熊野御前の墓

謡蹟めぐり  熊野 ゆや

ストーリー

平の宗盛の寵愛する遊女の熊野は、遠江国池田宿に残してある老母の病気が気にかかっていますが、そんな折、池田宿から侍女の朝顔が母の手紙を持って熊野を迎えに来ます。かねてから母を見舞いたくてたまらない熊野は宗盛に暇乞いに行きますが、宗盛は願いも聞き入れず、熊野に花見の供を命じます。
母を案じる熊野を乗せた牛車は、のどかな春景色の都大路を通って清水寺に着きます。やがて花の下で酒宴となり、熊野は宗盛の所望で舞をまいますが、舞の途中でにわかに村雨が降り、花を散らします。熊野は舞をやめ、「いかにせん都の春も惜しけれど馴れし東の花や散るらん」と一首の歌を詠み、短冊にしたためて宗盛に差し出します。宗盛は歌を読んでさすがに熊野の心を哀れと思い、暇をとらせます。熊野は喜び、これも観世音のおかげと感謝しつつ故郷へと急ぎ帰ります。(「宝生の能」平11.3月号より)

「清水寺」までの道行き    (平11・12記)

平宗盛の邸は、青木実著「謡蹟めぐり」によると、現在の八条高倉、京都駅新幹線ホーム東寄りの外れあたりという。熊野は母の病気が心配で暇を願いでるが、宗盛はこれを許さない。心ならずも牛飼車に乗り、清水寺に花見に向かう。

《地「四条五条の橋の上、老若男女貴賤都鄙、色めく花衣袖を連ねて行末の・・」》

四条大橋、五条大橋は現在も老若男女で賑わっているが、往時も同様だったようである。五条大橋は現在の松原橋の所にかかっていたそうで、京都駅あたりから出発すると河原町通を通り、この松原橋(五条大橋)を渡ると清水寺には一直線である。

松原橋 松原橋 京都市下京区・東山区 (平7.9)

《地「河原おもてを過ぎ行けば、急ぐ心の程もなく、車大路や六波羅の地蔵堂よとふし拝む」 シテ「観音も同座あり、闡提救世の、方便あらたにたらちねを守り給へや」》

河原おもては鴨川東岸の河原、車大路は現在の大和大路通という。六波羅の地蔵堂は六波羅蜜寺のことであろう。この寺は空也上人の創建になる古刹で、本尊の十一面観音とともに、地蔵菩薩が祀られている。六波羅蜜寺の境内には、本曲と直接の関係はないが、「清盛供養塔」や、平景清の寵愛を受けた遊女の「阿古屋塚」がある。

六波羅蜜寺 六波羅蜜寺 京都市東山区轆轤町 (平7.9)

《地「げにや守りの末すぐに、頼む命は白玉の、愛宕の寺も打ち過ぎぬ、六道の辻とかや」 シテ「げに恐ろしや此道は、冥途に通ふなるものを、心ぼそ鳥部山」》

愛宕の寺は愛宕念仏寺のことで昔はここにあったが、大正年間嵯峨野鳥居本に移転した。本堂周辺に参詣者自らノミを振るった1200体もの羅漢が並ぶことで知られる。跡地は、松原通、大和大路近くのあたりで、松原警察署東方に「愛宕念仏寺旧蹟」の碑が建っている由。
六道珍皇寺の門前は俗に「六道の辻」と呼ばれる。六道とは、一切の衆生が生前の善悪の業因によって必ずおもむくとされる地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六種の冥界のことである。寺の境内には「六道の辻」と大きく書かれた石碑が建っており、また小野篁が冥途通いをしたという井戸もある。
六道の辻はこの寺の近くにある西福寺境内ともいわれ、弘法大師御作と伝える「子育地蔵尊」が祀られている。
鳥部山は西大谷東側から清水寺への途中の丘陵で、平安時代、風葬や火葬の地として知られ、現在も鳥辺野墓地となっている。

六道珍皇寺 六道珍皇寺 京都市東山区小松町(平7.9)

六道の辻 六道の辻碑 六道珍皇寺 (平7.9)

西福寺 西福寺と六道の辻標柱 京都市東山区轆轤町 (平7.9)

《地「煙の末も薄霞む、声も旅雁の横たはる」 シテ「北斗の星の曇りなき」地「御法の花も開くなる」 シテ「経書堂はこれかとよ」》

北斗の星云々は、劉元叔の詩「北斗星前横旅雁、南楼月下擣寒衣」(北斗 星前 旅雁横たい、南楼 月下 寒衣を擣つ」によっているが、北斗堂という寺もあったらしいという。
経書堂は清水坂を登った左側にある。聖徳太子の草創といわれ、一字一石経(小石に経文を一字ずつ書く)をおさめたところから、「経書堂」と呼ばれるようになったという。

経書堂 経書堂 京都市東山区清水 (平7.9)

《地「其足乳根を尋ぬなる子安の塔を過ぎ行けば」 シテ「春の隙行く駒の道」 地「はや程もなくこれぞこの」 シテ「車宿り」 地「馬留め、ここより花車、おりゐの衣はりまがた飾磨のかち路清水の、仏の御前に、念誦して母の祈誓を申さん」》

子安の塔は現在、清水寺の舞台の正面に建っているが、元は楼門の前にあって、坂上田村麿の娘が、葛井親王の生誕に当って建立したと伝える。
車宿りははっきりしないが、馬留めは楼門の北にあり、下馬した馬の繋留場で今も昔の形に残されている。
飾磨のかち路は鹿間塚のことで、鐘楼付近の樹木の茂ったあたりをいう。
熊野は牛車からおりて、清水寺の仏前に額ずくのである。

子安の塔 子安の塔 清水寺 (平7.9)

馬留め 馬留め 清水寺 (平7.9)

清水寺 清水寺  京都市東山区清水 (平7.9)

清水寺地図 清水寺附近の地図 京都市

熊野御前の墓 静岡県豊田町 行興寺   (平11・12記)

熊野の故郷は静岡県豊田町池田で、行興寺が熊野の住居跡と伝える。熊野は都から帰ってからも再び上京せず、母の病没の後は尼となってここに住み、33歳で他界したという。小さな堂が建てられ、熊野御前の廟として、中に熊野、母、朝顔の墓という三基の五輪塔が納められている。境内のフジは「熊野の長フジ」と呼ばれ天然記念物に指定されているが、その昔熊野御前が植えたとのこと。

行興寺 行興寺 静岡県豊田村 (平4.5)

熊野御前の墓 熊野御前の廟 行興寺 (平4.5)

平宗盛終焉の地 滋賀県野洲町  (平11・12記)

ワキの宗盛は壇ノ浦で捕われ、義経に護送されて鎌倉に下ったが、腰越で義経が阻まれ再び都に上る途中、琵琶湖畔の篠原で断罪に処された。篠原の国道沿いに宗盛の胴塚があり、「平宗盛終焉之地」の碑が建っている。
広島県宮島の厳島神社の裏山、弥山山頂に宗盛寄進の鐘があると聞いて、本年頂上まで登ってみたが、残念ながら見付けることが出来なかった。

平宗盛終焉之地碑 平宗盛の胴塚(終焉之地碑) 滋賀県野洲町 (平6.9)


−ニュース−

曲目一覧

サイトMENU

Copyright (C) 謡蹟めぐり All Rights Reserved.