乗出し岩

謡蹟めぐり  藤戸 ふじと

ストーリー

佐々木盛綱は、源平の藤戸の合戦で先陣の功により賜った備前の児島に初めて領主として入ります。
まず、赴任の披露に領民の訴訟を聞こうとその触れを出すと、一人の老女が現れ、去年の戦の際に何の罪もない我が子が盛綱に刺殺されて海に沈められた恨みを申し立てます。盛綱は言い逃れようとしますが、子を思う親の執念に迫られ、遂に告白します。盛綱は藤戸の合戦で手柄を立てようと、浦の漁師から馬で渡れる浅瀬を案内させ、他言されないようにその男を二刀刺して海へ沈めたのでした。
老女は我が子を失った悲しみを訴え、我が子を返せと狂気したかのように泣き叫びます。盛綱は罪を詫び、弔いを約束して老女を家に帰します。
夜も更け盛綱が弔いをすると、憔悴した魚師の亡霊が海中から浮上し、命を奪った理不尽を責め、悪霊となって襲いかかろうとしますが、今供養を受けて成仏の身となったと告げます。(「宝生の能」平成10年11月号)

「藤戸寺」での奉謡  倉敷市藤戸町    (平2・5記)

本年5月18日、教授嘱託会の謡曲名所めぐりに参加して、念願の本曲の舞台藤戸を訪ねることができた。帰京し一夜を過ごしたばかりなので感銘新たなうちに思い出を書いてみよう。

前夜は四国の琴平町に泊まり、この日は最終日。金刀比羅様(朝食前)、善通寺に参詣して、瀬戸大橋を渡り、二つ目のIC「水島」を下りるとすぐ藤戸である。
この辺りは八百年前の源平合戦の頃は一面の海で、今の瀬戸大橋付近にあるような小さな島が点在していたそうな。(「藤戸源平合戦古戦場図」参照。点の部分は当時海だったところ)
いまはのどかな田園風景が広がっており、ところどころに小高い丘が見え、その間をを倉敷川がゆっくり流れている。
私たちが昼食をとった所は「山陽ハイツ」というところで見晴らしのよい丘の上にある。地図を見るとどうやらその昔「源氏の本陣」のあった所のようだ。

昼食後訪ねた所が「藤戸寺」。この辺がどうやら「平家の本陣」があった所である。この僅かな距離が海によって隔てられているとすれば、舟を持たない源氏が平家の軍勢を目前にして、なんとか馬で渡りたいという気持ちがわかるような気がする。
「藤戸寺」ではお寺の多大のご好意により、一行約80名が本堂に座り、本日のためにわざわざ取り出していただいた、佐々木盛綱、浦の男二人の位牌を前にして謡曲「藤戸」の一節(中入から最後まで)を奉謡させていただいた。
この時のシテ役を勤めたのが秋元さん、地謡は日本全国から集まった教授嘱託の面々。これ以上の場所と人を望めない「藤戸」の曲である。とりわけ秋元さんのシテ役は聴く人々に多大の感銘を与えたようで、謡いおわるとあちこちで称讃の声が聞かれた。住職さんも「きっと盛綱も殺された浦の男も喜んでおられることと思います」と言っておられた。境内にある盛綱が供養のために建てたといわれる「五重の石塔」や、寺宝の「藤戸大合戦絵図」「盛綱の木像」等を見せていただき、寺に関するお話をうかがって寺を辞した。

寺のすぐそばには倉敷川が流れており、この川に「盛綱橋」という名の橋がかかっている。橋柱には橋の名とともに盛綱主従が馬で海を渡っている図が刻まれており、また、橋の中央を過ぎると橋の上に大きな「盛綱の馬上姿の像」が目を引く。
橋を渡ると「経ケ島」。盛綱が源平合戦戦没者供養の折のお経を埋めた所だそうで、浦の男のためという塚もある。
ふたたび盛綱橋を渡って藤戸寺に戻り、西の方へ600米ほど行くとたんぼの中に「浮州の岩の碑」がある。「あれなる浮州の岩の上に我をつれて行く水の、氷の如くなるかたなを抜いて、胸のあたりを刺し通」されて、浦の男が殺された所である。この岩は京都醍醐寺の三宝院の庭に移された由。

このほか、浦男の母が盛綱を怨み、「ササ」と聞くだにも憎らしいとて島の笹をむしりとり、笹が生えなくなった島という「笹無山」、盛綱がここから馬で渡ったという「乗出岩」、源氏軍の上陸点といわれる「先陣庵」等もあるが、時間の関係で割愛された。
              (平成2年5月19日記す)

(補足 平10・11記)

平成2年5月に藤戸寺のことを書いた後、翌3年には醍醐寺の三宝院を、平成9年9月には、小豆島での戦友会の帰途、再びこの地に来て前回割愛された所もたずねたので、簡単な説明と写真を添えることとする。

藤戸寺 藤戸寺 倉敷市藤戸町 (平2.5) この辺りに平家の本陣があった。合戦の後ここで盛大な法要が行われた

藤戸地図 藤戸源平合戦古戦場図

藤戸奉謡 教授嘱託会会員による「藤戸」奉謡 藤戸寺  (平2.5)

藤戸位牌 佐々木盛綱・浦の男二人の位牌 藤戸寺 (平2.5)

五重塔 五重の石塔 藤戸寺 (平2.5) 盛綱が供養のために建立した

藤戸合戦図 藤戸大合戦絵図  藤戸寺 倉敷市藤戸町 (平2.5)

山陽ハイツ 山陽ハイツ 倉敷市有城  (平9.9) 佐々木盛綱の本陣があったところという

盛綱橋 盛綱橋  倉敷市藤戸町 (平2.5) 藤戸寺の近くにあり、盛綱主従が馬で海を渡る図が描かれている

盛綱像 盛綱の馬上姿の像 倉敷市藤戸町 (平2.5) 盛綱橋の中ほどに盛綱が馬で海を渡る像がある

八百年記念碑 源平藤戸合戦八百年記念碑 (平2.5) 盛綱橋の近くに記念碑が達つ

経ケ島 経ケ島 倉敷市藤戸町 (平9.9) 盛綱が源平合戦戦没者供養の折のお経を埋めたところといわれる

漁夫の墓 漁夫の塚 倉敷市藤戸町 経ケ島 (平2.5) 経ケ島の小さい丘の上には盛綱に殺された浦の男のための塚がある

乗出し岩 乗り出し岩 倉敷市藤戸町 (平9.9) 盛綱はここから馬で海に乗り出したといわれる

先陣庵 先陣庵  倉敷市粒江 (平9.9) 源氏軍は海を渡ってここに上陸したという

笹無し山 笹無山 倉敷市藤戸町 (平9.9) 浦の男の母は佐々木盛綱を怨み「ササ」と聞くだけでも憎いと、島の笹をむしりとり、笹が生えなくなったという

浮洲岩 浮洲の岩の碑 倉敷市粒江 (平2.5) 浦の男はここで盛綱に殺された。熊沢蕃山の筆といわれる「浮洲岩」の文字が刻まれている。岩は豊臣秀吉により醍醐寺三宝院の庭園に運ばれた

藤戸石 藤戸石  京都市伏見区 醍醐寺 三宝院庭園 この藤戸石が浮洲の岩である。撮影禁止となっているので絵はがきを載せた

法輪寺 法輪寺  倉敷市羽島? (平9.9) 佐々木盛綱の本陣があったという山陽ハイツから更に北西の地に法輪寺があり、藤戸合戦の源氏の総大将、源範頼の本陣跡という。

源氏本陣跡 源氏本陣跡の碑 法輪寺境内 (平9.9)


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