大原の里

謡蹟めぐり  大原御幸1 おはらごこう

ストーリー

平家の一門が長門国早鞆の浦で全滅の際、建礼門院は安徳天皇と共に入水しますが、源氏方の者に掬われて京へ送られ、今は大原の寂光院で安徳帝や二位殿をはじめ一門の菩提を弔いながらひっそりと余生を送っています。
また、後白河法皇はその女院を訪ねようとしても源頼朝を憚り、果せずにいましたが、この度機会を得てお忍びで寂光院を訪れます。臣下の者を従えて破れ朽ちた庵へ来てみると、女院は山へ花摘みに出掛けて留守とのこと。
しばし法皇が待つ所へ女院が帰り、お互い感無量の再会を果します。そして、生死の境で見たという六道のことや平家の一門の最後の様子を法皇に尋ねられると、女院は涙ながらにその有様を詳しく物語ります。やがて時は過ぎ、名残も尽きぬまま法皇は還幸され、女院はいつまでもその御輿の後を見送ります。(「宝生の能」平成11年5月号より)

白洲正子「謡曲・平家物語紀行」より (平13・5記)

建礼門院は安徳天皇の母である。しかし壇ノ浦で入水した時は祖母の二位の尼に抱かれていた。しかも二人は死に、建礼門院は助かった。このあたりの事情を描いた白洲正子さんの記述に興味をひかれたので、ほんの一部であるが抜粋してみる。

『 女房の中では、二位の尼だけがしっかりしていた。日頃から覚悟していたこととて、取乱しもせず・・・・主上を抱きよせてこういった。
「われは女なりとも、敵の手にはかゝるまじ。主上の御供に参るなり。御志思ひ給はむ人々は急ぎ続き給へやとて」
しずしずと舷へ進む。当年八歳になられた安徳天皇は、年よりも大人びて、美しく育っていられたが、さすがに何のことか理解できず、どこへ連れて行くのかと、心配そうにいわれる。その時二位の尼がいった言葉は有名である。
「あの波の下にこそ、極楽浄土とてめでたき都の候。それへ具し参らせ候ぞ」
天皇は・・・・・小さな手を合せ教えられるままに伊勢神宮を拝んだ後、西方浄土へ向って、念仏を唱えると、二位の尼は再び「波の底にも都の候ぞ」と慰めつつ、海の底深く沈んで行った。
その有様を見た建礼門院も、つづいて海に入ったが、源氏の侍に、おぐしを熊手にかけて引上げられた。それにしても何故母親の女院ではなく、祖母の二位の尼が、天皇を抱いて入水したのであろう。同じ場所で身を投げたのに、二人は死に、一人が助かったのは、やはり女院には助かりたいという気持がどこかにあったのではないか。二位の尼はそれを見ぬいていた。もしここで天皇が万が一にも救われたら、死ぬより辛い目を見られるに違いない。神器を敵の手に渡すことも、今までの苦労が水の泡となる。もしかしたら、そういうことはすべて知盛と相談ずくの上で決行されたことかも知れない。
それだけ女院は女らしいともいえるが、女らしく自殺した小宰相の局のことを思うと、そういって済ませるものではない。・・・・・・・・・

海上の戦いでは、入水するのがもっとも自然な死に方であろうが、それにしても、一人も切腹したものがないのは不可思議という他はない。やはり二位の尼の言葉どおり、波の底に極楽浄土があると信じていたのではあるまいか。少なくとも、入水することによって成仏すると思われていたに違いない。柳ケ浦で一足先に自殺した清経も、熊野まで逃げのびた維盛も、同じように身を投げて死んでいる。平安末期から鎌倉・室町へかけては、たとえば熊野では補陀落渡海といって、熊野灘から船出して行けば、観音浄土に達すると信じられ、そういう風にして死んで行った人々は多い。・・・大阪の四天王寺でも、日想観往生ということが行われていた。ことにこれは西海の果てである。平家の人々が、全部入水して死んだのは、そういう影響を強く受けていたのではなかろうか。

女院は放心したように、柴の戸にたたずみ、春のたそがれの寂寞とした気配のうちに、「大原御幸」の能は静かに終る。
平家物語ではこの後に「女院御往生の事」がつづき、御幸の後で、女院は昔を思い出して、涙にくれる日々を送ったという。
思えば法皇は罪なことをされたものである。
    このごろはいつならひてかわが心 大宮人の恋しかるらむ
    いざさらば涙くらべむほとゝぎす われもうき世に音をのみぞなく
これらの歌からも推察されるように、六道の有様を体験したといっても、女院は仏教の悟りなどからは程遠い人で、いつまでも一本立ちが出来ないような、哀れな女性であった。一方に巴御前や仏の前のような女がいるかと思うと、女院のような王朝風な美女もいたのが、鎌倉時代という転換期の面白さであり、ひいては平家物語の魅力ともいえよう。最後の「灌頂の巻」五章は、建礼門院のことに終始しているが、序文ともいうべき「祇園精舎の事」とともに、後につけ加えられたと聞く。それだけにやや取ってつけた嫌いがなくもない。が、物見高い大衆には、美女の末路ほど興味をそそるものはなかったに相違ない。今もそのことに変りはなく、寂光院は門前市をなす盛況である。 』

