安宅住吉神社

謡蹟めぐり  安宅 あたか

ストーリー

源義経が兄頼朝から追われる身となり、弁慶以下主従十二人と山伏の姿に変装して都を落ち、奥州へ下ろうとしています。頼朝は直ちに国々に新関を設けて、山伏を堅く取り調べよと命じました。
加賀の国安宅の新関を富樫の左衛門に守らせている所に義経の一行はさしかかり、関の固めが厳しいので弁慶は義経を強力(ごうりき)に仕立て、南都東大寺の勧進山伏だと偽り、持ちあわせの経巻を勧進帳と偽って読み上げるなどしてその場を遁れようとします。一度は通過を許されますが、義経扮する強力を怪しみ咎められたので、弁慶は機転を利かせ、首尾よくその場を遁れることが出来ました。
危機を脱した一行が一息ついている所に、先刻の関守が追って来て、非礼を詫びて酒を勧めるので、弁慶は杯を受けて舞を舞ってみせましたが、心許すなとばかり、虎口を遁れ行く思いで陸奥の国へと道を急ぎます。(「宝生の能」平成9年5月号より)

安宅の関趾   (平3・3記)

昨年10月、学校のクラス会が金沢で開催されたので、帰途、北陸の謡蹟めぐりをしてきた。「安宅の関」関係を記してみる。

安宅の関址  (石川県小松市安宅町)

安宅関係謡蹟の中心である。日本海がすぐ目の前に見える美しい松林の中にある。さまざまの碑が並んでいるが、先ず「安宅の由来」を語っていただこう。

『           安宅由来記
安宅は元、冦ケ浦と称し、異国来襲頻々たりし地と伝へられる。住吉神社は神威に依り冦賊を防禦し、且つ航海安全を守護し給わんことを祈つて勧請せるものなり。
陸路の要衝たりし事も広く諸書に見る処にして、延喜式の安宅駅を載せたる八雲御抄に安宅の橋見元、源平盛衰記に安宅域ある等皆取って以て証とすべし。就中最も著名にして童子もよく知れるは安宅の関なりとす。
平氏西海に沈んで後、頼朝、義経漸次隙あり、加ふるに之を離間するものありて、一代の英雄忽ちに落莫の落人となり、文治三年、如月寒風凛烈、松下怒涛躍るこの岸に、地頭富樫の尋問に遭う。弁慶の智、富樫の仁、織りなすは千古の芳事、国民伝説の最も優なるもの、謡曲に歌舞伎に涙を誘うものとなる。
徳川時代より妄説生じて海中にありとなすは誤れり。吾人のなせし詳細なる研究は海中説を悉く否定し、断じてこの二堂山一帯の地域に有りしと言うに帰着す。
杖を曳くの士、歩を停めて顧望せよ。一木一草松籟涛声と相応じて古き遥けき 然も美わしき夢を語らざるはなからむ。
   安宅関趾保存会   』

松林の中に「安宅関址」の碑がある。

(追記 平成12・5記)
平成10年の教授嘱託会の名所めぐりは北陸路を廻ったが、大谷理事長の発案でこの安宅の関址で、参加者一同で「勧進帳」を謡うこととなった。90名の参加者が俄か弁慶となって、天にとどけとばかり高らかに「勧進帳」を謡い上げたのだから、泉下の富樫もさぞびっくりしたに違いない。その時の一句。
     君聞けや関址に集う九十名 勧進帳の高らかな声

安宅関跡碑 安宅関址の碑  美しい日本海のそば松林の中にある. 小松市安宅町 (平2.10)

勧進帳奉謡 90名の「勧進帳」大合唱. 安宅の関址 (平10.5)

この他にも「弁慶富樫問答の像」の碑、「智仁勇」の碑などさまざまの碑が並んでいる。「智仁勇」の智とは弁慶の智恵、仁とは富樫の情、勇とは義経の勇気の由である。ここにも「富樫、弁慶像の由来」を書いた説明がある。

