恵蘇八幡宮

謡蹟めぐり  綾鼓 あやのつづみ

ストーリー

筑前の国木の丸御殿の庭掃きの老人が、女御の御姿を見て恋慕の情に悩んでいました。この老人に、廷臣が女御の言葉を伝えます。それは、池辺の桂木に掛けた鼓を打って、その音が御殿まで聞こえたら今一度会ってやろうと云うのです。
老人はその鼓を見つめ、打って音が出るならば、そのときこそ恋心の乱れを静めることができるのだと、唯一筋に心をこめて鼓を打ってみますが一向に鳴りません。元より鼓は綾を張ったものなので鳴り響かないのは当然でした。なぶられたと知った老人は、いたく嘆き悲しんだ末、池に身を投げて恨み死にます。
まもなく、女御の様子がおかしくなると、老人の怨霊が髪を振り乱し、すさまじい形相で現れ、今度はかえって女御に綾の鼓を打ちたまえと責めさいなみます。そのために女御は物狂わしくなられ、そして、亡霊は無限の恨みを残したまま、再び池の中に消え失せたのでした。(「宝生の能」平成10年8.9月号より)

謡蹟 木の丸殿跡 福岡県朝倉町山田    (平6・4記)

福岡県朝倉町というと大分から久留米に至る久大線の中頃、筑後吉井という駅からかなり離れたところにある町で、東京に住む私にとってはかなり山奥の町といった印象が強い。このような所に本当に御殿と称するものがあったのか疑問に思って調べてみた。

皇極女帝が次代の孝徳天皇崩御後に重祚されて斉明天皇となったが、朝鮮の動乱に対し百済救援のため新羅に出兵すべく大本営を朝倉に進めた。斉明天皇は間もなく崩御(661年)、百済救援は続行されるけれども、白村江の大敗により日本軍は朝鮮半島から退くこととなる。
皇太子、中大兄皇子(後の天智天皇)は斉明天皇を葬った地に丸木のままの質素な行宮を造って服喪した。これが本曲の舞台となる木の丸殿である。

この木の丸殿あたりは現在恵蘇八幡宮となっている。応神、斉明、天智三天皇を祀り、白鳳元年の建立と伝えられる。私が訪ねた時は九州地方を猛烈な台風が襲った後で、各地とも屋根が飛ばされたり、山の大木が倒される等被害が続出していたが、この八幡宮も屋根の一部が破損して修理中であった。
境内には朝倉木丸殿舊蹟の碑がある。立派な石碑でやはり本当にここに往時御殿があったのだと思わせる。
八幡宮も石段をかなり登った高い所にあるが、その右手にまた鳥居があって、御稜山への入り口となっている。案内に従ってまた石段を登ると斉明天皇の御陵がある。

「   町指定史跡  斉明帝藁葬地
           所在地 朝倉町恵蘇宿恵蘇八幡宮境内
           指定日 昭和四十六年八月一日
朝倉橘広庭宮で崩御された第三十七代斎明天皇を一時葬った所と云はれる前方後円墳である。
陵上に方二間の石柵を巡らし「斉明帝藁葬地」と刻し、中央に塔石が建っている。これは元禄八年、社僧快心法印の建立によるものであるが、嘉永六年に竹井氏が再建したものである。尚快心法印の墓は中腹の墓地に現存している。
皇太子中大兄皇子は御陵下に丸木の庵を作り喪に籠られた所が木の丸殿である。
朝倉町教育委員会 」


御陵を目のあたりに拝し、この説明を拝読して、半信半疑でここを訪ねた私も納得せざるを得なかった。かなり高い所に登ったので、このあたりから眺める筑後川の眺めは素晴しい。近くに歌碑が建っていた。
 「この流れ いく日を經なば 海原にそそかむ 想いはろけくなりぬ 一路」
歌碑の裏面には
「 一路 手島勇次郎(1892〜1979)先生が福岡市で月刊歌誌「ゆり」を創刊されて40年がたちました。これを記念して古里の地に筑後川の歌碑を建立しました。
 先生の霊 来遊して往時を偲んでください。昭和六十年十一月  ゆり短歌会 」
と刻まれてあった。
なお、近くには百人一首に出てくる天智天皇の
「秋の田の刈穂のいおの苫をあらみ わが衣手は露に濡れつつ」 の歌碑や、
老人が身を投げた「桂の池址」もあるようだが、残念ながら見逃してしまった。

<追記 平12・7>
天智天皇の「秋の田の・・」の歌碑は恵蘇八幡宮の近くにあり、平成8年に訪ねた際写真に収めることができた。「桂の池址」の詳細は次の項を参照されたい。

恵蘇八幡宮 恵蘇八幡宮 このあたりに木の丸殿があった 福岡県朝倉町山田 (平3.10)

木丸殿址碑 朝倉木丸殿旧蹟の碑 恵蘇八幡宮 (平3.10)

斉明天皇御陵 斉明天皇の御陵 恵蘇我八幡宮 (平3.10)