謡蹟 大原の里、寂光院、建礼門院陵   (平13・5記)

最初に訪ねたのは昭和52年9月、二度目は平成6年5月である。最初の時には曼珠沙華の真っ赤な花が印象に残っており、二度目の時は新緑が美しかった。
往時は「折々に心なけれど訪うものは、賎が爪木の斧の音、梢の嵐猿の声」とあるように、殆ど人の気配のない山里であったろう。緑の色は昔のままであろうが、現在はどこからでも農家が見られ、道路も整備され、人の列も絶えない。
寂光院も火災にあったとか聞いたように思うが、どのようになっているのだろうか。 訪ねてみたい気もするが、自分で見た寂光院のイメージをそのまま残しておきたい気もする。私が訪ねた頃の寂光院の有様を謡曲保存会の駒札に語っていただこう。

『         謡曲「大原御幸」と寂光院
文治2年(1186)4月、後白河法皇が壇ノ浦で平家が滅びて後、洛北寂光院に隠棲された建礼門院(徳子・高倉帝の皇后)を訪ねられたことは「平家物語、灌頂巻」にくわしく、また謡曲「大原御幸」にも謡われている。当時、法皇は鞍馬街道から静原を経て江文峠を越え大原村に入り寂光院を尋ねられているが、ここ寂光院の本尊は聖徳太子御作の地蔵菩薩でその左に建礼門院の木像や阿波の内侍の張子の座像が安置されている。謡の詞章にそって緑羅の垣、汀の池などが趣きをそえ、うしろの山は女院の御陵域になっており、楓樹茂り石段は苔むし謡曲をしのぶことが出来る。
     謡曲史跡保存会  』

心静かに往時を偲びつつ参詣していると、建礼門院の詠まれた
     思ひきや深山の奥にすまいして 雲井の月をよそに見むとは
の歌が思い出されてくる。
寂光院の裏山には立派な建礼門院の御陵がある。すぐ近くに阿波の内侍の墓もある由だが、残念ながらその時に気づかずに帰ってしまった。

大原の里 大原の里 京都市左京区大原草生町 (平6.5) わずかに残る昔の面影も今はなくなっているかもしれない

寂光院 寂光院 大原の里 (平6.5) 本曲の舞台となったところ。参詣客が絶えない

建礼門院御陵 建礼門院御陵 大原の里 (平6.5)寂光院の裏山に立派な建礼門院の御陵がある

謡蹟 壇の浦付近   (平13・5記)

平家一門が滅亡し、安徳天皇の御母建礼門院も入水された所だけに関連する謡蹟も多い。
  関門橋の下あたりが源平壇の浦の古戦場である。門司側の展望台からはこの古戦場が真下に眺められ、また、道路に沿って「源平壇之浦合戦絵巻」と題した何十メートルもある壁画が並んでいる。壁画のそばには合戦についての解説があるので、少し長くなるが引用してみる。

『      源平壇之浦合戦について
眼下に広がる関門海峡は、一日700余隻が通過する国際航路であるが、日本の歴史の中に華々しく登場し、やがて散っていった平家滅亡の哀史の地としても有名である。
寿永2年(1183年)栄華を極めた平家も衰えを見せ、永年勢力を争った木曽義仲に追われ京都を逃れた。平家は平清盛の外孫安徳天皇を擁して、100艘ばかりの船に乗り、平家ゆかりの地九州の宇佐八幡宮を頼ったが、平重盛の家人であった緒方三郎惟義の裏切りにあい、やむなく筑前の太宰府天満宮に入った。しかし、ここも安住の地ではなく、遠賀川河口の山鹿城(芦屋町)に落ちた。城主山鹿秀遠と香月の庄(八幡西区)香月氏とは共に平家を助けたが、山鹿城へも惟義の軍が押し寄せると聞き、安徳帝と平家一門は小舟に乗って夜もすがら響灘を東へ向かい、豊前の柳が浦(現在の門司区大里)に上陸した。

ここに内裏つくるべきよし沙汰ありしかども、分限なかりければつくられず、
又長門より源氏よすと聞こえしが、海士の小舟にとりのりて、海にぞうかび給ひける。
(平家物語)

