洛中洛外図

謡蹟めぐり  誓願寺 せいがんじ

ストーリー

紀州熊野権現に参籠し、御札を諸国にひろめよとの霊無を受けた一遍上人は、まず都に上り誓願寺に到りました。貴銭群衆の人々に混じって、信心深げな一人の女が現れ御札を受けた後「六十万人決定往生」とある文字を見て、六十万人より他は往生に漏れるのかと尋ねます。
上人は「六十万人」とは感得の四句「六字名号一遍法、十界依正一遍体、万行離念一遍證、人中上上妙好華」の略で済度の人数を限るものではないと教えます。女は歓喜して「誓願寺」と打ってある額を取りのけ、上人の手で六字の名号に書き替えて欲しいと請います。
上人は御身は如何なる人かと問うと、自分はあの石塔の下に住む和泉式部であると告げ消え失せます。よって上人が額を改めていると、俄に異香薫じ、花降り、音楽聞こえ、額の効力で歌舞の菩薩となった和泉式部が、菩薩衆とともに姿を見せ、額を礼拝し仏徳をたたえるのでした。(「宝生の能」平成10年4月号より)

誓願寺  京都市中京区桜之町 (平15・9記)

本曲の舞台の誓願寺は曲中にも謡われるとおり、人皇三十八代天智天皇の勅願によって大和に建立された古刹であるが、のち伏見深草(長岡京)に移り、さらに平安遷都で西陣に移り、秀吉のころ現在地に転じたと伝える。
ここでも昔は広大な寺であったが、度々の火災で規模も小さくなり、また、この地が新京極の繁華街の真っ直中にあるため、昔の面影はなく、盛り場の中に閉じこめられたような狭い境内に本堂・庫裏・鐘楼などの建物がある。
この寺は念仏弘道の中心となり、念仏女人往生のさきがけとして、清少納言や和泉式部もこの地に別庵を設けて常念仏の生活を送ったという。
この寺は京都の繁華街にあるので何回か訪ねたが、本年5月に訪ねた時境内に「洛中洛外図屏風」として、室町時代の誓願寺を描いた図がかかげられていたので、紹介する。案内板には次のように記されている。

「     洛中洛外図屏風 (上杉本) 米沢市蔵 国宝
中央に室町時代の誓願寺が描かれています。本堂右側に「せいぐわんじ」と書いてあります。
一条小川にある頃の誓願寺で、天文五年(1536)の法華の乱により炎上(4回目の火災)し、天文八年(1539)に上棟された頃の誓願寺であると思われます。
画面内の人々に注目すると、門前には頭巾を頭から被った女性が参詣していて、その側には物乞いする人が座り込んでいます。
また本堂右側の柱に取り付けられた「法輪」を転ずる参詣人の姿や、本堂左側で「流れ灌頂」の経木卒塔婆に仏名を書いてもらっている参詣人の姿が見えます。
門前左側に注目すると、矢を入れる器の靫を作る「靫師の店」が、また、画面右端には格子窓に何本も弓を立て掛けた「弓屋」が描かれています。
誓願寺はまさしく「洛中」にあって様々な人々が出入りする信仰の場でした。
こうしてみると、今の本山をめぐる雑踏も当時と変わらない、いわば「誓願寺らしい」雰囲気と呼べるのではないでしょうか。     」

誓願寺2 誓願寺 京都市中京区桜之町 (平15.5)

洛中洛外図 洛中洛外図屏風 誓願寺 京都市 (平15.5)

誠心院、和泉式部の墓、軒端の梅と歌碑
             京都市中京区中筋町 (平15・9記)

誓願寺の南、商店街の中心にある。平安時代に藤原道長が和泉式部のために建立した小堂が寺の起こりと伝えられ、通称和泉式部寺の名で知られている。
本堂には和泉式部の法体像と道長の像が安置されているという。境内には式部の墓と伝える大きな宝篋印塔がある。
前に来た時は格子にさえぎられて写真を撮るのが難しかったが、本年5月の時には誠心院内からもお詣りすることが出来るようになっていた。境内には式部が生前愛した「軒端の梅」にちなんで後に植えられたという梅があり、その傍らには
   霞たつ 春きたれりと 此花を 見るにぞ鳥の 声も待たるる
と刻まれた式部の歌碑が建てられている。

誠心院 誠心院 京都市中京区中筋町 (平15.5)

和泉式部の墓 和泉式部の墓 誠心院  (平15.5)

軒端の梅 軒端の梅と歌碑 誠心院 (平6.11)

 一遍上人の古蹟  (平15・11記)

宝巌寺 松山市道後温泉

愛媛県松山市道後温泉にある宝巌寺は一遍上人の生誕地として名高い。この寺に安置されている木造の一遍上人の立像は室町時代の傑作で重要文化財となっている由。
境内には生誕地を示す石碑や、一遍上人の真筆「南無阿弥陀仏」の碑がある。

宝巌寺 宝巌寺 松山市道後湯月 (平6.9)

一遍上人生誕碑 一遍上人御誕生旧蹟碑 宝巌寺 (平6.9)

宝巌寺真筆碑 一遍上人御真筆碑 宝巌寺 (平6.9)

