生田神社

謡蹟めぐり  生田敦盛 いくたあつもり

ストーリー

黒谷の法然上人は、ある時男の捨子を拾いあげて連れ帰り育てます。その子が十歳になった時、父母のないことを不憫に思い、説教の後聴衆に向かってその事を物語りました。すると若い女性が我が子であると名乗り出、子供の父は一ノ谷で討たれた平敦盛であると言います。幼児はそれを聞き、夢で父に会うことを願って加茂の明神へ祈誓をかけます。
すると御霊夢の中で、父に会いたく思うのならば生田へ行けとのお告げがあったので従者に伴われて生田の森へ赴きます。日が暮れてある草庵に立ち寄ると、中に若武者が一人いて、我こそが敦盛であると名乗ります。親子の対面を喜びあった後、敦盛は昔の軍物語をしますが、ふいに修羅道の責め苦にさいなまれて苦しむ様子を見せます。しかし夜明けと共に我に返り我が子に早く帰ってあとを弔ってくれと言い残して消え去ります。(「宝生の能」平成10年12月号より)

黒谷、賀茂の明神、下り松、生田の森 (平12・10記)

黒谷の法然上人が賀茂の明神に参詣の時、下り松で男の子を拾いあげて帰るが、この子10歳のとき、夢の告げにより生田の森に出かけ父に対面するという物語である。
「黒谷」とは俗に黒谷さんと呼ばれ親しまれている金戒光明寺で、浄土宗の大本山である。寺伝によれば承安5年(1175)、法然上人が浄土宗の確立のために、比叡山西塔の黒谷にならってこの地に庵を結んだのがこの寺の起りと伝えられる。「敦盛」の項でも紹介したように、境内には熊谷直実と平敦盛の供養塔2基が建てられている。
「賀茂明神」とは下鴨神社(賀茂御祖神社)と、上賀茂(賀茂別雷神社)の総称と思われる。詳細は「加茂」の項で触れる予定で、ここでは曲中に「糺の神」の言葉があるので糺の森もあり、しかも黒谷さんに近い下鴨神社の写真を掲げることとする。
「下り松」は一般に一乗寺下り松と言われるが、これは黒谷から賀茂明神への通り道ではなく、かなり東北に寄り道しなければならず、今の知恩寺(百萬遍)にあった一条下り松とする説もあるようである。一乗寺下り松は楠正成がここに陣を敷いて足利尊氏の軍勢を迎え討った所といい、また宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘した物語の地として有名である。
「生田の森」は今は神戸市にある生田神社の境内となっている。三の宮の繁華街の真ん中によくこれほどの森が残っているものと感心させられる。生田神社も先年の震災で倒壊したが、現在はみごとに復旧されている。

金戒光明寺 金戒光明寺(黒谷さん) 法然上人開基の浄土宗大本山. 法然上人が比叡山を下りて草庵を結んだのが寺の起こりと伝える.京都市左京区 (平4.9)

下賀茂神社 下鴨神社 敦盛の遺子は賀茂明神に祈り霊夢の告げにより生田の森に向う. 京都市左京区泉川町 (平6.4)

一条下り松 一乗寺下り松 宮本武蔵の決闘で有名. 京都市左京区 (平8.4)

生田神社 生田神社 震災により倒壊したが立派に修復された. この境内に生田の森がある.神戸市中央区 (平11.9)

生田の森 生田の森 ここで親子は対面する. 神戸市 生田神社(平11.9

木曽の桟(かけはし)跡      (平12・10記)

曲中、クセの中、木曽義仲が都に攻め上り平家を西海に追い落とす場面に引用されている。桟とは、けわしい崖に橋をかけ、わずかに通路を開いたものである。
昔はけわしい岩の間に丸太と板を組み、藤づる等でゆわえた桟であったが、これが通行人の松明の火が原因で焼失した。そこで尾張藩は慶安元年(1648)、100メートル余にわたり石積みを造り木橋をかけた。その後何回か改修が行われたが、明治44年には中央線工事のため木橋は取り除かれた。現在石積みの部分は国道19号線の下になっているが、石積みはほぼその全貌が完全な姿で残され、寝覚の床とともに木曽路の名所となっている。

木曽の桟跡 木曽の桟跡 往時木曽路最大の難所であった. 長野県上松町 (平9.7)

法然上人について          (平12・10記)

法然の名は曲の冒頭に、ワキ(法然上人の従者)の言葉として「是は黒谷法然上人に仕へ申す者にて候」として出ている。
法然は浄土宗の開祖で、美作(岡山県)の人。比叡山に入り皇円・叡空に天台宗を学び、43歳の時専修念仏に帰し、迫害と戦って浄土宗の法門を開き、東山吉水(知恩院近くの安養寺が吉水の庵跡という)に草庵を結んだ。本曲に出る「黒谷」(金戒光明寺)も法然が庵を結んだ所という。また大原勝林院(三千院の近く)に南都北嶺の僧徒と会して法門を論じた(大原談義)。
親鸞も弟子となり、法然の名声が高まり貴賤を問わず帰依する者が続出する反面、他宗の嫉視や反感も激しくなった。後鳥羽院の女官が法然の弟子に帰依したことで、院の逆鱗に触れ、弟子は死罪になり法然も四国配流となった。
許されて京都に帰った法然は大谷の山上の小庵(現在の知恩院勢至堂の地)に入ったが、翌年病いで没した。
京都の知恩寺(百万遍)は法然上人が念仏道場とした所で、はじめ今出川にあったが、何回か移転した後今の左京区田中門前町に建立された。境内には法然廟がある。京都嵯峨の二尊院は嵯峨天皇が慈覚大師に勅して建立した華台寺の跡で、荒廃していたのを法然が庵を結び、その弟子湛空が寺を再興したものである。裏山には法然廟が建てられている。

智恩寺 知恩寺(百万遍) 法然上人が念仏道場とした所. 京都市左京区田中門前町 (平8.4)

智恩寺法然廟 法然廟 この門は念仏の念の字をかたどったという. 知恩寺境内 (平8.4)

二尊院 二尊院 法然が荒廃した寺に庵を結び再興した. 京都市右京区嵯峨 (平10.3)

二尊院法然廟 法然廟 裏山に法然廟が建てられている. 二尊院境内 (平10.3)


−ニュース−

曲目一覧

サイトMENU

Copyright (C) 謡蹟めぐり All Rights Reserved.