範頼神社

謡蹟めぐり  七騎落8 源範頼、頼家、一幡について

源の範頼・頼家・一幡について (平8・4記)

範頼は義朝の第六子で頼朝の弟にあたる。母は遠江の池田の宿の遊女であり、遠江の蒲御厨(かばのみくりや)で生まれたため蒲冠者と呼ばれた。頼朝の命により義経とともに義仲を討ち、一の谷に平家を破り、三河守の任ぜられた。

石薬師寺、蒲冠者範頼神社、蒲桜 三重県鈴鹿市石薬師町

石薬師寺は、範頼が平家追討の戦勝祈願をしたと言い、近くに範頼を祀る蒲冠者範頼神社と範頼が桜の鞭をさして根づいたという蒲桜がある。

石薬師寺 石薬師寺 三重県鈴鹿市石薬師町 (平3.4)

範頼神社 蒲冠者範頼神社 石薬師寺 (平3.4)

蒲桜 蒲桜 石薬師寺 (平3.4)

修禅寺、範頼の墓     静岡県、横浜市

義経が頼朝の追討を受け、平泉で死んでから4年後、範頼も頼朝の猜疑の対象となって建久4年、伊豆修善寺の修禅寺に幽閉され、梶原景時に攻められて自害した。修善寺の温泉街の山手に範頼の墓がある。
また一説によると範頼は修禅寺から農夫の姿で脱出、横浜市の六浦に逃れたが、結局追いつめられて自刃したという。片吹の大寧寺に従者の墓に囲まれて範頼の墓がある。

修禅寺 修禅寺 静岡県修善寺町 (平7.4)

範頼の墓修禅寺 範頼の墓 修善寺町 (平7.4)

範頼の墓修禅寺 範頼の墓 横浜市金沢区片吹 大寧寺 (平7.1)

指月殿、頼家の墓  静岡県修善寺町

頼朝の死後、父の後を継いで18歳で鎌倉幕府の二代目将軍となった頼家は、父の歿後専横になった北条氏を押さえて幕府の基礎作りに懸命であったが、大きくゆれ動く時流と、みにくい駆け引きに終始する政争に敗れ、在位わずかに6年で、この修善寺に流され、元久元年、北条時政の手で入浴中に暗殺された。享年23歳であった。
指月殿は、頼家の母政子が、政争の犠牲となった実子頼家の菩提所として建立したものである。この建物の裏手に頼家の墓がある。

修善寺を訪れた文人たちも範頼と頼家の哀しい非業の死を詠んでいる。

俳人正岡子規
     此の里に かなしきものの 二つあり 頼家の墓と 範頼の墓と
釈迢空(折口信夫)
     湯の山に 鐘鳴り出でぬ 範頼も頼家も あわれみし 鐘の声聞ゆ
夏目漱石
     範頼の 墓濡るるらん 秋の雨

また、岡本綺堂の作品に頼家の非業の死を描いた「修禅寺物語」がある。

指月殿 指月殿 静岡県修善寺町 (平7.4)

頼家の墓 頼家の墓 指月殿 (平7.4)

比企能員(よしかず)邸址碑、比企一族の墓、一幡の墓  鎌倉市大町 妙本寺

比企尼(ひきのあま)は頼朝の幼児時代からの乳母であった。頼朝が伊豆に流された頃には武蔵国比企郡(埼玉県東松山付近)に住み着き、そこから頼朝に食料を送り生活上の面倒を見ていた。尼の長女の婿、武蔵国安達盛長は頼朝のそば近く仕えつねに忠勤を励んだ。
武蔵国の豪族河越重頼の娘は義経の妻となるが、この娘は比企尼の孫娘にあたる。
幕府の成立後、尼の甥にあたる能員をはじめ、比企一族は重用され、政界の一勢力を占めていたが、政子が頼家を生みおとした鎌倉比企ガ谷の家も、その一族の屋敷だったらしい。比企尼の娘が頼家の乳母として養育にあたり、成長した頼家はやがて、比企能員の娘若狭局を妻として長子一幡をもうけることとなる。頼家にとっては能員以下の比企一族は、この上ないうしろだてであったのである。
しかし頼家は急病にかかり危篤状態になると、頼家のあとは6歳の長男一幡がつぎ、日本国総守護と関東28カ国の総地頭となり、12歳の弟千幡(実朝)には関西38カ国の総地頭を譲ると発表された。これを聞いておさまらないのが、頼家側の黒幕比企能員である。一幡があとをつぐからには、全国の総守護・総地頭となるのが当然なのに、半分以上を実朝に譲るとは何事かという訳である。
政子や時政らが仕組んだことに違いないと北条氏征伐のはかりごとを相談した。しかしこれは北条時政の知るところとなり、仏事にかこつけて能員を自宅に招待これを殺すとともに、比企一族を襲い一幡の屋敷に火を放ち一族を皆殺しにしてしまった。一幡の死も確認され人々の涙を誘った。
頼家は修禅寺に幽閉されやがて殺される。実朝が三代将軍となるが、これも鶴岡八幡宮の石段わきの銀杏の大木の木かげからおどり出た一幡の弟公暁によって殺されてしまう。さらに公暁も北条時政の手の者によって討ち取られてしまい、頼朝の直系の子孫は断絶してしまった。
鎌倉市大町の妙本寺は比企能員の邸宅の跡といわれ、寺の境内には比企能員一族の墓、源頼家卿嫡男一幡君御廟所の碑がある。

比企一族の墓 比企一族の墓 鎌倉市大町 妙本寺 (平6.12)

比企能員邸址碑 比企能員(よしかつ)邸址碑 妙本寺 (平6.12)

一幡の墓 一幡の墓 妙本寺 (平6.12)

むすび (平8・4記)

頼朝に関連した概説を一応終ることとする。この項の記述にあたっては、木本誠二氏の「謡曲ゆかりの古蹟大成」や、青木実「謡蹟めぐり」を参考としたが、次の資料も大変興味深く、引用させていただいた個所もあるので参考までに掲げてみる。

・ 中公文庫 石井進著 日本の歴史7 鎌倉幕府
・ 角川文庫 日本歴史探訪6 源平の争乱
・ 講談社  山岡荘八歴史文庫 源頼朝  1、2、3
・ 文春文庫 司馬遼太郎 義経 上下
・ 小林豊著 修善寺の歴史
・ 長倉書店 岡本綺堂著 修禅寺物語
・ 関係市町村、神社仏閣の冊子、パンフレット、説明解説
・ 4月9日放映、NHK堂々日本史「源頼朝」

それぞれの歴史観というか、頼朝や義経に対する考え方もそれぞれに違っていて、これらを比較しながら、また、自分の訪ねた謡蹟を思い出しながら読み進むと興味はつきない。
特に安房に上陸した途端、東国の武士たちが頼朝の下に馳せ参じたのは、彼が「平家打倒ではなく、関東独立」を旗印に掲げたため、税や役務に苦しんでいた貧しい関東武士の要望にぴったり合致したからという解釈は私には新鮮であった。
頼朝というと冷酷な人というイメージが強く好きになれないが、歴史を転換させた大人物であることは間違いない。整理してみると彼に関係する謡蹟をかなり沢山訪ねているのに驚いた。今後も「七騎落」を謡うたびにいろいろの光景、人物等を思い出させてくれることであろう。


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