延喜帝の第四皇子、蝉丸の宮は生まれつきの盲目でした。父帝は宮の後世を救おうと、臣精貫に宮を逢坂山に捨て、僧形にするよう命じました。精貫は悲しみますが、蝉丸は、これは父の慈悲なのだと恨みません。精貫が去り、逢坂山に一人残ると、蝉丸もさすがに寂しく琵琶を抱いて泣き伏します。やがて博雅三位がやって来て、蝉丸を慰め、小屋を作りその中へ助け入れて帰って行きます。
一方、蝉丸の姉宮逆髪は、心が狂乱し、髪も逆立っています。彼女は御所をさまよい出て、いつしか逢坂山へとやって来ました。すると、近くの藁屋から気高い琵琶の音が聞こえます。弾いていたのは、なんと弟宮でした。姉弟は互いに手を取り合い身の不運を嘆き悲しみ、また慰め合います。やがて名残を惜しみつつも姉宮はいずこへともなく去って行き、弟は見えぬ目でいつまでも見送ります。(「宝生の能」平成12年12月号より)
本曲の舞台は逢坂山であり、逢坂山関址の近くである。関址の近くには蝉丸神社があり蝉丸を祀る。関蝉丸神社は蝉丸の侘住居の跡といわれ、境内には関の清水址や、百人一首でも名高い蝉丸の、
これやこのゆくもかえるも別れては
しるもしらぬもあふ坂の関
の歌碑がある。
逢坂山付近 大津市逢坂 (平3.4)
逢坂山関址の碑 大津市逢坂 (平3.4)
蝉丸神社 大津市大谷町 (平3.4)
関蝉丸神社 大津市逢坂 (平3.4)
関の清水址 関蝉丸神社 (平3.4)
逢坂山歌碑 関蝉丸神社 (平3.4)
曲中に「狂女なれど心は清滝川と知るべし」と謡われる清滝川は保津川の支流で高雄山麓、愛宕山麓を流れる清流である。
清滝川 京都市右京区嵯峨清滝 (平5.11)
この地の伝説によると、琵琶の名人蝉丸は諸国を流浪のはて、越前に来て宮崎村にたどりついた。蝉丸の美しい琵琶の音はこの静かな村の野や山に鳴りひびいた。やがて病気になり、村人に「私が死んだら七尾七谷のまん中に埋めてくれ」と遺言して死んだ。
その場所はこの村の陶の谷郷で、現在3基の五輪の塔が並んでおり、その中の一基が蝉丸の墓と伝えられている。墓の近くには真新しい逢坂山の歌碑も建てられている。
蝉丸の墓 福井県宮崎村陶の谷 (平2.10)
逢坂山の歌碑 宮崎村 (平2.10)
蝉丸の墓遠景 宮崎村 (平2.10)