源氏山

謡蹟めぐり  烏帽子折2 八幡太郎義家、安倍氏関係の謡蹟

八幡太郎義家、安倍氏関係の謡蹟      (平7・1記)

曲中にシテの言葉として「偖も某が先祖は、三条烏丸に候ひしよ、な、いで其頃は八幡太郎義家、安倍の貞任宗任を御追罰あり」なる文言がある。義家は本曲の直接の役ではないけれども、頼朝、義経の先祖にあたり、前九年、後三年の役で安倍貞任、宗任と烈しく戦っており、その史跡も多い。私の訪ねた所を記してみる。

(安倍)館  跡(たてあと) (岩手県衣川村)

『       館   跡
ここは単に館(たて)と称されているが、安倍頼時とその子貞任の居館跡と伝えられる。安倍氏は頼時の祖父忠頼の頃から上衣川の安倍館を本拠としたが、父忠度を経て頼良(後の頼時)の代にこの地に本拠を移したという。南北へ通じる主要道も館の東側を通し、それにともなう衣河関は館の東南にあたる「一丸の泥を以って封ぜは誰か敢えて破る者有らんや」の地とした。この地へ移転した年代は明らかではないが、遅くとも永承元年(1045)頃には完了していたものと考えられる。康平5年(1062)9月、貞任がこの地を撤退するまで、短期間ながら「前九年の役」の中心舞台となった。 』

人の背丈ほどのコンクリの塀に囲まれた丘の上には「向館跡」と書かれた木柱とまだ植樹されて数年しかたっていないような若い樹木が1本見られるだけである。

平成5年、NHKの大河ドラマで「炎立つ」が放映されると、このあたりはドラマの舞台として注目され、史跡も整備されたようである。この衣川村も安倍氏、藤原氏、義経・弁慶ゆかりの地として、いたる所に案内板が設置されている。
この安倍氏ゆかりのものとしても、この「館跡」のほかに「安倍一族鎮魂碑」「磐神社」「安倍館跡」「衣河関跡」「並木屋敷」「陣場跡」等があるが、あまり細かくなるので、説明、写真の掲載を省略する。

安倍館跡 (安倍)館跡(たてあと) 岩手県衣川村 (平6.5)

一首坂 (岩手県衣川村)

『 史跡 一首坂   源義家と安倍貞任の連歌のこと
陸奥守源頼義朝臣が貞任、宗任を攻めたとき、中略、貞任堪えられなくなり遂に城から出て逃げ落ちるところを頼義の長男八幡太郎義家が追いついて「ひとこと言いたいから少し待て」と声をかけた。貞任がふり向いたところへ「衣の館はほころびにけり」と下(しも)の句を詠み、上(かみ)の句を待った。
貞任は馬をとどめて義家に向い、間髪を入れずに「年を経し糸の乱れの苦しさに」と詠み、上の句を答えた。
弓に矢をつがえて答を待っていた義家はその上の句の返答に感じ入り、つがえた矢をはずして追撃を止めて帰った。これだけの大きな戦の最中でありながら、たいへん優雅なことであった。     「古今著聞集」(一二五四)より  』
この連歌を刻んだ石碑のほかに、両者が駒を止めた位置に「貞任石」「義家石」を配し、この坂の入口付近のアスファルトの道路には二騎の馬の蹄の跡まで刻むなど細かな心くばりがなされている。

一首坂 一首坂 (平6.5)

姫神山 (秋田県大曲市)

義家と貞任が今の大曲市あたりで対峙している間に、貞任の娘鹿姫が義家と恋仲となり、城を抜け出しては逢引しているうちに懐妊したので、貞任は怒って姫を姫神山の山頂に生き埋めにしたといわれる。

姫神山 姫神山 (平6.6)

金沢の柵址、金沢八幡神社、景政功名塚 (秋田県横手市金沢)