平家は柳が浦に内裏(この古事により、今の大里と改められており、大里には安徳天皇の行在所となったと伝えられる柳の御所がある。)をつくろうとしたが、もはやその力もなく、また、長門(下関側)からの源氏の襲撃もあるので、瀬戸内海を東へ逃れた。
東へ進んだ平家は一時勢いをもりかえしたが、摂津の一の谷、四国の屋島で源義経の奇襲にあい敗退、再び北部九州へ向かい、これを追って西下した源氏と関門海峡で待峙した。

源氏の船は三千艘、平家の船は千余艘、唐船少々あひまじれり。源氏の勢は

かさなれば、平家のせいは落ぞゆく。
元暦2年3月24日の卯剋に、豊前の国門司、赤間の関にて源平矢合とぞさだめたる。
すでに源平両方陣をあわせて時をつくる。
上は梵天までもきこえ、下は海龍神もおどろくらん・・・・
(平家物語)

寿永4年(元暦2年、1185年)3月24日の卯の刻(午前6時ころ)早鞆の瀬戸(関門海峡)のうず潮の中で海戦が始まった。4千余艘の船が、源氏は白、平家は赤の旗印をなびかせて入れ交じった。
当初平家が優勢と見られたが、源氏の勝利を予言する種々の奇跡が現れて、四国、九州の平家方の寝返りと、船の漕ぎ手を先に倒すといった源義経の巧妙な戦法により、その日16時ごろ平家の敗北は決定的となった。
平清盛の妻で安徳天皇の祖母二位の尼は、もはやこれまでと、御座船から8歳の幼帝をいだいて「浪の下にも都のさぶろうぞ」と海中へ身を投じた。帝の母建礼門院もこれにつづいて入水、平家の武将もつぎつぎと身を投げ、ある者は鎧を重ね、碇を背負い海に入った。
「おごれる人は久しからず、唯春の夜の夢のごとし」5年間におよぶ源平両軍の戦いは史上まれに見る大規模な海戦でその幕を降ろした。

この壁画は、眼下の海峡で繰り広げられた源平の合戦図であり、赤間神宮の社宝、安徳天皇縁起図を参考に描いたものである。
壁画中央の御座船に安徳天皇、建礼門院、二位の尼の姿がある。
御座船の左上、波間に浮ぶ女性は建礼門院、救われ京都に送られて尼となる。
御座船の右手、海上を跳躍する武将は源義経、平家の猛将平教経に追われて船八艘を跳んで逃れる。世に義経の八艘跳びという。
いるかの群が見えるのは、いるかの様子で吉凶を占ったことによる。
平家物語は日本古典文学大系より抜粋。 平成2年10月 北九州市    』

下関側からも源平古戦場の壇の浦一帯が眼下に眺められる。

門司側展望台 壇之浦門司側展望台 北九州市門司区 (平3.10) 眼下に関門橋と源平壇の浦の古戦場が眺められる

合戦絵巻壁画 合戦絵巻壁画 北九州市門司区 (平3.10) 道路に沿って並ぶ何十メートルもの壁画は圧巻である。

下関側展望台 下関火の山公園展望台 下関市火の山公園 (平3.10) 下関側からも源平古戦場の壇の浦一帯が眼下に眺められる

関門橋の下関側近くには壇の浦古戦場址の碑が建てられている。近くには「安徳天皇御入水之処」の碑もあり、碑には、二位の尼の辞世の歌
    今ぞ知るみもすそ川の御ながれ 波の下にも都ありとは
も刻まれている。御裳川碑も建っている。 
風光明媚の海峡には往時のことも知らぬげに多くの船が行き交い、海峡にかけられた関門橋には、車の列が続いている。

古戦場跡碑 壇の浦古戦場址碑 下関市みもすそ川町 (平3.10) 関門橋の下関側近くに建てられている

安徳天皇入水処碑 安徳天皇御入水之処碑 下関市みもすそ川町 (平3.10) 碑には、二位の尼の辞世の歌「今ぞ知るみもすそ川の御ながれ 波の下にも 都ありとは」が刻まれている

みもすそ川碑 御裳川碑 下関市みもすそ川町 (平3.10) 近くの御裳川には朱塗の御裳橋もかかっている

安徳天皇を祀る赤間神宮は昔は阿弥陀寺といわれた由。今は竜宮造りに建造され、社殿の白と朱の対比が美しい。西隣には安徳天皇の御陵があり、八歳で入水された安徳天皇を祀る。神宮宝物館の裏庭には平家一門の墓があり、七盛塚と呼ばれている。向かって左から前列に教盛、知盛、経盛、教経、資盛、清経、有盛の七人、後列に二位の尼、忠房、および家臣として盛継、景俊、景経、忠光、家長のそれぞれの墓碑がある。七盛堂のそばには耳なし芳一堂があり、その物語は小泉八雲の作品として有名であるが、ここでは省略する。