斉明天皇御陵入口 御陵への入り口 この石段を登ったところに御陵がある 恵蘇我八幡宮 (平3.10)

筑後川の流れ 筑後川の眺め 恵蘇我八幡宮 (平3.10)

天智天皇御製歌碑 天智天皇御製歌碑 「秋の田の刈穂のいおの苫をあらみ わが衣手は露に濡れつつ」が刻まれている  恵蘇我八幡宮近く (平8.5)

桂の池跡、朝倉宮跡  福岡県朝倉町  (平12・7記)

朝倉町の恵蘇八幡宮を訪ねたのは前述のとおり平成3年10月のことであった。その時は桂の池その他の所在もわからず、また是非英彦山にも廻りたかったので、恵蘇八幡宮以外は割愛してしまった。
その後、平成7年から教授嘱託会の謡曲名所めぐりの担当を仰せつかり、平成8年には北九州、長門路の旅を企画することになった。この時前に訪ねた経験を思い出し、候補地にこの朝倉町の綾鼓関係の史跡と英彦山神宮を挙げてみた。幸い正式に認められたので、下見と本番と二回この地をたずねる機会を得たので、前回見逃した所も訪ねる機会を得た。

本曲の舞台、桂の池跡は恵蘇八幡宮から5キロほど離れた入地地区にある。水はなくかなり広い庭園のようになっており、桂の池跡の碑、第十七世宗家宝生九郎師綾鼓演能記念碑など石碑が多く建てられている。往時、このあたり一帯は大きな池であったといい、斉明天皇が朝倉橘広庭宮に移られた時、この池で船遊びの宴を催されたと伝えられている。
池跡から少し離れたところにある福成神社の傍らには庭掃き老人、源太のために村人が建てたという墓と地蔵尊がある。福成神社は景行天皇が九州遠征のおり、海上守護神を祀ったといい、後に斉明・天智両天皇も合祀されている。

桂の池跡 桂の池址 福岡県朝倉町入地 (平7.11)

福成神社 福成神社 福岡県朝倉町入地 (平8.5

源太の墓 源太の墓 福岡県朝倉町入地 (平8.5)

桂の池跡から4キロほど離れた須川地区に斉明天皇の宮殿跡といわれる「朝倉橘広庭宮跡」がある。ここにかなり詳細な説明板が掲げられており、この地に何故天皇が来られたのか経緯を記しているので少し長くなるが紹介する。

『 4世紀末朝鮮半島は百済、高句麗、新羅の三国に分割され、7世紀に至るまで和戦を繰り返していたが、660年7月、百済はついに新羅、唐の連合軍に滅ぼされ、同年10月、かってから親交関係にあった日本へ使者を遣わし救済の要請をしてきた。
斉明天皇と中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、中臣鎌足らと共に難波の港から海路筑紫に向かい、1月14日四国の石湯行宮に到着し、3月25日那大津(博多)に至り、磐瀬宮(三宅)をへて5月に朝倉橘広庭宮(あさくらたちばなのひろにわのみや)に遷られた。しかし天皇は滞在75日(7月24日)御年68歳で病の為崩御された。
現在、朝倉橘広庭宮の所在は分かっていないが、地元の伝承では「天子の森」付近だといわれており、本町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の境内付近には、中大兄皇子が喪に服したといわれている「木の丸御殿」や斉明天皇の御遺骸を安置したといわれる「御稜山」が存在する。 』
この地区には大きな朝倉橘広庭宮の蹟碑や、天子の森、朝倉町の名の起源になったともいわれる朝闇神社、つり鐘が埋められているという伝説のある猿沢の池など、往時を偲ばせる遺跡が数多く保存されている。

天子の森 天子の森 福岡県朝倉町須川 (平7.11)

朝闇神社 朝闇神社 福岡県朝倉町須川  (平7.11)

猿沢の池 猿沢の池 福岡県朝倉町須川  (平7.11)

朝倉橘広庭宮跡 朝倉橘広庭宮跡 福岡県朝倉町須川  (平7.11)

朝倉神社   高知市 (平12・7記)

高知市朝倉に朝倉神社があり、ここでは朝倉宮、木の丸殿はここだと主張している。
「朝倉神社のあらまし」には次のように記されている。

「・・・斉明天皇七年朝倉宮に行幸せられ仮の御殿を丸木で造られたので、木の丸殿と申されました。御子天智天皇は「朝倉や木の丸殿に我居れば名乗りをしつつ行くはたが子ぞ」と御詠みになられております。そしてのち天智天皇の勅語により斉明天皇を朝倉の宮に合せ祀られたとの事であります。・・・」

この神社の起源は古く、もと勅願所であったともいい、由緒深い神社である。国の重要文化財にも指定されており、建築は室町時代の手法を含む江戸初期の建物で、日本古来の様式に唐天竺の様式を加味し、絶頂の技をつくした極彩色のところなどは日光東照宮のようであるという。

朝倉神社 朝倉神社 ここにかって朝倉宮があったという 高知市 (平9.4)

朝倉神社社殿 倉神社 華麗な社殿に驚かされる 高知市 (平9.4)


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