比叡山根本中堂

謡蹟めぐり  来殿 らいでん

ストーリー

延暦寺の座主法性坊の僧正は、祈祷のために百座の護摩を修したが、その満参にあたる夜中に、何者か門をたたく者があった。不思議な思いで物の隙からこれをのぞいてみると、それは菅相丞の霊であった。座主はこれを招じ入れた。
相丞は没後において座主からねんごろな弔いをうけたことを感謝し、座主もまた相丞よりうけた旧恩を返報しがたいことなどのべている。相丞は言葉を改めて、自分が無実の罪によって果てたことは、ひとえに時平が讒奏したからである。思えば今も恨めしいといい、たちまち気色変り、本尊に手向けてあった柘榴をつかんで口に入れ、これを噛み砕いて妻戸に吐きかけ、柘榴は火焔となって扉は燃え上がる有様となったが、僧正は少しも騒がずに、酒水の印を結んだ。
すると相丞の霊はそのまま行方知れず姿を消して閉まった。この時あたりに音楽鳴りわたり、天神の神体出現して神と君との御恵みのありがたいことを祝い、幾千代までも国土の安全を寿いで曲を終る。(謡本より)

菅原道真とその古蹟      (平12・4記)

菅原道真に関連する曲は宝生流にも、この「来殿」のほかに「老松」「右近」があるが、まだ取り上げていないのでここにまとめて紹介することとする。

真公の生誕

道真公生誕の地と言われるところは沢山ある。
京都市烏丸通にある菅原院天満宮神社はその一つで、境内には管公御初湯の井もあり、ここに住んだという。

菅原天満宮 菅原院天満宮神社 京都市上京区 烏丸通下立売 (平5.9)

産湯の跡 管公御初湯の井の碑 菅原院天満宮 (平5.9)

下京区仏光寺にある菅大臣神社も生誕の地と言われ、境内には天満宮降誕之地の碑も建っている。道真の父は参議の是善、母は伴氏(ともうじ)で、北野天満宮境内に母を祀る伴氏社と伴氏廟がある。

菅大臣神社 管大臣神社 京都市下京区管大臣町 (平8.4)

降誕の地碑 天満宮降誕之地碑  管大臣神社 (平8.4)

伴氏廟 伴氏廟 北野天満宮 東向観音境内 京都市上京区 (平5.9)

遠く離れた島根県宍道町にある菅原天満宮も管公生誕地と言われ、父の是善が出雲国司の時この地の豪族狩野氏の娘と馴染みとなり管公を生んだ。この社の摂社梅木天神には管公生誕地の碑が立ち、社の裏には管公産湯の井もある。
管公が幼少の時祖父が梅の実に穴をあけ糸を通して玩具として差し上げたが、公が6歳のとき上京にあたり、前途を占うため此処にお手植えになった。毎年実る実は牛の鼻孔に似た穴が貫通しているので、鼻繰梅と呼ばれ何代目かの梅が育っている。

菅原天満宮島根 菅原天満宮 島根県宍道町 (平9.9)

梅木天神 梅木天神 島根県宍道町 (平9.9)

鼻繰梅 鼻繰梅(梅木天神) (平9.9)

生誕地碑梅木 菅公生誕地の碑(梅木天神)(平9.9)

産湯の井梅 産湯の井(梅木天神) (平9.9) 

左遷とその道中

藤原時平の讒言により、太宰府権帥(ごんのそつ)に左遷された時道真は57歳であった。太宰府華やかな昔と違い、当時の太宰府権帥は閑職でわずかな生活費を支給されるに過ぎず、衣食にもこと欠く流罪に等しい左遷であった。
わずか数人の士卒に護られ、男女の二児を伴って京都を出発する。管大臣神社の北にある紅梅殿神社(または北管大臣神社)があり、管公の父是善を祀るが、その頃の管公の邸址で、管公はここで
   東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ
の有名な歌を詠んだと伝えられる。

「老松」によると、配所で管公がこの歌を詠むと、この邸の紅梅が配所まで飛来したという。この梅は配所の榎寺にあったが、太宰府天満宮が造営された時ここに移されたといい、今も大勢の参詣客の目を楽しませている。
一方桜も同じ所にあったが、歌に詠まれなかったのを嘆き一夜のうちに枯れてしまったという。このことを聞いた管公が
   梅は飛び桜は枯るる世の中に 松ばかりこそつれなかりけれ
と詠むと、これに感じた松も一夜にして配所に生育したのが追松すなわち「老松」であるという。残念ながら先年枯死して今は跡方もない由である。

紅梅殿神社 紅梅殿神社 京都市下京区管大臣町(平8.4)

太宰府飛梅 飛梅 太宰府天満宮境内 太宰府市 (平11.11)

太宰府に向う西下の旅には多くの伝承古蹟があるようだが、訪ねた所のみを紹介する。

長岡京市の長岡天満宮は、ここに立ち寄り「わが魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しまれた縁故によって、公御自作の木像をお祀りしたのがその創立という。
大阪藤井市の道明寺天満宮はもと道明寺と一体で、道真の叔母覚寿尼が住持していたので、配流の時もここに泊ったという。
明石には管公の休んだ休天神がある。ここで管公が「駅長莫驚時変改 一栄一落是春秋」の詩を作ったことで知られ、管公駐駕駅長宅址の碑が立っている。

