義仲手植えのケヤキ

謡蹟めぐり  兼平2 木曽義仲関係謡蹟 その1

木曽義仲とその謡蹟      (平13・12記)

木曽義仲が登場する曲として、宝生流には「巴」「実盛」「兼平」の3曲があるが、「義仲」という曲はない。しかし、「巴」「兼平」ともに義仲を中心にしたような曲なので、ここで義仲のことを取り上げてみようと思う。
義仲は久寿元年(1154)清和源氏の嫡流源義賢の子として、現在の埼玉県嵐山町鎌形に生まれた。義仲は幼名を駒王丸と云い、2歳の時に、父義賢は同族の悪源太義平に殺され、駒王丸も義平の命令で畠山重能(重忠の父)に殺されるところであった。しかし重能は秘かに斉藤実盛に預けて匿い、実盛はさらに駒王丸の乳母の夫で木曽にいた信濃権守中原兼遠に托した。兼遠の子樋口次郎兼光、今井四郎兼平は義仲側近の武将として仕えた。また妹の巴は義仲の幼馴染みとして育ち、やがて愛妾、女武者として義仲の最後までつかえる。
木曽の中原兼遠一族の養育のもとに育った駒王丸は元服して義仲となり木曽義仲と呼ばれるようになった。高倉以仁王の令旨により平家討伐の旗上げをしたのは、頼朝が伊豆で旗上げをした20日後の治承4年(1180)9月7日、義仲27歳の時であった。
義仲は京都に向い、越後から北陸に進出するが、その途中「紅葉狩」の舞台、長野県鬼無里を通る。寿永2年(1183)4月、平家は10万の大軍をもって北陸に向かい、連戦連勝の勢で加賀に進み、越中倶利伽羅峠の合戦となるが、義仲は巧みな戦略で5万の平家軍を壊滅させる。巴の妹の葵は義仲に従いこの合戦で重傷を負い亡くなる。
砺波山で大敗を喫した平家軍は、加賀の篠原に軍を集めて抵抗するが、たちまち義仲軍に一撃で壊滅する。実盛が討死した篠原の合戦である。
京都に入った義仲は官位を受けて遂に征夷大将軍に進み、朝日(旭)将軍と呼ばれた。しかし、その粗野で乱暴な行動が都の人に容れられず、後白河法皇も遂に頼朝に義仲追討の密勅を下した。頼朝の命を受けた範頼、義経の軍が早くも近江に進攻、義仲軍は散々に敗れた。梶原源太景季と佐々木四郎高綱の宇治川先陣争いはこの時の宇治川の合戦である。義仲は主従7騎となって粟津の原に向い、兼平の軍と合流したけれども、巴や兼平の奮戦も及ばず、巴は義仲の厳命で落ちのび、兼平は義仲とただ2騎となってついに討死する。時に義仲31歳、巴29歳であった。
義仲には巴、葵のほかにも、山吹という愛妾がいる。山吹は京都で病に臥していたが、義仲の合戦を聞き大津まで辿りついたが、義仲に逢えないまま殺されたといい、また別の伝説では義仲誕生の地、埼玉県嵐山町に来て出家したとも伝えられる。
幼い時から同族の義平に狙われ、木曽の山中で育った若者が突如として登場して、またたく間に平家を都から追い落とし、朝日将軍と賛えられながら、わずか半年の栄華で、同族の源氏しかも父義賢の仇である義朝の一族に攻められ、宿敵の平家よりも早く滅び去るというその生涯は、いかにも乱世の風雲児らしく波乱に満ちており、その悲運に同情を寄せる人が多いようである。各地の義仲の謡蹟を廻っていても、「木曽義仲ゆかりの会」の碑などが目につく。数多い義仲の謡蹟の中で私が訪ねたものを掲げてみよう。

鎌形八幡神社、木曽義仲産湯の清水 (埼玉県嵐山町鎌形)

関越自動車道を東松山で降りると嵐山町は近い。このあたりが義仲ゆかりの地であることは最近まで知らなかった。先ず鎌形八幡神社に参詣する。この神社の由緒と義仲産湯についての説明を要約してみる。
「鎌形八幡神社は、平安時代初期に、坂上田村麻呂が九州の宇佐八幡宮の御霊をここに迎えて祀ったのが始まりであると伝えられている。武門、武将の神として仰がれ『源頼朝および尼御前の信仰ことのほか厚く』と縁起のなかにもあるとのこと。
鎌形地内には七清水と呼ばれるものがあり、これを汲んで木曽義仲が産湯に利用したと伝えられ、境内にはその一つがある。江戸時代後期にこの神社に付随していた山伏簾藤某なる者がここに碑を建立したという。
義仲はこの地大蔵に館を構えた源義賢の子で、当地班渓寺の開基山吹姫は、義仲の妻である。 」

