による)
柿本神社に隣接する月照寺は、ここの覚証上人が人麿を尊敬して塚を作り弔ったのが起源といわれる。

歌碑柿本神社 人麿歌碑(明石) 明石市 柿本神社 (平8.9)

月照寺 月照寺 明石市人丸山 (平8.9)

粧太夫書の人麿歌碑   東京都台東区 浅草神社

浅草の観音様の近くに浅草神社があるが、石鳥居の右手の句碑群の中に人麿の歌碑がある。
    ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島がくれゆく舟をしぞ思ふ
この歌は本曲にも引用されているが、万葉集ではなく、古今集(409)に収録されているものである。
碑面にはこの短歌を万葉仮名で書いて刻み、「蕋雲女史文鴦書」とある。蕋雲女史とは文化年間(1804〜17)の吉原の遊女で、粧太夫という名妓、書を中井敬義に学び和歌もたしなんだ。この歌碑は人麿を慕う粧太夫が人麿社に献納したもの。人麿社は三社権現の裏手にあったが、昭和29年、現在の地に移されたという。

浅草神社 浅草神社 台東区浅草 (平3.1)

よそおい太夫歌碑 装太夫書の人麿歌碑(浅草神社) 台東区浅草 (平3.1)

人丸神社 栃木県佐野市

栃木県の佐野市に人丸神社がある。祭神は柿本人麿、人麿を描いた掛軸が奉納されているとのこと。人麿が詠んだ歌として次の歌が記されていた。
   下野の安蘇野の原の朝あけに もやかけわたるつづら草かな
この人丸神社を探している最中に、この神社からそれ程離れていない所に同じく「人丸神社」と書かれた、無人の荒れはてた神社があったのでカメラに収めてきた。説明板もなく人に聞くことも出来なかったので詳細は不明であるが、やはり人麿と関係のありそうな気がする。

人丸神社佐野1 人丸神社 佐野市小中町 (平5.7)

人丸神社佐野2 人丸神社 佐野市 (平5.7)

八幡人丸神社、人麿歌碑  山口県油谷町

山口県長門市に近い油谷町に八幡人丸神社がある。神社の由緒によれば人麿が在世中、石見の国から九州への途次、この地の風光を愛でて次の歌を詠んだという。
   むかつくの奥の入江のさざなみに 海苔かく海女の袖はぬれつつ
神社の境内にはこの歌碑も建てられている。

八幡人丸神社 八幡人丸神社 山口県油谷町 (平15.10)

八幡歌碑 人麿歌碑 八幡人丸神社 (平15.10)

猿丸大夫関係謡蹟        (平16・2記)

猿丸太夫は芦屋市の人と云われ、芦屋市には立派な猿丸家墓所や、芦屋神社の境内には猿丸太夫の五輪塔がある由であるが、また訪ねていない。

猿丸神社  金沢市

金沢市笠舞にある猿丸神社は猿丸太夫の住居址とも伝えられる。

猿丸神社 猿丸神社 金沢市 (平2.10)

小野観音堂 福島県

会津の下郷町小野の小高い丘に小野観音堂があり、猿丸大夫隠棲の跡という。

小野観音堂 小野観音堂 福島県下郷町小野 (平12.4)

古今和歌集「仮名序」抜粋     (平9・3記)

古今和歌集の「仮名序」には謡曲に登場する数々の文言や、歌人について寸評が記載されている。私には意味不明のものもあるが、興味をひかれたものを抜粋してみる。

「あらがねの地(つち)にしては、すさのをの命よりぞおこりける。ちはやぶる神世には、歌の文字も定まらず、すなほにして、言の心わきがたかりけらし。」
「人の世となりて、すさのをの命よりぞ、三十文字あまり一文字はよみける。」
「女郎花の一時(ひととき)をくねるにも、歌をいひてぞなぐさめける。」
「かの御時に、正三位柿本人麿なむ、歌の聖(ひじり)なりける。」
「又、山の辺の赤人といふ人ありけり。歌にあやしく妙なりけり。人丸は赤人が上に立たむ事かたく、赤人は人麿が下に立たむ事かたくなむありける。」

「僧正遍正は、歌のさまは得たれども誠すくなし。たとへば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすごとし。名にめでて折れるがかりぞをみなへし、我おちにきと人に語るな。」
「在原業平は、その心あまりて言葉たらず。しぼめる花の、色なくてにほひ残れるがごとし。月やあらぬ春や昔の春ならぬ、我が身一つはもとの身にして。」
「宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。いはば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。わが庵は都のたつみしかぞ住む、世を宇治山と人はいふなり」
「小野小町は、いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からず。言はば、よき女の悩めるところあるに似たり。わびぬれば身をうき草の根を絶えて、誘ふ水あらばいなんとぞ思ふ。衣通姫の歌、わがせこが来べきよひなりささがにの、くものふるまひかねてしるしも。」
「大伴黒主は、そのさまいやし。いはば、薪負へる山人の、花のかげに休めるがごとし。思ひいでて恋しき時は初雁の、なきてわたると人は知らずや。」
「紀貫之、河内躬恒、壬生忠岑らに仰せられて、万葉集に入らぬ古き歌、自らのをもたてまつらしめたまひてなん。・・名づけて「古今集」といふ。」


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