得生寺

謡蹟めぐり  雲雀山 ひばりやま

ストーリー

横佩の右大臣豊成公は、由なき者の讒言を信じて我が子の中将媛を雲雀山で殺すよう家臣に命じます。しかし家臣はあまりの痛わしさに殺すことができず、姫を庵にかくまい、姫の乳母侍従が物狂を装って春秋の草花を売るその代で姫を養っていくこととします。
ある日、花を売りに出た侍従は雲雀山あたりに鷹狩に来た豊成公と偶然出合い、身の上を尋ねられます。侍従は花を買ってほしいと頼んだ後、花に託して身の上話をそれとなく語り、隠れ住む姫が痛わしいと狂気したように舞を舞います。
女が姫の乳母侍従であると気づいた豊成公は、前非を悔いて姫の行方を探していると明かし、その隠れ家の在りかを問います。侍従は最初大臣を疑って姫はすでに亡くなったと偽りますが、ついに真心にうたれて山の庵へ案内します。父子は再会を喜び、侍従共に奈良の都へと帰ってゆきます。(「宝生の能」平成13年4月号より)

二つある雲雀山   (平5・2記)

雲雀山の謡蹟については二説あるようである。
一つは奈良県の東部、いまは莵田野町に編入されている宇賀志の山奥にある日張山で、約20分登ったところに日張山青蓮寺があり、中将姫が16歳から19歳まで庵を結んだ紫雲庵の跡とされている由。
平成元年、教授嘱託会の謡曲名所めぐり(大和路の旅)に参加の帰途、一行と別れて壷坂寺、岡寺を参詣して一泊、翌日は室生寺に詣でた後、この日張山を訪ねる予定でいたが、室生寺で予想外に時間をかけてしまい、交通不便な日張山に行くと帰京が困難になりそうで、残念ながら割愛してしまい、その後まだ訪れていない。
もう一つは和歌山県有田市糸賀町中番にある雲雀山得生寺である。ここは紀勢本線紀伊宮原駅から徒歩15分ほどのところというから交通は便利だが、ここにもまだ行ったことはない。

得生寺  有田市糸我町  (平10・9記)

平成6年、念願の得生寺を参詣を果たすことができた。
寺伝によると聖武天皇の御宇、横佩の大臣藤原豊成の娘、中将姫が継母の憎しみにあって、奈良の都から糸我の雲雀山へ捨てられた旧蹟と云われている。
境内には「中将姫すてられ給ふ旧蹟」の碑が建ち、中将姫御影堂がある。寺には宝物として、「中将姫御一代画伝」「中将姫十五歳の尊像」などが保存されているといい、また、姫が隠れた雲雀山は寺の前方に聳える山で、その山頂が得生寺の奥の院で、中将姫本廟があり、中に中将姫の石像が安置されているという。

得生寺 得生寺 和歌山県有田市 (平6.5)