金沢の柵は前九年の役頃までは清原武則の居城で、後三年の役においては清原家衡、武衡が沼の柵から移ってきたので、源義家がこれを包囲し食糧攻めによって漸く陥れた古城で、四面断崖の天然の要塞である。
城址には八幡太郎義家が石清水八幡宮の神霊を勧請して創建したといわれる「金沢八幡神社」があり、境内には青銅の「御神馬」の像、義家が戦勝を記念して凱旋のおりに兜を埋めてその上に石を置いたといわれる「兜石」がある。
また、近くを流れる小川「厨川」には「片目かじか」の伝説がある。後三年の役に鎌倉権五郎景政は年僅かに十六歳の若武者で、常に陣頭に立って奮戦していたが、敵に右目を射られながらもその敵を射殺してしまった。同僚の三浦為次がその矢を抜いてやろうとしたが、容易に抜けないので、額に足をかけて抜こうとしたら景政は刀を抜いて為次を下から突こうとした。驚いてその訳を聞くと「弓矢で死ぬことは武士の本望であるが、生きながら面を足でふまれるとは、いかにも堪えられない。汝を仇として自分も死のうと思った」というのである。為次は無礼をわびて改めて膝を屈してその矢を抜いてやり、厨川の清水で傷を洗ってやったが、その後この厨川からは右目の見えない片目のかじかが出るようになり、景政の武勇に感じた珍魚として有名になり、明治以後三代の陛下の天覧を賜わっているとのことである。
景政は義家の命により敵の屍を集めてこの地に葬り、弔いのため、塚の上に杉を植えた。それが900年の歴史を語る巨木となっていたが、昭和23年火災にあい、幹だけを残し、今なおその昔を語っている。現在ではその杉の幹を覆うように大きな櫓が建てられ、「景政功名塚」として親しまれている。

金沢の柵跡 金沢の柵跡 (平6.6)

景政功名碑 景政功名塚 (平6.6)

金沢八幡神社 金沢八幡神社 (平6.6)

西沼、立馬郊、雁の乱れの壁画 (秋田県横手市 平安の風わたる公園)

『        雁行乱れる(上巻 第四段より)
八幡太郎義家の軍団は、金沢柵へ急ぐ。
沼の柵(雄物川)をすて、金沢柵にたてこもった家衡、武衡を攻めるためです。途中の仙南村山本地区一帯や甘辺川原の葦原には、義家軍の本陣が通り過ぎたあとを背後からふい撃ちにする作戦で、清原軍の兵が潜んでいます。清原軍の放った伏兵はより抜きの勇者ばかり三十余騎。秋色に染めたススキの原に身を潜め、息を殺してじーっと待っている兵の姿が静寂をだだよわせています。
伏兵があることをも知らない義家軍が、このあたりにさしかかろうとした時のことです。西沼の上を雁が一列に並んで飛んでいくのが見えました。ところが突然、その列が乱れたのです。これを見た義家は「まて、なにかあるにちがいない。くさむらの中を探してまいれ」と家来に命じました。兵たちは葦原の中に馬を乗り入れます。空には列を乱した雁が悲しげな目をして舞っています。
ここで場面に目を向けてみると、右手軍団の先頭に龍頭の兜をつけた武将がみえます。義家です。きりっと口元をむすび、大きな目は雁の乱れる大空を見すえています。従兵の目も空の一角をにらんでいます。左手に目をむけるとふいをつかれた清原兵が葦原の中で負傷している姿があります。両軍の頭上を乱れながら舞う雁のおびえたような目が戦いの成り行きを物語っているようです。
かって、兵学者である大江匡房に「器量は良いが合戦の道を知らない若武者だ」といわれた義家は、「兵が野に伏する時には雁が列を乱す」と匡房から学んだ兵法を思い出し、危機をのりきったのでした。
この「雁行の乱れ」の逸話は文武両道であらねばならないという武将のたとえ話として、広く伝えられています。  』 