赤間神宮 赤間神宮 下関市阿弥陀寺町 (平3.10) 安徳天皇を祀る赤間神宮は昔は阿弥陀寺といわれた由。今は竜宮造りに建造され、社殿の白と朱の対比が美しい

安徳天皇御陵赤間 安徳天皇御陵 赤間神宮 (平3.10) 赤間神宮の西側にあり、八歳で入水された安徳天皇を祀る

平家一門の墓 平家一門の墓 赤間神宮 (平3.10) 神宮宝物館の裏庭には平家一門の墓があり、七盛塚と呼ばれている

耳なし芳一堂 耳なし芳一堂 赤間神宮 (平3.10) 七盛堂のそばには耳なし芳一堂があり、その物語は小泉八雲の作品として有名である

壇の浦の合戦では多くの人が海中に入り、命からがら岸に泳ぎついた者が、この井戸を見てこれを飲んで元気を回復したという。しかし一杯目は真水であるが、二杯以上飲むと塩水になったと伝えられる。
これに関連して、赤間神宮で求めた「赤間神宮 下関・源平史跡と文化財」なる小冊子に次のような記述があり、興味をひかれたので掲げてみる。

『 長府前田海岸のなぎさをその場所とする「平家の一杯水」伝説は、傷つき息たえようとする平家の武者たちに寄せた憐憫の情が生み出したものであろう。
傷ついた平家の武将が磯辺に水溜まりを見つけて口にすると、それは真水で、「ああうまい!命の水だ」と、もう一口飲もうとしたところ、その水は塩からい海水に変っていた。一杯だけ飲んで南無阿弥陀仏の世界に入る者にとってはおいしい真水であるが、息吹き返してもう一杯という者にとってはただの海水となっていたというこの伝説の筋、ちょうどなぎさに清水が湧き出るという珍しい事象と、おそらくこの岸辺に傷つきあるいは息たえた多くの武将が流れついたのを見たであろう体験という二つの要因を「末期の水」の思想が巧に結びつけたものであろうと考えられる。 』

平家一杯の水 平家一杯の水 下関市長府前田町 (平3.10) 命からがら岸に泳ぎついた者が、この井戸を見てこれを飲んで元気を回復したという。しかし一杯目は真水であるが、二杯以上飲むと塩水になったと伝えられる。

源氏水軍はこの島から対岸の串崎あたりに本拠をおき、平家は下関の彦島から進撃してきた。平家は東に流れる潮を利用して、満珠、干珠に進撃し、源氏を包囲しようとした。源氏は潮流の変わるまで時間を稼ごうと死力を尽くして防戦した。やがて潮が変わった。西へ流れる急潮に平家と源氏は攻守ところを変えた。攻撃に移った源氏は平家の水手、舵取りを矢で射、刀で斬って船の自由を奪った。激闘数刻、平家はついに壇の浦に滅びた。

満珠干珠島 満珠島、干珠島 下関市長府宮崎町  (平3.10) 源氏水軍はこの島から対岸の串崎あたりに本拠をおき、平家の水軍と戦った

謡蹟 長楽寺 建礼門院像 建礼門院御塔 (平13・5記)

 建礼門院は壇の浦で入水するけれども、源氏の兵に引き上げられ京都へ護送された後、京都円山公園の近くにあるこの長楽寺(写真は「大江山」参照)に移され、剃髪して仏門に入った。時に29歳、壇の浦の戦いの後1ケ月余り、文治元年(1185)5月であった。寺には建礼門院像があるが、若く美しい尼僧の姿に改めて涙を誘われる。境内には建礼門院御塔があり、ここに剃髪した髪を埋められたという。この寺での滞在は短く、同じ年の9月末には寂光院に移られた。

建礼門院像 建礼門院像 京都市東山区円山町 長楽寺 (平6.9) 若く美しい尼僧の姿に改めて涙を誘われる。時に29歳

建礼門院御塔 建礼門院御塔  長楽寺 (平6.9) ここに剃髪した髪を埋められたという

後白河法皇関係謡蹟  (平13・5記)

京都市下京区にある元六条御所長講堂は後白河法皇が大原寂光院へ出発された所として知られる。
また厳島神社裏に、後白河法皇御幸松の枯れた幹が保存されている。承安4年(1174)清盛を従えて御幸された時の記念の松という。

長講堂 元六条御所長講堂 京都市下京区塩釜町 (平3.9) 後白河法皇が大原寂光院へ出発された所として知られる

後白河法皇行幸松 後白河法皇御幸松 広島県宮島町 厳島神社 (平11.9) 枯れた松の幹が保存されている


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