鎌形八幡 鎌形八幡神社 埼玉県嵐山町鎌形 (平 6.7) 義仲生誕地と言い、境内には義仲産湯の清水がある

義仲産湯清水碑 木曽義仲産湯清水の碑 鎌形八幡神社 (平 6.7) 境内に立派な碑が建つ

班渓寺、木曽義仲生誕の地碑、木曽義仲公顕彰碑  (埼玉県嵐山町鎌形)

鎌形八幡神社の近くに班渓寺がある。木曽義仲の長男義高の菩提を弔って母の山吹姫が建立した寺で、義仲生誕の地ともいわれ、山吹姫の墓もあるという。案内を紹介する。

「 班渓寺  曹洞宗の寺で威徳山班渓寺という。
この寺の梵鐘に次の文字が記されている。
木曽義仲 長男 清水冠者源義高の為 阿母 威徳院殿渓妙虎大姉 創建スル所也
つまり母の妙虎大姉(山吹姫)が吾子、義高が十一歳の時、入間川原で頼朝の命を受けた堀藤次に斬られた。菩提を弔ってこの寺を建てた。仁平3年(1153)に源義賢が武蔵国大蔵に館を構えて鎌形に下屋敷を設け、小枝御前を住まわせ、生まれたのが義仲(幼名駒王丸)である。久寿2年8月(1155)義賢は大蔵館で甥の悪源太義平に討たれたが、駒王丸は畠山重能、斉藤実盛の情により、木曽に送られ、成人後、旭将軍に出世した。山吹姫は木曽育ちと娘、義仲の室とし幾度かの合戦に従軍し、建久元年(1190)11月22日ここに没す。義高は頼朝の娘大姫と結ばれ、源氏の世嗣といわれたが、頼朝のため命を落した。 埼玉県 」

境内には「木曽義仲公誕生の地」の碑や、「木曽義仲公顕彰碑」がある。顕彰碑には木曽義仲公記念碑建立委員会の手によって、概説で述べたような義仲の事蹟が詳細に綴られている。山吹姫の墓もあるとのことで探してみたが残念ながら分からなかった。
また、ここから少し離れてはいるが同じ嵐山町の菅谷には畠山重忠の館址がある。

班渓寺 班渓寺(山吹ゆかりの寺) 埼玉県嵐山町鎌形 (平 6.7)
木曽義仲の長男義高の菩提を弔って母の山吹姫が建立、山吹姫の墓もある

義仲生誕地碑 木曽義仲生誕の地碑 埼玉県嵐山町鎌形 班渓寺(平 6.7) 義仲生誕の地ともいわれ立派な碑が建てられている

義仲顕彰碑 木曽義仲公顕彰碑 埼玉県嵐山町鎌形 班渓寺(平 6.7) 義仲の事蹟が詳細に綴られている

林昌寺、中原兼遠の墓、手習天神、兼遠屋敷趾   (長野県日義村)

義仲は久寿元年(1154)清和源氏の嫡流源義賢の子として、現在の埼玉県嵐山町鎌形に生まれた。義仲は幼名を駒王丸と云い、2歳の時に、父義賢は同族の悪源太義平に殺され、駒王丸も義平の命令で畠山重能(重忠の父)に殺されるところであった。しかし重能は秘かに斉藤実盛に預けて匿い、実盛はさらに駒王丸の乳母の夫で木曽にいた信濃権守中原兼遠に托した。
兼遠の次男樋口次郎兼光、四男今井四郎兼平は義仲側近の武将として仕えた。また本曲の主人公「巴」は兼光、兼平の妹で、やがて愛妾、女武者として義仲の最後までつかえることとなる。義仲とこの三人は同じ乳を呑んで育った「乳兄弟」(乳母子)の間柄で、義仲二歳から31歳で戦死するまで、殆ど離れることなく生活を共にしている。
林昌寺は義仲を幼少の頃から預かり養育した中原兼遠の菩提寺である。義仲が自分の子の兼光、兼平、巴を従え挙兵した後、兼遠は円光と号し仏門に入り、建立したものといわれている。本堂脇の山の中腹に兼遠の墓がある。
兼遠は、早くから義仲のたぐい稀なる天性を見抜き、その才能を伸ばすべく文武両道を教え、義仲に理想の武将の姿を描き、実現させた人である。
手習天神は木曽義仲を養育した兼遠が義仲の学問の神様として勧請したものと伝えられている。近くには兼遠の屋敷跡(略)があり、義仲は13歳で元服するまでこの屋敷で生活したといわれ、巴の出生地でもあるという。元服の松や兼遠塚もあるというが、見つからなかった。