熊野本宮大社  和歌山県本宮町

文永11年(1274)、熊野本宮證誠殿に参籠して、六十万人決定往生の神勅を受け、一遍と名乗る。本宮の旧社地に刻んだ「南無阿弥陀仏」の碑と、熊野神勅の由縁を刻んだ「一遍上人神勅名号碑」が建っている。名号碑には一遍上人の生涯を簡潔にまとめているのでその全文を紹介する。

「 一遍上人は伊予国の豪族河野通弘の第二子として延応元年(紀元一八九九年)道後に誕生し童にして仏門に入り、幼名を松寿丸、ついで随縁、のちに智真と改名、苫修練行すること多年、学解進み、浄教の奥旨を極めたが猶意満たざるものあり。諸国の名社、聖仏に巡礼して祈誓し、最後に文永十一年(紀元一九三四年)熊野本宮證誠殿に祈念し、百日の参籠の誠をささげ、大神の霊告を感得してその證成を受け、遂に独一念仏を開顕し、熊野の本地は弥陀の信仰より之を弥陀直授の神勅相承と呼ばれる。
之れ上人成道の聖節にして名を改めて一遍と称し遊行賦算を本宮より始め、南は鹿児島、北は陸中岩手まで四十ヶ国に及び悩める者を助け病める者を救ひ、民衆に和と慈愛の心を説き、社会福祉、社会教化につとめ、神勅遊行賦算の途、正応二年(紀元一九四九年)齢五十一歳にして神戸兵庫に於て、身に唯衣一つにして往生せらる。
わが化導は「一期ばかりぞ」といわれ、自坊もなく、宗派を形成することもなく、遷化され、後世時宗の開祖となられる。時宗独一念仏開顕の源泉たる熊野本宮の聖地に、一遍上人の聖徳を偲び、今日上人真筆の名号碑を建立、熊野大神の御神意を敬仰し、念仏の衆徒をはじめ、信、不信を問はず謹みて神勅独一念仏の功徳を念願するものなり。 敬白
   昭和四十六年四月拾四日   熊野別当三十四代   九鬼 宗隆
                 筆      者   永田鱗谷書  」

南無阿弥陀仏の碑 「南無阿弥陀仏」の碑 熊野本宮大社 (平10.3)

神勅名号碑 「一遍上人神勅名号」碑 熊野本宮大社 (平10.3)

一遍上人爪書きの岩  和歌山県本宮町湯峰

また、近くの湯の峰温泉の熊野古道には一遍上人爪書きの岩がある。道端に突き出た崖を磨いて刻んだ磨崖碑で、上部には阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)を表わす3つの梵字が刻まれ、中央には南無阿弥陀仏の六字名号。その両側にも、風化して判別がつかないが、文字が刻まれた痕跡がある。『西国三十三所名所図絵』によると、
    奉 法 楽
  熊野三所権現十万本卒塔婆并百万遍念仏書写畢
   南 無 阿 弥 陀 仏
  乃至法界衆成所願也正平廿年八月十五日勧進仏子敬白
と書かれているという。
正平二十年(1365)とは、一遍が亡くなってから76年後のこと。したがってこの名号碑は、後世の時衆の念仏聖が爪書きしたもので、それをのちに一遍上人その人が爪書きしたのだと伝えるようになったのであろうという。

爪書き岩 一遍上人爪書きの岩 和歌山県本宮町湯峰 (平10.3)

無量光寺、一遍上人像、なぎの木,  一遍上人供養塔  相模原市当麻

一遍上人は諸国を遊行し、奥州までも行脚したが、鎌倉入りを志して相模原市の当麻山無量光寺の地に止錫した。ここには前後3回、計3年半、一生を通じ最も長く逗留した金光院の址で、寺内に一遍上人の供養塔、一遍上人の像、杖を挿して根づいたというなぎの木がある。

無量光寺 無量光寺 相模原市当麻 (平8.5)

一遍上人無量光寺 一遍上人像 無量光寺 (平8.5)

なぎの木無量光寺 なぎの木 無量光寺  (平8.5)

一遍上人供養塔 一遍上人供養塔 無量光寺 (平8.5)

遊行寺、一遍上人像  藤沢市西富

公式には清浄光寺であるが、遊行上人の寺ということから広く一般に遊行寺と呼ばれる。宗祖は一遍上人であるが、この寺は遊行四代の呑海(どんかい)上人によって開かれ時宗の総本山となっている。境内には一遍上人の像がある。

遊行寺 遊行寺 藤沢市西富 (平3.5)

一遍上人像遊行寺 一遍上人像 遊行寺 (平3.5)

常念寺、一遍上人像  足利市通

一遍上人の法孫が遊行中、荒廃した寺の再建に尽力されたといい、境内に一遍上人の像がある。

常念寺 常念寺 足利市通  (平8.1)

一遍上人像常念寺 一遍上人像 常念寺 (平8.4)

真光寺、一遍上人の墓、遊行柳 神戸市兵庫区松原通

日本全国を16年間にわたって行脚された一遍上人もこの地和田の御崎島観音堂において正応2年(1289)8月、51歳で入寂した。境内に規模壮大な一遍上人の墓が祀られ、庭内に遊行柳も植えられている。

真光寺 真光寺 神戸市兵庫区松原通 (平8.9)

上人の墓真光寺 一遍上人の墓 真光寺 (平8.9)

遊行柳真光寺 遊行柳 真光寺 (平8.9)


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