『           富樫、弁慶像の由来
源平壇の浦の合戦で平家を西海に沈めその殲滅に大功のあった源義経は生来の猜疑心からこれを退けようとする時の征夷大将軍兄頼朝に追われ、奥州平泉へ落ちのびようとした。
頼朝はこれを捕えようと各地に新関を設けたが、当安宅の関には富樫左衛門尉泰家を関守に任じ厳重警戒に当らせていたところ、文治三年三月の頃、山伏姿に身を変えた義経弁慶以下主従十二人が通りかかった。一行の山伏姿関守富樫に疑われ、東大寺復興勧進のため諸国を廻る役僧と称し勧進帳(寄付帳)の空読を行なった弁慶の機知、さらに強力(荷役人夫)姿に身を変えた義経が咎められるや疑念をはらすため金剛杖をもって主義経を打ち据えるに至り、富樫は弁慶の忠誠心にうたれ主従の通行を許すに至る。
物語は弁慶の智、富樫の仁、義経の忍勇が混然と一体に融合した美談として歌舞伎「勧進帳」として演ぜられ、後世国民の鑑として広く世に知られているものである。当時の関所跡である当所にその銅像を建立し、当時の面影をしのぶべく歌舞伎十八番「勧進帳」終幕の段で通行を許され喜び勇んで六法を踏み退場しようとする弁慶とこれを見送る富樫の場を、二代目市川左団次(富樫)、七代目松本幸四郎(弁慶)をモデルに、元日展審査員、都賀田勇馬氏の手により制作されたものである。
    嗚呼住の江の行き逢ふは  私心離れた三つの大霊(たま)
    智、仁、忍勇の鑑(かがみ)とて 永遠(とは)に輝く国の礎(いしずえ)
               財団法人 安宅観光協会  』

弁慶富樫義経像 弁慶富樫義経の像 歌舞伎の場面からとったという。当初は弁慶と富樫だけであったが、義経像は平成7年新たに義経も加えられた 小松市安宅町 (平9.6)

知仁勇の碑 智、仁、勇の碑 弁慶の智恵、富樫の情、義経の勇気を示す 小松市安宅町(平2.10)

義経像 義経像 この像も比較的新しい. 小松市安宅町 (平9.6

関の宮 関之宮 向って右に義経、左は富樫を祀る. 小松市安宅町 (平9.6)

安宅住吉神社  (石川県小松市安宅町)

安宅の関跡の近くというよりこの安宅住吉神社の境内に安宅の関跡があると言ったほうが正確かも知れない。この神社に弁慶勧進帳の像がある。
像の傍には勧進帳の文句が書かれている。謡曲をやっている方にはおなじみの文句であるが、参考までに掲げてみよう。

 『   それつらつら惟んみれば    大恩教主の秋の月は 涅槃の
     雲に隠れ生死長夜の      長き夢驚かすべき人もなし
     ここに中頃帝おはします    おん名をば聖武皇帝と名付
     け奉り最愛の夫人に別れ    慕止み難く涕泣眼にあらく
     涙玉を貫く          思を善途に飜して
     盧舎那仏を建立す       かほどの霊場の絶えなんこ
     とを悲しみて俊乗坊重源    諸国を勧進す
     一紙半銭の奉財の輩は     この世にては無比の楽に誇り
     当来にては数千蓮華の上に座せん
     帰命稽首敬って白す
           加賀ノ国安 宅関鎮座
                     安宅住吉神社    』

安宅住吉神社 安宅住吉神社 神社の一帯が関所跡. 小松市安宅町 (平9.6)

弁慶勧進帳の像 弁慶勧進帳の像 勧進帳を空読みしているところ. 安宅住吉神社 (平2.10)

義経の北国落ち (平12・5記)

京都から平泉に向った経路にはいろいろな伝説があるが、北陸を通過する道筋の古蹟を訪ねることとする。
曲中に謡うごとく義経一行は「二月(きさらぎ)の十日の夜月の都を立て出でて」逢坂山、琵琶湖、海津の浦、有乳(あらち)山、気比の海、気比神宮、木の目山、杣山(そまやま)、板取、麻生津、三国湊、篠原を経て安宅に着いた。
謡曲では主従十二名の作り山伏となっているが、「義経記」では奥方も同道したことになっており、また安宅の関のことには触れていない。その他同道した尼が身を投げたという話もあり、首尾一貫しないが一行が辿ったと思われる道筋に点在する史跡を掲げてみる。