林昌寺 林昌寺 長野県日義村 (平9.7) 義仲を養育した中原兼遠の菩提寺

中原兼遠の墓 中原兼遠の墓 林昌寺 (平9.7) 兼遠が建立したという寺に眠る

手習い天神 手習天神 長野県日義村 (平9.7) 兼遠は義仲の学問の神様として勧請した

旗挙八幡宮、義仲元服手植えの大欅、木曽義仲公館趾碑、木曽宣公舊里碑、南宮神社
(長野県日義村)

中原兼遠一族の養育のもとに育った駒王丸は元服して義仲となり木曽義仲と呼ばれるようになった。高倉以仁王の令旨により平家討伐の旗上げをしたのは、頼朝が伊豆で旗挙げをした20日後の治承4年(1180)9月7日、義仲27歳の時であった。
この旗挙げをした時に、ここに戦勝祈願をしたことから旗挙八幡宮と呼ばれている。幼少、義仲が養父兼遠と共に京都に上った際、曾祖父八幡太郎義家の崇敬厚かった石清水八幡宮の霊を勧請し、日義村のこの地に移して祀ったのが始まりとされている。
義仲はこの神社で元服の儀を行い、その時植えたという欅の大木が現在も緑の葉を繁らせ、脈々と息づいている。
またこのあたり一帯は義仲はじめ、兼光、兼平らの屋敷跡と云われ、今その当時の面影を偲ばせる遺構はないが、境内には「木曽義仲公館址」の大きな碑が建っている。
また、境内には「木曽宣公舊里碑」が建てられている。木曽宣公とは木曽義仲におくられたおくり名である。木曽九代代官山村良由が、ここを訪ねた時、義仲の偉業を偲び、建碑したもので、漢文で書かれているので私には読めないが、義仲のことを「業遂げられずといえども、万世に畏敬せられる」と讃え結んでいるとのことである。
旗挙八幡宮から国道を隔てた宮の越に「南宮神社」がある。この神社は村の産土神として祀られ、義仲の戦勝祈願所でもあった。

旗挙八幡 旗挙八幡宮 長野県日義村 (平9.7) 義仲は旗挙げした時、この八幡に戦勝を祈願した

義仲手植えのケヤキ 義仲元服手植えの欅 旗挙八幡宮 (平9.7) 義仲はこの神社で元服の儀を行い、その時植えた欅

義仲公館跡碑 木曽義仲公館跡碑 旗挙八幡宮 (平9.7) このあたり一帯は義仲、兼光、兼平らの屋敷跡おいわれる

木曽宣公旧里の碑 木曽宣光旧里碑 旗挙八幡宮 (平9.7) 木曽九代の代官が義仲の偉業を偲び建立した

南宮神社 南宮神社 長野県日義村 (平9.7) 義仲が戦勝を祈願したという

徳音寺、義仲公墓所、義仲公霊廟の義仲像、巴御前騎馬像、つらぬき石 (長野県日義村)

「徳音寺」は義仲が母小枝御前を葬った寺で、以後一族の菩提寺となった。
欝蒼と繁る木立に囲まれた境内には「義仲公墓所」がある。義仲の墓を中心に右側に母小枝御前と今井四郎兼平、左側に巴御前と樋口次郎兼光の墓碑が並んでいる。巴御前の墓碑には前述のとおり、「龍神院殿塔」と刻まれている。中央の義仲の墓は小さくなってよく見えないので別に掲げた。
木曽義仲公霊廟は義仲公の発願により、天明年間に建立されたものという。昭和50年、笹村草家人先生作の等身大の「木曽義仲像」が奉納された。旗挙げの勇姿が目のあたりに浮かぶようである。
境内には谷口善晴先生作の「巴御前騎馬像」が建てられている。駒王丸(義仲の幼名)と共に木曽の山野を駈け巡った少女の頃の巴の像である。
境内にはまた、「つらぬきいし」がある。義仲と巴は幼ななじみでこの辺りでよく遊んだらしく、義仲を慕う巴が義仲の命で、巴が渕の対岸に馬を跳ばせた時、対岸の石に馬の蹄の跡が掘られたというものである。