以上長々と引用したのは、このあたりの史跡を中心に整備された「平安の風わたる公園」の中に設置された、いくつかの「後三年合戦」絵巻の壁画リリーフに刻まれた解説の一つである。学校で教わった覚えのある「雁行の乱れ」の物語がこのように立派に再現されているのを知って感激である。 
雁が乱れ飛んだという「西沼」には三連の太鼓橋が美しい曲線を見せ、その名も「雁橋」とつけられている。また、その雁の乱れを見つけた場所といわれる「立馬郊」といわれる場所にも木柱が立っている。このあたり一帯、「平安の風わたる公園」という優雅な名前の公園として整備され、数々の壁画のリリーフや、八幡太郎義家、藤原清衡、清原家衡、清原武衡と実際に戦った武将たちのブロンズ像が配置され、訪ねる人の目を楽しませている。

平安の風わたる公園 平安の風わたる公園 西沼 (平6.6)

立馬郊 立馬郊 平安の風わたる公園 (平6.6)

雁の乱れの壁画 雁の乱れの壁画 平安の風わたる公園 (平6.6)

春日山城址  (新潟県上越市)

春日山城は上杉謙信の居城として有名であるが、源義家が東征の折りに築城したものと伝えられる。

春日山城址

■■ 春日山城址 (平6.10)

甘縄神社 (鎌倉市長谷)

この神社も八幡太郎義家が再建に力を尽くしたと伝えられる。ここは安達盛長の邸址ともなっているので、「七騎落」のときにも触れたいと思う。

甘縄神社 甘縄神社 (平6.12)

兜神社(兜岩) (中央区日本橋兜町)

義家が奥州遠征のおりに、戦勝を祈願して兜をこの岩に掛けたと伝えられ、兜町の地名もこれに由来するとのことである。東京証券取引所のすじ向いで、首都高速道路が頭上に覆いかぶさるように走っており、義家もあまりの変わりようにびっくりしているのではなかろうか。
また、近くの「鎧橋」にも義家が下総国(千葉県)に渡ろうとしたが、嵐のため船が出せず、自分の鎧を水中に投じると波がおさまったという伝説が残されている。

兜神社 兜神社 (平7.1)

兜石 兜石 (平7.1)

<追記 平13・4記>
 その後、勿来の関址、飯野八幡宮、源氏山を訪ねたので補足する。

勿来(なこそ)の関址 (福島県いわき市)

義家が凱旋のときこの勿来関で
   吹く風を勿来の関と思えども 道もせに散る山桜かな
と詠んだとつたえられる関の址で、馬上の義家の像、歌碑、鞍掛けの松、弓弭の清水などがある。

八幡太郎義家の像 八幡太郎義家の像 関址の碑の隣りに建つ (平12.4)

義家歌碑 「吹く風を」の歌碑 勿来関址 (平12.4)

鞍掛けの松 鞍掛けの松 少憩の時鞍を掛けたという 勿来関址 (平12.4)

ゆはずの清水 弓弭の清水 弓の端で掘ったら清水が湧き出たという 勿来関址 (平12.4)

飯野八幡宮  (いわき市平)

義家の父頼義が陸奥守として赴任した時に、京都の石清水八幡宮を必勝祈願のため勧請したという。応神天皇、神功皇后を祀る。

飯野八幡宮 飯野八幡宮 (平12.4)

大崎八幡宮  (仙台市青葉区八幡)

前九年の役の後、義家が石清水八幡宮を勧請したものと伝える。

大崎八幡宮 大崎八幡宮 (平12.4)

源氏山 (鎌倉市)

義家が奥州攻めの際にこの源氏山の山上に白幡を掲げて気勢をあげたという。このあたり源氏山公園として整備され、公園には源頼朝の大きな像が建てられている。

源氏山 源氏山 源頼朝の像のある源氏山公園よりの眺望 (平13.4)


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