京都から今津浦へ

一行は逢坂の関(写真「蝉丸」参照)を経て琵琶湖畔の大津に出る。
大津の宿では宿の妻君が判官一行と見破って城まで注進して恩賞を得ようとしたが、その主人、大津次郎の機転で危うく難を逃れ、船を用意してもらい大津の浦を漕ぎだすことが出来た。第一の難関である。
一行の船は琵琶湖の北端マキノ町の海津の浦に上陸する。当時海津の浦は琵琶湖から敦賀に抜ける交通の要衝であった。現在でもこのあたりを源氏の浜といい、義経隠れ岩がある。一行は敵に知られないようこの岩蔭に隠れていたという。現在は琵琶湖国定公園「海津大崎湖岸園地」として整備され、その桜並木は「日本のさくら名所百選」に選ばれる桜の名所となっている。
隣接する今津町北仰には白米塚がある。義経一行に同情した村人はめいめいに白米や野菜を持ち寄り振る舞った。翌朝村を去る時感動した一行は自らの太刀を感謝のしるしに村人たちに与え立ち去ったという。村人たちは残された白米と太刀を埋め土を盛って塚を築きその上に石を建てて白米塚と呼んだという。

海津の浦 海津の浦 一行はここに上陸した. 滋賀県マキノ町海津 (平10.4)

義経隠れ岩 義経隠れ岩 このあたりを源氏浜という. 滋賀県マキノ町海津  (平10.4)

白米塚 白米塚 残りの白米と太刀を埋めたと伝える. 滋賀県今津町北仰 (平10.4)

有乳(あらち)山から気比の海

曲中に謡われる有乳山は愛発(あらち)山で、現在の敦賀市疋田、北陸本線深坂トンネルの敦賀側出口のあたりに愛発の関址がある由である。この愛発の関でも一行は見咎められた。殺してしまえと騒ぐ関守もいたが、もし判官でない山伏を殺したらあとで大事になるとの配慮も働き、関所の通行料を払えと云ってみようではないか。本当の羽黒山伏なら、昔から払わなくてもよい取り決めになっているから、払わないだろう。判官なら払ってあわてて通るに違いない・・ということになった。
弁慶は相手方のたくらみを察した。「異なことをお聞きする。いつから羽黒山伏が通行料を払うように、定めをかえられたかな。いままで払ったことは一度もありませぬぞ」
この返事によって、一時関所の仮屋に留め置かれ、稚児姿の奥方についても不審を抱かれたが、まことしやかな弁舌で疑いを晴らし関所を出ることが出来た。
この日は敦賀の港に出て気比神宮に祈願した。安宅の曲にも「気比の海宮居久しき神垣や」とある。越前一の宮で朱塗りの神殿が美しい。ほんとうは敦賀で船に乗り、出羽の国に向う考えであったが、日本海に二月の強い風で荒れ、遂に船には乗れなかった。

気比神宮 気比神宮 一行はここで旅の安全を祈願した. 敦賀市曙町 (昭63.9)

敦賀から平泉寺へ

船を断念せざるを得なかった一行は敦賀で一夜を明かして、陸路木芽峠、杣山、板取を経て越前の国府の武生に三日間滞在の後、この国で名の知られた平泉寺(現在の勝山市)を参拝することとなり、観音堂にたどりついた。
平泉寺でも稚児姿の奥方が咎められ、弁慶が応対するのだが、稚児はまことに優秀だそうだが、学問のことを聞かれ、「素質は羽黒一、顔形の美しさでも延暦寺、三井寺にも絶対おりません。学問だけではありません。横笛は日本一でしょう」と答えてしまった。それでは「横笛を吹いてもらおう」ということになったが、奥方は琴は出来るが笛は全然出来ない。
弁慶の機転で「この稚児は羽黒で笛に夢中で学問がおろそかになるので、今度の旅は往復とも笛は吹かないと師のご坊に誓いをさせられました。ここに大和坊(義経の山伏名)という山伏がいます。実は稚児も常にこの笛の名手大和坊から習っています。代りにこの者に吹かせて下さい」と申し出で、琵琶と笙の笛は寺の稚児、笛は義経、琴は奥方という組み合わせで奏楽が行われた。その結果は合戦変じて酒宴となり、鰐の口を逃れる思いで平泉寺を出発した。