徳音寺 徳音寺 長野県日義村 (平9.7) 一族の菩提寺である

義仲の墓徳音寺 木曽義仲の墓 徳音寺 (平9.7

一族の墓梶原堂 一族の墓 徳音寺 (平9.7) 左から樋口兼光、巴御前、中央奥が木曽義仲、前列右は義仲の母小枝御前の墓

霊廟内の義仲像 霊廟内の義仲像 徳音寺 (平9.7) 等身大の像が奉納された

巴御前騎馬像 巴御前騎馬像 徳音寺 (平9.7) 義仲とともに山野を駆けめぐった少女の頃の像

つらぬき石 つらぬき石 徳音寺 (平9.7) 巴が渕に馬を跳ばせた時、対岸に石に馬の蹄の跡が残った

義仲館、義仲・巴御前銅像、義仲像、巴御前像、兼平像、兼光像、ほか
(長野県日義村)

平成4年、義仲ゆかりの徳音寺の前の敷地に「義仲館」が建てられた。義仲関係の資料が沢山陳列されており、厳密な意味で謡蹟とは云えないかも知れないが、義仲の足跡を知るには大変有難い所である。
正面の門をくぐると、入口の前には「義仲・巴御前銅像」がある。
中へ入ると先ず目につくのが、木曽義仲、巴御前、それに今井四郎兼平、樋口次郎兼光など四天王の等身大の人形である。中でも華やかな鎧、具足に身を固め、長刀を持った若々しい巴御前の姿には目を奪われる。
このほか、「以仁王より令旨を賜る場」の武者人形、義仲の生涯を「駒王丸」「元服」「挙兵」「倶利伽羅の戦」「征夷大将軍宣旨」「木曽義仲の最後」の6枚にまとめた歴史画、古文書、武具、当時の生活用具等が展示されている。

義仲館 義仲館 長野県日義村 (平9.7) 義仲関係の資料を展示

義仲巴御前像 義仲・巴御前銅像 義仲館 (平9.7) 義仲館正面に建つ

木曽義仲像 木曽義仲像 義仲館 (平9.7)

巴御前像 巴御前像 義仲館 (平9.7)

今井兼平像 今井四郎兼平像 義仲館 (平9.7)

樋口次郎像 樋口次郎兼光像 義仲館 (平9.7)

興禅寺、義仲公の墓、義仲手植えの時雨桜  (長野県木曽福島町門前)

興禅寺は永亭6年(1434)、木曽家12代信道が、先祖義仲公の追善供養のため荒廃していた旧寺を改建したものである。境内には義仲公の墓があり、義仲が最後の時に巴御前に託した遺髪がここに納められているという。
また、観音堂の前の「時雨桜」は義仲公お手植えの桜といわれ、現在あるのは二代目だが、色調まことに鮮やかなしだれ桜で、例年4月20日頃が見頃という。
なお、この地に伝わる木曽おどりは木曽信道公が義仲公の霊を弔うため、ウラボン会に鎧、兜を着け松明に火を点じて義仲公の墓前にぬかずき、観音堂前で踊ったのがその起源であるという。たまたまこの地を訪ねた時に木曽おどり全国大会が開催されていたのでその写真を掲げてみる。

興禅寺 興禅寺 長野県木曽福島町 (平9.7) 義仲の子孫が義仲供養のため改憲したもの

義仲の墓徳音寺 義仲公の墓 興禅寺 (平9.7) 巴御前に託した遺髪が納められているという

義仲手植えのケヤキ 義仲手植えの時雨桜 興禅寺 (平9.7) 現在のものは二代目という

木曽おどり 木曽おどり全国大会 長野県木曽福島町 (平9.7) 義仲公の霊を慰めるため墓前で踊ったのが木曽おどりの発祥という

文殊堂、朝日神社、木曽殿アブキ  (長野県鬼無里村)

