親子対面

謡蹟めぐり  鳥追 とりおい

ストーリー

九州薩摩国日暮(ひぐらし)の何某が訴訟のため都へ上って留守中の十数年間、残された妻と子は家人の左近尉(さこのじょう)らを頼りに生活しています。
ところが、今年は田の作物を食い荒らす雀が特に多いため左近尉はその鳥追いを日暮の子花若にもするようにと言います。従わなければ家を追い出されてしまうので、年端もゆかぬ花若と母は鳥追舟に乗り、家人との立ち場の逆転を嘆きつつ群雀を追います。
一方、訴訟もようやく片づいた日暮の何某が故郷に帰ると名物の鳥追舟が多く出て鼓や羯鼓を打ち鳴らしています。その中の一艘を呼び寄せれば驚いたことに我が妻子が乗っています。左近尉の仕打ちに何某は立腹し、即座に切り捨てようとします。が、十年以上も不在だった主人にも責任があると、との妻の言葉に左近尉は許され、もとの平和な生活に立ち返るのでした。(「宝生の能」平成13年11月号より)

母合橋、 鳥追の杜(もり) 鹿児島県川内市 (平19・3記)

現地の伝説

この曲は現地の伝説にちなんだものであるが、母合橋に立つ案内には次のように記されている。

「    母合橋
昔、ここは「母逢いの渡し」と呼ばれ、この地にまつわる伝説が残っています。室町時代の謡曲「鳥追舟」であり、江戸時代の三国名勝図会の「日暮の里」であります。
三国名勝図会には「宮里村に母逢川あり其の渡口を母逢の渡と号す、又二人の子、母を慕ひて此の川涯に至り、岸を隔て母に見え、甚だ悲嘆せるよりの名なりとぞ・・・」とあり、有名な日暮長者伝説の地であります。
向田町日暮岡に日暮長左衛門という長者が住んでいました。
この長者には、今の宮里町清水生まれの柳御前という妻と、娘お北と息子花若丸の二人の姉弟がいて幸福な日々を送っていました。
長者の家臣左近尉は悪巧みをして柳御前と離婚させ、左近尉と親しいお熊の方と結婚させました。その後長者は土地問題で京に行き十年余の歳月が流れ、その間左近尉とお熊は二人の姉弟にきつく命令し田に集る雀の群れを追わせていました。
来る日も来る日も、雨の日も風の日も鳥追舟に乗って雀を追わなければなりませんでした。あまりのつらさに思いだすのは母柳御前のこと、母も我が子二人が恋しくてたまらず、三人は人目を忍んでは母逢の渡しで川をはさんでいつもこの川岸に出て逢って共に涙を流していたという悲話の秘められた地であります。
現在の橋は、平成元年に架けられた近代的な橋でその名称も「母合橋」と記され、橋の親柱には伝説を物語る母と子が対面する姿、欄干には雀を追う姉弟の姿等がデザインされ当時を忍ばせています。
    平成三年三月 川内市教育委員会   」

また、鳥追の杜に立つ案内板には、ほぼ同じ内容の伝説が紹介されているが、最後のほうには弟が川に身を投げたと次のように記している。
「 連日の虐待に耐えかねた姉弟は身をはかなんで平佐川に身を投げた。村人たちは、これをあわれみ、この地に塚を建て、ねんごろにその霊を弔った。
謡曲の「鳥追」はこの伝説にちなんだものである。
   水鳥を追ひし跡とて名もくちず
           のこるしるしのもりの一むら   松翁  」

母合橋と鳥追の杜

母合橋は川内市内を流れる隈之城川が川内川に合流する少し手前に架けられた橋で平成元年3月に完成と記されている。橋には川を挟んで親子が対面する姿や、雀を追う姉弟の姿をデザインした欄干がある。
また川内駅の近くには鳥追の杜があり、村人たちは身を投げた姉弟を哀れみ、鳥を追ったこの地に塚を建て、観音像を安置してその霊を弔ったという。

母合橋欄干 母合橋 川内市 (平7.11)  欄干に雀を追う鳥追舟の姉弟の姿がある

母親像 母の像 (平7.11)

親子対面 川を挟んで対面する母と姉弟 母合橋に刻まれる (平7.11)

鳥追の杜 鳥追の杜 中程に観音像も見える 川内市 (平7.11)


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