平泉寺から安宅へ

「義経記」では一行は菅生の宮を拝み、金津(福井県金津町)を経て篠原に一泊する。篠原は斉藤別当実盛が討たれた所である。しかし謡本に出てくる三国湊(福井県三国町)はこの間にあり、また、尼御前岬も石川県に入ったばかりの加賀市にある。
尼御前岬は義経についてきた尼がここで身を投げたと云われる所である。史実は明らかでないが、平成9年に建てられた尼御前像の説明には次のように記されている。
「その昔、源義経主従が都から逃れて陸奥の国へ向かう途中、この地まで来ましたが従者の中にいた一人の尼が、この先の(歌舞伎「勧進帳」で有名な)安宅の関の取り締まりが厳しいことを聞き及び、主君の足手まといになることを憂えて深く意を決し、主君の無事を祈ってこの岩頭から身を投じました。この尼の名が尼御前といい、それ以来いつしかこの岬を尼御前岬と呼ぶようになったということです」

尼御前岬 尼御前岬 義経に従ってきた一人の尼がここから身を投げたという.  加賀市美岬町  (平2.10)

尼御前像 尼御前像 平成9年に建てられた. 尼御前岬 (平10.5)

安宅の関に近いJRの小松駅にも、弁慶と富樫の像が建てられている。
安宅の関で虎口を逃れた義経一行は先ず梯川対岸の勝樂寺に立ち寄り、関飯(赤飯)をご馳走になり、弁慶はお礼に法螺貝を贈ったという。

弁慶富樫像小松駅前 弁慶・富樫の像  安宅の関と同じような像が立つ. 小松駅前 (平2.10)

勝楽寺 勝樂寺 一行はここで赤飯の馳走を受ける. 小松市安宅町 (平9.6)

安宅から白山へ

一行はここから白山を拝むため鶴来に向う。岩本の十一面観音で通夜をしたという岩本観音は岩本の岩根神社というが、辰口町の岩本あたりで探してみたがわからなかった。
鶴来町の金剱宮には義経腰掛石が保存されている。その説明には「義経記巻七に、明くれば白山み参りて、女體后の宮(白山比盗_社)を拝み奉らせて、其日は剱の権現の御前に参り給ひて御通夜ありて、終夜御神楽参らせて、とあり後鳥羽天皇文治二年のことであった」と記されている。
白山比盗_社の宝物館にも義経が参詣したことが記されている。

金剣宮 金剱宮 義経一行がここで通夜をした. 石川県鶴来町 (平9.6)

義経腰掛け石 義経腰掛石 金剱宮境内 石川県鶴来町 (平9.6)

白山比盗_社 白山比盗_社 義経一行がここに参詣した. 石川県鶴来町 (平9.6)

白山から大野湊(金沢)へ

白山を後にした一行は金沢の大野湊に向うのであるが、金沢近辺にも鳴和の滝や富樫関係の謡蹟が多くある。
金沢市に鳴和町というのが現存していてここの鹿島神社境内に鳴和の滝がある。細い二条の滝が流れ落ちているが、想像していたほど立派なものではない。
碑には、
「  鳴和の滝   鳴るは滝の水 日は照るとも絶えずとうたり
謡曲「安宅」に依る源義経弁慶一行、しばしの憩をもとめ、酒宴をはかり、談議せし場所である。」 と記されている。
鳴和町の隣に、山の上町という町があって、ここの小坂神社にも鳴和の瀧と称する瀧がある。細い一条の瀧が樋の先から流れ落ちているが、滝とは言えないようだ。
神社の案内には
「 源義経が奥州下行の時ここで武蔵坊弁慶が「鳴るは瀧の水」の舞曲を奏した 」
と記している。また、謡曲の会が奉謡した額が沢山掲げられているのを見て、謡曲に関係ある神社であることを実感した。

鳴和の瀧 鳴和の滝 二条の細い水が落ちるのみ. 金沢市鳴和町 鹿島神社 (平2.10)

小坂神社奉謡 小坂神社 奉謡額の一例. 金沢市山の上町 (平2.10)

