扇の芝

謡蹟めぐり  頼政1 よりまさ

ストーリー

諸国行脚の僧が、奈良路へ向うその途すがら、初夏の宇治の里を通りかかって美景に見入っていると、忽然と一人の老人が現れ言葉をかけます。老人は僧に名所を教えると、平等院に案内します。扇の形に残された芝を見て僧が質問すると、これは源三位頼政が扇を敷いて自害した跡だと説明し、今日が命日にあたり自分はその頼政の幽霊であると名のって姿を消します。
夜になると、頼政が在りし日の甲冑姿で現れ、僧に読経を頼み、敗戦の様子を物語ります。平家に敗れた頼政軍は奈良に赴く途中、高倉の宮の疲労がひどいので平等院に陣を構え、宇治橋の橋板を取り外して敵を待ち受けました。こうして源平は川を挟んだ戦いとなりましたが、平家方の田原又太郎忠綱が馬を川に乗り入れ、平を見事に指揮して対岸に乗り上げました。このために味方は敗退し、老武者の頼政は辞世の歌を詠んで自害したのでした。(「宝生の能」平成10年5月号より)

平等院・扇の芝  (平5・1記)

だいぶ前にも訪ねたことはあるが、「源頼政」あるいは「扇の芝」を意識してここを訪ねたのは平成2年2月、西国札所めぐりと謡蹟めぐりで、奈良、高野山、和歌山方面を回った時である。
曲中にも出ている辞世の歌
    「埋木の花咲くこともなかりしに
            身のなる果は哀れなりけり」
は「扇の芝」の説明板にも書かれていた。

源三位頼政は「大江山」で有名な源頼光の直系(清和源氏の嫡流頼朝や義経は頼光の弟頼信の玄孫)の名門で摂津源氏の頭領だ。本来なら清和源氏の嫡流のはずが、いつの間にか嫡宗を頼信の流れに奪われて、摂津源氏は源氏の傍流となってしまっていた。
しかし、頼政はなかなか老獪な政治家で、保元の乱では崇徳上皇側に最初、接近しながら途中で後白河天皇側につき、亡き源義朝や現大相国の平清盛などとともに軍功をたてた。
平治の乱でも同じ源氏ということで、はじめは源義朝と組んだが、戦いがはじまると「作戦が納得できぬ」と中立を宣言。怒った義朝とその長男義平が頼政の非をなじって戦闘をしかけると「止むを得ぬ」という形で応戦・・・
結果的には平清盛を助け、戦後は巧みに平氏との関係を保って昇殿も許され、平清盛の奏請で『従三位』という高位にのぼって公家の仲間に入り、実に巧妙に世を生きのびてきた。
しかし、あまりにも凄まじい平氏の驕りに平氏打倒の決意を固めた。そして以仁王に接近、打倒平氏を説いてついにクーデターに立ち上がらせた。時に頼政七十六歳。
クーデターは失敗、頼政は曲中に語られている経過で、平等院の庭の面、芝の上に扇を敷いてそこで最後を遂げた。まさしくその辞世の歌のように平氏の栄華の陰に隠れた「埋もれ木」のような生涯であった。
けれども、これが導火線となって、頼朝、義仲が相次いで挙兵、義経の活躍となって、平家滅亡につながるのだ。その源氏も間もなく北条氏に滅ぼされてしまうのだが・・・平等院境内「頼政の墓」に眠る頼政は時代の推移をどのように眺めているのだろうか。

(補足 平12・4記)

その後、平成8年4月に宇治周辺を訪ね平等院にも立ち寄ったので、その時撮った写真も紹介しながら若干説明を補足のこととする。

平等院 平等院 本堂の鳳凰堂 宇治市 (平8.4)

扇の芝 扇の芝 本曲の中心 平等院内 (平8.4)

観音堂(釣殿) 観音堂(釣殿) 平等院内 (平8.4)

平等院は源融の別荘が建てられた所で、曲中に謡われる釣殿は融が釣を楽しんだ所であり、昔はこの下を宇治川が流れていたという。

頼政の墓 頼政の墓 平等院内 (平8.4) 自刃後の頼政の墓は平等院塔頭の最勝院不動堂内にある

頼政の碑 頼政の碑 平等院内 (平8.4) 最勝院隣りの浄土院の門内に建っている

宇治川朝日山 宇治川と朝日山  宇治市 (平8.4)
曲中に「名にも似ず月こそ出づれ朝日山」と謡われる朝日山は平等院から見ると宇治川の対岸にある。

恵心院 恵心院 宇治市 (平8.4)
「いか様恵心の僧都の御法を説きし寺」と謡われる寺で、これも宇治川の対岸にある。

宇治川と馬たち(平5・1記)