長岡天満宮 長岡天満宮 京都府長岡京市天神 (平7.9)

道明寺天満宮 道明寺天満宮 大阪府藤井市道明寺 (平10.9)

休天神社 休天神社 明石市大蔵天神町 (平8.9)

菅公駐駕 管公駐駕駅長宅址碑 休天神社 (平8.9)

海路難船した伝承もあり、四国の伊予沖では暴風のため今治市の桜井に漂着、村人が助けて、艫綱をたぐり円座にして休息させた。綱敷天満宮がその跡で、このとき濡れた衣冠を干した衣干岩が近くにある。
松山市の履脱天満宮は今治桜井の海岸に漂着した管公が陸路この地にきて、ここで履を脱いで休息された所とも、また都から九州へ急ぐよう督促の勅使を出迎えたとき過って左の履を落し、脱げた履をおいて出発した所とも伝える。

綱敷天神今治 綱敷天満宮 今治市桜井 (平6.9)

衣干岩 衣干岩 今治市桜井 (平6.9)

履脱天満宮 履脱天満宮 松山市久保田 (平6.9)

配所の管公

道真配流の地は太宰府で、住居は榎寺(榎社)の地であった。ここには管公館址の碑や、ここで作ったという「去年今夜侍清涼、秋思詩篇独断腸、恩師御衣今在茲、捧持毎日拝余香」の詩碑がある。

榎社 榎社 太宰府市南 (平11.11)

詩碑榎社 去年今夜の詩碑 榎社 (平11.11)

館跡碑榎社 管公館址碑 榎社 (平11.11)

また、道真の詩「都府楼纔看瓦色、観音寺只聴鐘声」にある都府楼の址はわずかに礎石が残るのみであるが、観音寺は観世音寺として残っており、境内には創建当時のものという観音寺の鐘がある。

都府楼跡 都府楼址 太宰府市観世音寺  (平11.11)

観世音寺 観世音寺 太宰府市観世音寺 (平11.11)

観世音寺梵鐘 観音寺の鐘 観世音寺 (平11.11)

筑紫野市の紫藤の滝は管公がここで身を浄め天拝山に登って天に無実を訴えたという。滝の傍らに管公衣掛けの岩があり、自分の姿を彫ったと言われる御自作天満宮がある。
天拝山には登れなかったが、天拝山公園があり
    清らけき身をば証さむ管公の 祈りはるけし天拝の山
と刻まれた歌碑が建っている。

衣掛けの岩 衣掛けの岩 筑紫野市 (平11.11)

紫藤の滝 紫藤の滝 筑紫野市 (平11.11)

御自作天満宮 御自作天満宮 筑紫野市 (平11.11)

天拝山公園 天拝山公園 筑紫野市 (平11.11)

死後の栄誉

配流後わずか2年、道真は59歳で波瀾の生涯を閉じた。
遺骸を運ぶべく出発したが今の太宰府天満宮のところで牛が動かなくなり、菅公の霊が都に帰るのを欲しないと判断されここに葬られた。

太宰府天満宮 太宰府天満宮 太宰府市 (平11.11)

道真の処罰は子にも及び、十二人の子女のうち四人の男子が諸所に配流となり、長男の高視朝臣は高知に流された。道真に最後まで仕えた白太夫、渡会春彦が道真の遺品を携えて高視の許に来たが、高視に会う前に白太夫は亡くなり、遺品だけが届いた。この遺品を祀ったのが、潮江八幡宮である。

潮江八幡宮 潮江八幡宮 高知市筆山町 (平9.4)

道真が流された時、隈麿と紅姫の二人の幼い子を伴っていた。「少男女を慰む」の漢詩には「不自由な暮しの中にも食べ物や住居にめぐまれていることは感謝せねばならぬ」と教えられている。男子の隈麿は流された翌年に病没した。道真は詩を作ってその死を悲しまれたという。隈麿の墓が南榎の寺の境内にあり、近くの路傍には紅姫の墓と伝えられる碑もあるという。

隈麿の墓 隈麿の墓 太宰府市南榎 (平11.11)

道真の死後都では異変が相次いだ。「来殿」も道真の怨念を現わした挿話である。比叡山延暦寺の僧正が登場するので、延暦寺の写真を掲げる。

比叡山根本中堂 延暦寺(比叡山) 根本中堂 滋賀県大津市坂本 (平10.4)

朝廷ではかっての左遷を破棄して元の右大臣に復位させ、さらに位階を進めて正一位太政大臣まで追贈した。
民間ではすでに管公を神に祀ることが始まっており、太宰府天満宮、北野天満宮(京都)、北野天満宮(福岡県)をはじめ、全国各地に道真を祀る天神、天満宮が建てられるに至った。
東京近くでも亀戸天神、湯島天神、鎌倉の荏柄天神などがある。

北野天満宮京都 北野天満宮 京都市上京区馬喰町 (平5.9)

北野天満宮福岡 北野天満宮 福岡県北野町 (平11.11)

湯島天神 湯島天神 東京都文京区湯島 (平6.11)

亀戸天神 亀戸天神 東京都江東区亀戸 (平7.9)

荏柄天神 荏柄天神 鎌倉市二階堂 (平6.12)


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