中将姫旧蹟碑 中将姫すてられ給ふ旧蹟碑

寺で入手した由緒には、中将姫の縁起が書かれている。謡曲の筋書きとは少し異なるが、参考までに掲げてみる。

  (参考)中将姫縁起

中将姫の父君は右大臣藤原豊成。母君は紫の前。大和長谷の観音さまに願いをこめて授かったのが中将姫で長谷観音さまの御化身としてこの世に出られたお方です。
五歳の春、病で母君が亡くなり継母照夜の前に育てられることになった。継母は豊寿丸を生んでからは、姫を邪魔ものに思い、暗殺しようと毒を盛ったが、かえって仏罰にあたり豊寿丸を亡くしてしまう。そこで継母は一層姫を恨み、父君が諸国巡検の留守中、家士伊藤春時に命じて紀伊国有田郡ひばり山で姫を殺害させようとした。しかし、春時は姫が六巻の称讃浄土経を読誦して、父の現世安穏、亡き母の追善菩提、そして無慈悲な今のお母さんの心持ちが一日も早くやわらぐよう、両親の幸せを祈念するその徳風に感化されて殺害すること出来ず姫の袖を切り取り自分の股に突きさし流れ出る血潮をぬぐい、これが殺した証拠だと都へ持ち帰った。家老国岡将監に先ずその由を伝えたところ、あに計らんや家老は自分の一人娘瀬雲が姫を身代りとして犠牲にし、これが姫のみ首ですと継母を満足させた。
家士春時は妻と共に再びひばり山に馳せ参じ、ひばり山別所の谷へささやかな草庵を結び木の実を拾い薪を積み山下に出ては往来の人の情を受けて姫を養育した。
春時夫妻は真砂山真砂寺(今の仁平寺)で剃髪し名を得生、妙生尼と改めた。得生寺の寺名はこの得生の名より興る。
かくて山の一年が明けた正月に、頼みとする春時が病のために亡くなった。姫は世のはかなさを感じて称讃浄土経壱千巻書写の誓願を起し石の机で写経、朝夕読経の勤行を怠らなかった。
       なかなかに山の奥こそ住みよけれ
                草木は人のとがをいわねば
一方都では、諸国巡検から帰った父君が姫の姿が見えないのを不審がると、照夜の前は、姫は御不在中、目も当てられぬ不仕だらな行いをしたので勘当しましたといつわった。一人娘を犠牲にした国岡将監が、何とか親子の対面をさせようと計り、諸国巡検の報告に熊野三山参りをなされるよう指示し、その帰途、雲雀山で狩をさせ、計らずも親子の対面、うれしくも都へ連れもどすことになった。時に姫は十五歳の春。
都へ帰った姫はつらつら憶うのに、豊寿丸、瀬雲さん等私のために犠牲になって下さった、この方々の菩提を弔わねばとて、十七歳の時大和の当麻寺に足を運び一心専念仏道を行ぜられました。
ある時一人の尼僧が現れて蓮の茎を用意せよと告げられた。姫は早速その由を天子に申し上げたところ、たちまち百駄の蓮の茎が集り、老尼の指図で姫がその糸で一丈五尺の浄土曼荼羅を織り示されました。時に天平宝字七年。この曼荼羅感得の時、老尼は十三年ののち汝を迎えて花のうてなで会おうと言われた。やがてその年、宝亀六年四月十四日、二十五菩薩のご来迎があり二十九歳で大往生を遂げられました。

豊成公の邸跡  奈良市 (平10・9記)

中将姫の父、横佩の右大臣藤原豊成は、不比等の孫にあたる人で奈良市の旧元興寺付近に広大な邸を持っていたようで、邸跡と称される寺が三つある。

誕生寺  奈良市東木辻町

誕生寺は藤原豊成の邸跡とされる尼寺で、中将姫はここで生まれたという。境内には中将姫産湯の井戸があり、傍らに中将姫の石像があるというが、門が閉ざされていて入ることができなかった。寺の前には「中将姫誕生霊地」と刻まれた碑が建っている。

誕生寺 誕生寺 奈良市東木辻町 (平6.4)

中将姫生誕地碑 中将姫誕生霊地の碑 (平6.4)

徳融寺  奈良市鳴川町

誕生寺のはす向かいに徳融寺あり、ここも藤原豊成の邸跡と伝える。3寺のうちでは最も大きな構えで、墓地には豊成の墓と中将姫の墓がある。

徳融寺 徳融寺 奈良市鳴川町 (平6.4)

豊成の墓 豊成公の墓 徳融寺 (平6.4)

徳融寺姫の墓 中将姫の墓 徳融寺(平6.4)

高林寺  奈良市井上町

元興寺の南、民家の間にひっそりと残る小さな尼寺である。もと元興寺の一院と伝えられ、また豊成の邸跡の一部ともいわれる。境内に豊成の塚がある。

高林寺 高林寺 奈良市井上町 (平6.4)

高林寺豊成公の墓 豊成公の塚 高林寺 (平6.4)


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