東国より都に上って来た旅僧が、東北院を訪れ、折から花盛りの一本の梅の木を見て感じ入っています。そこへ美しい里女が現れ、その梅の花は和泉式部が植えて「軒端の梅」と名付けたという由緒や、寺の方丈は式部の寝所であったことなどを語ります。そして僧に読経を頼み、自分が梅の木の主であることを告げ、消え失せます。
僧が先程消えた花の主の冥福を祈り読経をしていると、高貴な上臈姿で和泉式部の霊が現れ、昔関白藤原道長が、法華経を高らかに誦しながらこの門前を通られるのを聞いて、「門の外法の車の音聞けば我も火宅を出でにけるかな」と詠んだので、その功徳により死後、歌舞の菩薩となったと語ります。更に、和歌の徳や東北院の霊地であることを讃え、舞を舞って、やがて暇を告げ、方丈に入ると僧の夢は覚めます。(「宝生の能」平成13年2月号より)
曲中クセの部分に「出で入る人跡数々の、袖を連ね裳裾を染めて、色めく有様はげにげに花の都なり」とあるので、さぞ賑やかな所かと想像して訪ねたが、往時はともかくとして現在はひっそりとした静かな所で、東北院の境内も余り手入れされておらず、無人とおもわれる寺の境内に軒端の梅がある。
東北院 京都市 (平8.4)
軒端の梅 東北院 (平8.4)
調べてみるともともとの東北院は一条天皇の中宮上東門院(藤原道長の娘の彰子)の御願により道長が法成寺の東北に建立したもので、一旦廃絶したが、元禄年間に現在の左京区の場所に再建されたという。その元の場所が今の盧山寺の辺りとされ、現に盧山寺の境内に澗底の松と雲井の水がある。
この盧山寺のあたりならば京都御所と鴨川の間に位置し、往時も賑やかだったことが想像できる。この寺はまた紫式部の邸址で源氏物語執筆の場所ともいい、源氏庭もあることは「源氏供養」の項でも触れた。
澗底の松 廬山寺 (平5.9)
雲井の水 廬山寺 (平5.9)
天の橋立近く、文殊堂の境内に和泉式部の歌塚がある。もとは宮津街道山手の「鶏塚」に建てられてあったのが、明慶年間(1492〜)の水災で土砂に埋まったのでここに移されたという。鎌倉時代初期の頃、時の丹後国司藤原公基が日置の金剛心院から乞い受けた式部の歌を、あの小丘に埋めてこの塔を建てたという。
塔は明らかに鎌倉時代の作風をあらわし、重要文化財として市内にその類を見ない貴重な遺物とされている。
文殊堂 宮津市 (平6.11)
和泉式部歌塚 文珠堂 (平6.11)
四国の西南端の足摺岬に四国38番札所、弘法大師創建と伝えられる金剛福寺がある。この寺に渡辺綱が京都から来て多宝塔を再建した時、式部が綱に頼んで黒髪を埋め逆修したという。そこに逆修塔が建てられている。逆修とは生前に自分の菩提を弔うことであるが、別の説ではここで没した式部の墓であるともいう。
多宝塔 金剛福寺 (平9.7)
和泉式部逆修唐 金剛福寺 (平9.7)
京都府木津町の安福寺(平重衡の墓がある)の近くに和泉式部の廟所があり、裏に和泉式部の墓がある。伝承によれば式部は木津の生まれであり、宮仕えの後再び木津に戻り余生を過ごしたといわれるが、この伝承を裏付ける資料がなくて残念と案内板には記してある。墓そのものは高さ1.3メートルの五輪塔で立派なものである 。
和泉式部廟所 京都府木津町 (平8.4)
和泉式部の墓 (平8.4)
ここにも立派な墓や軒端の梅があるが、「誓願寺」の項で紹介したので省略する。