長等神社歌碑

謡蹟めぐり  忠度 ただのり

ストーリー

藤原俊成の没後、その家人の一人が出家し西国行脚に出掛けます。須磨の浦である一本の桜の木に手向けをする老人に出会います。
僧が一夜の宿を乞うと、老人はこの花の陰に勝る宿はあるまいと言い、「行き暮れて木の下陰を宿とせば・・」と詠んだ平忠度がここに埋められていることも語り、僧に弔いを頼みます。そして実は自分こそがその忠度であることをほのめかし、姿を消します。
その夜、花影に仮寝する僧の夢の中に甲冑姿の忠度が現れ、自詠の歌が「千載集」に入選したが、朝敵のため読み人知らずと記され遺憾に思っており、これを俊成の子定家に伝え作者名を明らかにしてほしいと訴えます。
そして出陣の折、俊成に自分の歌集を託したこと、一の谷で岡部六弥太に討たれた有様を詳しく再現して見せ、回向を頼むと桜の木の根元へ消えて行きます。(「宝生の能」平成13年4月号より)

忠度の墓 明石市、神戸市 (平9・4記)

忠度塚   明石市天文町

一の谷の戦いに敗れた忠度がこの近くの両馬川まで来たところで、六弥太に討たれその亡骸を埋めた所と伝えられる。堂の傍らには
「 平成7年1月17日午前5時46分の阪神淡路大震災により倒壊せる石碑等を修復す
     平成7年4月10日  天文町 忠度 町内会  」
と刻まれた石碑が建てられていた。忠度町と言われたこの町内の方々のあたたかい気持ちに忠度もさぞ喜んでいることと思う。

忠度塚 忠度塚 明石市 (平8.9)

腕塚神社  明石市天文町

ここは忠度の切り落とされた右手を祀るという。この祠は古いままのようであるが、神社の碑や石段などは震災後新しく造られたようで、ここでも地元の方々の思いやりが感じられた。

忠度腕塚 腕塚神社 明石市(平8.9)

腕塚堂   神戸市長田区駒ケ林町

ここも忠度最後の地といわれ、一の谷の戦いに敗れ駒ケ林を指して落ち行く途中、六弥太と戦い、首を討ち取ろうとしたところを、忠澄の家臣に右腕を切り落とされ、忠度は遂に静かに念仏して討たれたという。
この腕塚は忠度の切り落とされた腕を埋めた所と伝えられ、腕、腰、足の痛みがなおると人々から信仰されている由。以前は立派な祭壇や供養塔等があったそうだが、震災のため失われてしまった。現在は簡素な建物の中に祭壇が設けられていたが、やがて旧に復することを願っている。

忠度腕塚堂 腕塚堂 神戸市長田区(平8.9)

忠度の墓  神戸市長田区野田町

腕塚堂からほど近い野田町にも忠度の墓(胴塚)があるというので訪ねたが、無惨にも墓が根元の部分から折れたままになっており、震災の影響をいやという程見せつけられた。
古い写真を見るとかなり大きなもので「正四位 薩摩守・・忠度墳」と刻まれているようだが、最後の「墳」という文字しか読みとれない。いずれ、明石市の忠度塚のように修復されることを祈るのみである。

忠度胴塚 忠度の墓 神戸市長田区(平8.9)

忠度、六弥太の墓 埼玉県

埼玉県深谷市の清心寺にも忠度の墓があるが、岡部六弥太の墓などとともに「俊成忠度」の項で紹介したので、ここでは割愛する。

忠度歌碑 大津市三井寺町 長等神社境内 (平9・4記)

忠度が俊成に千載集に入れるよう頼んだ歌は、有名な
    さざ波や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな
であり、昔ながら、と長等山の桜、をかけた歌で、三井寺の近く長等神社の境内にその忠度歌碑がある。

長等神社 長等神社 大津市三井寺町 (昭63.3)

長等神社歌碑 長等神社と忠度歌碑 (昭63.3)

城南宮 京都市伏見区下中島宮ノ前町 (平9・4記)

ワキの道行に「城南の離宮に赴き・・」とある。城南の離宮は白河上皇が造成し、鳥羽・後白河上皇の3代にわたり院政が行われたところ。多くの建物が立ち並んでいたというが、現在は城南宮・安楽寿院を残すのみである。

城南宮 城南宮 京都市伏見区  (昭59.6)

忠度出生地 和歌山県新宮市熊野川町宮井 (平18・11記)

熊野川沿いの国道168号線の傍らに「薩摩守忠度朝臣出生之地」の標識があり、少し登ると忠度をまつる若宮神社がある。

忠度出生地 忠度出生地の標識 新宮市 (平10.3)

若宮神社 若宮神社 新宮市 (平10.3)


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