北陸鉄道の「工大前」駅前の踏切のすぐ側に立派な富樫館跡の碑がある。金沢市はすぐ隣りだが、安宅の関まではかなり距離がある。ここから通勤していたのかななどくだらぬことを考える。
また、この碑の近くの布市神社は富樫郷住吉神社とも呼ばれ富樫を祀る。境内には力石と称する石が安置されているが、伝承によると、義経潜行の折、弁慶を富樫の館に遣わした際、弁慶は大石を鞠のように扱い投げつけたという。その石が落ちたおころ(現在の若松町地内)を「チカライシ」と呼ぶようになったという。照日八幡神社にあったものを大正3年ここに移したといいう。

富樫館跡碑 富樫館跡  富樫の人徳が偲ばれる立派な碑.  石川県野々市町  (平2.10)

布市神社 布市神社 別名を富樫郷住吉神社ともいう.  石川県野々市町  (平9.6)

力石 力石 弁慶が鞠のように投げたという. 布市神社境内 (平9.6)

金沢市寺中にある大野湊神社は一行が佐渡に向け出帆した所といわれ、境内には義経一夜泊の宮桜がある。桜の杖を挿したのが根付いたものという。

義経一夜泊りの桜 義経一夜泊の宮桜 この地から佐渡に向け出帆する. 大野湊神社 (平9.6)

大野湊から能登、越中、越後へ

大野湊から佐渡に向けて出帆したが、暴風で能登半島の北端珠洲に漂着する。この珠洲の須々神社高座宮、曽々木海岸の義経船隠し、関野海岸の関野鼻、能登金剛の巌門等能登半島全体にわたって一行に関する史跡が数多くあるようだが、まだ私は訪ねていないので省略させていただき、富山県の義経雨晴岩のみを掲げることとする。
富山県高岡市の北、日本海に沿った美しい海岸に義経雨晴岩がある。源義経が奥州下りの際、ここを通りかかった時、にわか雨にあい、この岩の下に家来ともども雨宿りをしたというところ。このあたり一帯の白砂の海岸の眺望は素晴らしい。

義経雨晴岩 義経雨晴岩 にわか雨にあいここで雨宿りした 富山県高岡市雨晴 (平2.10)

義経記では大野湊から陸路倶利伽羅山を経て如意の渡に向っている。そしてこの如意の渡で謡曲「安宅」と同じようなことが起こるのである。詳細は省略するが、船で渡ろうとする時、渡守の平権守に咎められ義経を打擲して難を逃れるのである。
現在渡しも残っており、近くに弁慶、義経を打擲する像がある。またかなり離れた丘に如意渡趾の立派な碑が建っている。
謡曲や歌舞伎の「安宅」や「勧進帳」は ・愛発の関のこと、・平泉寺のこと、・如意の渡のこと、・後述する直江津での笈探しのことを一つにまとめて「安宅・勧進帳」に構成したものと云われている。

如意の渡義経弁慶 弁慶、義経を打擲する像 安宅の本家はここであるという. 高岡市古国府 (平10.5)

如意の渡義経弁慶 如意渡趾碑 渡しより少し離れた丘に建つ, 高岡市古国府 (平10.5)

如意の渡を渡った一行は岩瀬(富山市)に泊まり、翌日から黒部、親不知を経て直江津に着く。親不知海岸沖に弁慶投げ石と呼ばれる岩がある。

弁慶投げ石 弁慶投げ石  夫婦岩ともいわれる 親不知海岸 新潟県青海町 (平6.10)

直江津では海辺一帯を取締まるろう権守の取調べにあい、笈の中を改めると云われた。笈の中からは33枚もの櫛や女物の帯や袴が引き出された。これはなんとか言い逃れたが、もう一個の笈には兜やまさかり等の武具が入っている。開けようとする権守に弁慶は「その笈の中には御神体が入っている。くれぐれも罰にあたらぬようおあつかい下され」と警告、笈を持ち上げ揺すってみる権守に「不浄の手で笈を汚したことはたやすく許されぬ。なにをおいても清めていただきたい。それには白米と玄米各三石三斗、白布、紺の布各百反、黄金五十両・・が必要」と威嚇した。権守は陳弁つとめて清めの量を減らしてもらい、これを羽黒山に届ける約束をして許してもらった。
義経一行は間もなくゆうゆうとここを出発することができた。