長野県鬼無里村は謡曲「紅葉狩」の舞台として知られるところであるが、義仲が都へ攻め上る時この地を通ったともいわれる。
文殊堂は鬼無里村土倉にありその由緒によると、
「 御本尊の文殊菩薩は朝日将軍木曽義仲の守護仏といわれ、義仲公が永寿2年北陸道へ進出のとき当地を通過され、文殊菩薩に一巻の軸物を添えてこの堂の前身薬師堂に合祀したとされる。元歴元年義仲歿後第二子力寿丸は家来とともに当地に隠棲し堂宇を建て本尊を安置し文殊堂と称す。・・境内の高台には義仲公を祀る朝日神社がある 」 とある。
この文殊さまは、京都府宮津にある切戸の文殊、山形県高島町にある亀岡の文殊とともに、「日本三大文殊」の一つといわれているが、切戸の文殊さまのような賑やかさはない。バス道路から右に折れて細い道を車で入っていったが、向きを変えて戻って来るのに苦労したことを思い出す。
鬼無里村の奥裾花自然園は水芭蕉で有名なところでその季節になると多くの人が訪ねる由である。この文殊堂から奥裾花自然園に向かって登ると奥裾花ダムがあり、さらに進むと「木曽殿アブキ入口」に到達する。ここで車を降りて清水川に沿って渓谷を10分くらい歩くと、右岸にぽっかりと大きな口をあけた「木曽殿アブキ」が見えてくる。現在でも、間口は60メートル、奥行20メートルはある岩穴であるが、江戸時代には間口140メートル、奥行70メートルはあったといわれる。
寿永年間木曽義仲が北陸進出のとき、ここに兵馬を休め、野営の地にしたとか、また、寿永3年、義仲討死後、侍臣に伴われて落ちのびた二男「力寿丸」の隠れ家であったとも伝えられている。
現地で求めた書物「伝説の鬼無里ー谷の京物語」によると、この鬼無里村にはこのほかに「木曽殿城跡」(義仲が樋口次郎兼光をおいて護りを命じた)、「今井四郎兼平の城跡」があり、現在もその末裔という樋口姓、今井姓の人々が住んでいるとのことである。

土倉文珠堂 文殊堂  長野県鬼無里村土倉 (平 6.10) 義仲、北陸道へ進出のとき文殊菩薩を合祀したと伝えられる。

木曽殿あぶき 木曽殿アブキ 長野県鬼無里村 (平 6.10) 義仲が北陸進出のとき、兵馬を休め、野営の地にしたという

義仲馬洗いの清水、あふたの清水の石碑、中山道・洗馬宿碑 (塩尻市洗馬)

国道19号線をそれ、旧道の洗馬駅あたりで何人かに道を聞き、ようやく「あふたの清水」を見つけた。義仲挙兵の時、兼平がここまで駆けつけて義仲の馬を洗ったという泉で、今も清水を湧き出ている。
傍らには「あふた清水」の碑がある。漢文でよく読めないが、洗馬(せば)という地名はこの故事に由来するという意味のことが記されているようである。旧道には「中山道」「洗馬宿」と書かれた碑が立っていた。

あふたの清水 あふたの清水 塩尻市洗馬 (平9.7) 挙兵の時兼平はここで義仲の馬を洗った 

あふたの清水碑 あふた清水の碑 塩尻市洗馬 (平9.7) 清水の傍らには碑が建つ

洗馬宿碑 中山道・洗馬宿碑 塩尻市洗馬 (平9.7) 旧道にこのような碑が建っている

丸山八幡  (富山市呉羽 呉羽公園内)

義仲は京都に向い、越後から北陸に進出するが、その途中「紅葉狩」の舞台、長野県鬼無里を通る。寿永2年(1183)4月、平家は10万の大軍をもって北陸に向かった。
富山市西郊の呉羽山一帯は義仲兼平軍の布陣した所で、山麓の「丸山八幡宮」は義仲戦勝祈願の社である。

丸山八幡 丸山八幡 富山市呉羽 (平9.7) 義仲戦勝祈願の八幡神社

弓の清水、木曽義仲像、氣多神社  (高岡市)

高岡市に近い般若野は義仲軍と平家の盛俊軍との古戦場で、その一角に「弓の清水」がある。案内板には「寿永2年(1183)源平般若野の合戦に木曽義仲の軍勢、人馬諸共渇したること甚だしく、この土地の松原大助の進言で、此の地に弓を射た所、清き水湧出して渇を医て士気大いに上ったところである。」と記されている。
傍らの碑の漢文も同様の趣旨が記されているものと思う。少し離れた林の中には弓を持った義仲の像が建てられている。
高岡市伏木一宮にある氣多神社は、盛時には越中一の宮として、境内の周囲に神宮寺である徳証寺を始めとする大伽藍が並び栄えたといわれるが、源平合戦のときには木曽義仲の、戦国期には上杉謙信の兵火により殆どが焼失したという。現在の社殿は永禄年間に再建されたと伝えられ室町時代の特色がよく残っている。境内には大伴家持を祀る大伴神社がある。

弓の清水 弓の清水 高岡市中田常国 (平9.7) 義仲は弓で清水を沸き出さて渇を癒した

弓の清水 木曽義仲像 弓の清水 (平9.7) 清水の傍らに義仲の像が建つ

多神社 氣多神社 高岡市伏木一宮 (平9.7) 木曽義仲の兵火に焼かれたが再建、境内には大伴家持を祀る大伴神社がある


−ニュース−

曲目一覧

サイトMENU

Copyright (C) 謡蹟めぐり All Rights Reserved.