当時、琵琶湖から流れ出す宇治川は現在よりも水量多く、その急流は天然の要害だったようだ。この要害を頼みにして平等院に立てこもった頼政だったが、田原の又太郎忠綱が指揮する馬の集団、馬筏で宇治川を突破されたのが敗因となった。時に治承四年(1180)5月25日。
これから四年後の元暦元年(1184)1月20日、今度は源義経がこの宇治川で木曽義仲軍と戦うこととなる。いわゆる宇治川の先陣争いである。佐々木四郎高綱の「池月」、梶原源太景季の「磨墨」、ともに鎌倉の頼朝から拝領した名馬にまたがって、この宇治川に乗り入れ先陣を争い、これによって義経軍を勝利に導いた。
今、宇治橋に立って眺めると現在でも水量豊富、とても馬で渡ったとは思えないが、往時の関東武者と馬は凄かったものと思う。もっとも「藤戸」では馬で海を渡るのだから、川くらいは平気だったのだろうか。

宇治川先陣の碑 宇治川先陣の碑 宇治市橘島 (平8.4)

頼政・菖蒲御前      (平12・5記)

頼政に関する旧蹟は平等院のほか全国に沢山あるようだが、私の訪ねた所を紹介する。

矢止めの松碑

四国の善通寺あたりは往時頼政の荘園であったという。頼政は筆山に住む百足を退治しょうと、ここから遠矢を射たが一本目も二本目も松が邪魔して矢が止まり、三本目で漸く退治したので、この松を矢止めの松と呼んだという。
頼政の自刃後、家臣が頼政の遺髪を持ち帰り祠に納めてその霊を弔ったのが、若宮であるという。碑には頼政の次の歌が刻まれている。
   庭の面は まだ乾かぬに 夕立の
          空さりげなく 澄める月かな

矢止めの松碑 矢止めの松碑 善通寺市弘田 (平8.4)

頼政の首塚、頼政神社

宇治平等院にある頼政の墓は胴塚で、首を葬った首塚の伝承は各地にあるようである。京都府亀岡市にある首塚は家来がその首をこの地に葬ったものと伝えられる。亀岡の地は頼政が鵺を退治した功績により賜ったものと言われる。  千葉県印西市にも頼政塚があるといい、竜ヶ崎市にも形ばかりの小祠であるが、頼政神社があり、いずれも家臣が携えた首級の墳墓と伝える。
高崎市の頼政神社は首塚ではなく、松平輝貞公(大河内氏)が高崎藩主に封ぜられた時、元禄11年(1698)その祖先の頼政公も祀って建てたものと言われる。

頼政の首塚 頼政の首塚 京都府亀岡市 (平6.11)

頼政神社 頼政神社 竜ヶ崎市米 (平8.9)

頼政神社高崎 頼政神社 高崎市宮元町 (平7.3)

菖蒲御前

菖蒲(あやめ)の前は、鳥羽上皇に仕えた美女の譽れ高い官女で、長年頼政が恋慕していたのを漸く上皇の計らいで娶った頼政の正妻である。
頼政は出陣に先だって菖蒲をその生地の伊豆長岡に帰した。伊豆長岡のみろく山山麓の西琳寺には「菖蒲御前の供養塔」や、菖蒲御前が頼政の死後、思慕の思いを墨染桜に託して植えたという「美女桜」がある。
菖蒲御前はその後、沼津市西浦河内に移り、仏門に入って西妙と号し、禅長寺を建立、頼政の菩提を弔って89歳の長寿を保ったという。禅長寺の頼政堂には頼政木像、菖蒲御前木像、が安置され、寺の裏山には、頼政菖蒲の墓、菖蒲塚などがある。

菖蒲御前供養塔 菖蒲御前供養塔 西琳寺 伊豆長岡町 (平5.12)

頼政堂 頼政堂 禅長寺 沼津市西浦河内 (平7.4)

頼政木像 頼政木像 頼政堂 (平7.4)

菖蒲御前木像 菖蒲御前木像 頼政堂 (平7.4)

頼政菖蒲御前墓 頼政菖蒲の墓 禅長寺 (平7.4)

菖蒲塚 菖蒲塚 禅長寺 (平7.4)


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