一行は直江津から船に乗り、佐渡までも流されたがようやく寺泊に着いた。そこから国上山、蒲原、岩船、瀬波などを通って出羽の国へ向かった。

念珠の関から平泉へ

越後の国から出羽の国に入るとすぐ念珠(ねず)の関(山形県温海町)がある。ここも厳しい関であるが、安宅の関と同じ要領でなんとか通過することができた。
ここを越えると頼朝の威令はもはやとどかない。しかし出羽の国も藤原秀衡の領分というだけで、その命令がすみずみまで行き渡っている訳ではない。一行は慎重に旅を続けた。羽黒山の麓に着いた時はこの山の寺(出羽三山神社)に参籠の意志はあったが、義経の奥方がお産の月に入っていたので、おそれ多いとして、弁慶が代参で赴いた。

念珠の関跡 念珠の関跡  山形県鶴岡市温海町 (平16.6)

出羽三山神社 出羽三山神社 弁慶が代参した. 山形県羽黒町 (平4.10)

最上川は船で上った。途中白糸の滝というのもあり、猿の叫び声も聞こえたという。最上川の支流小国川を遡った一行は亀割り山で一夜を過した。ところがかねてより身重の北の方が急に産気づき、亀割山の子安観音で亀若丸を出産した。その若君の産湯を求め、弁慶が沢を下り瀬を渡って、紫雲立ち上る川辺に辿り着き、大岩を長刀で突き破るとふつふつとした熱い湯が噴き出したという。若君の産湯としたこの湯こそが瀬見温泉の始まりと伝えられる。一行はこの地に数日滞在し、北の方の回復を待って平泉に向かったという。
亀割子安観音は安産の神様として親しまれており、また、弁慶が笈を掛けたという弁慶笈掛けの桜も三代目が現存する。また義経大橋、弁慶大橋、義経通りと称する橋や通りも作られ、義経大橋には義経が笛を吹いている像や兜の像も配されている。

最上川 最上川 一行は舟でこの川を遡る (平12.6)

亀割子安観音 亀割子安観音 安産の神様 山形県最上町瀬見 (平12.6)

弁慶笈掛けの桜 弁慶笈掛けの桜(三代目) 最上町瀬見 (平12.6)

小国川と瀬見温泉 小国川と瀬見温泉 北の方はこの地で出産、弁慶は産湯を求めて瀬見温泉を発見する 山形県最上町瀬見 (平12.6)

弁慶大橋と亀割山 弁慶橋 右手の山が亀割山。橋のたもとに亀割子安観音がある 最上町瀬見 (平12.6)

義経大橋 義経像 橋の両側には義経や兜の像が配され、通りは義経通りと呼ばれている 最上町瀬見 (平12.6)

漸く宮城県に入ると鳴子温泉近くの尿前(しとまえ)の関址を通る。産後の疲れで病に倒れた奥方が尿を洩らしたのでこの地名がついたといわれる。
一行はようやく平泉に到着した。藤原秀衡は喜んで一行を迎え入れ、臣下の礼をとり、月見殿という特別の御殿に住まわせ、領地をあたえ、さらには衣川に新しい館を建てて迎えいれた。
義経主従は、急に地獄から極楽にきたようにしあわせであった。
しかし、これも秀衡が生きている間のことであって、やがて悲劇が近づいてくるのであるが、詳細は「錦戸」の項で述べることとする。

聖武天皇と俊乗坊  (平成18・11記)

曲中の「勧進帳」には「御名をば聖武皇帝と名づけ奉り、最愛の夫人に別れ恋慕やみ難く・・」とある。聖武天皇と皇后の御陵が奈良市奈良坂にある。
また勧進帳に「かほどの霊場の絶えなん事を悲しみて、俊乗坊重源、諸国を勧進す」とあるように、俊乗坊は東大寺再建に尽力した人である。東大寺には俊乗堂が建てられ、その墓もあるという。

聖武天皇皇后御陵 聖武天皇、皇后の御稜 奈良市奈良坂 (平13.3)

俊乗堂 俊乗堂 東大寺境内 奈良市 (平13.3)


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