天の香具山

謡蹟めぐり  三山 みつやま

ストーリー

大原の良忍聖はかねて融通念仏を広めて歩いていますが、このほど大和の国に入ります。そして一人の里女に、このあたりの名所である三山について尋ねると、女は、香久、畝傍、耳無の三山を合わせて一男二女の山ということ、香久山に住む男が畝傍、耳無の二つの里の女と契って両方に通い、二人の女は互いに男を争って耳無の里の桂子はついに負けて池に身を投げて死んだことなどを語り、自分は桂子であるが自分の名を名帳(融通念仏宗入信者名簿)に書き入れてほしいと頼んで池の底に沈んでしまいます。
良忍聖が弔いの念仏を唱えていると、桂子と畝傍の里の桜子の亡霊が現れ争う様を見せます。両者とも冥土でいまだ執念に悩まされるのです。しかし良忍聖の念仏によって、桂子、桜子共々恨みも晴れて西方浄土に生まれ変わることを喜びます。(「宝生の能」平成9年6月号より)

飛鳥路散策(大和三山と甘樫丘)    ( 平1・3記)

昭和56年6月、奈良でKDDの謡曲全国大会(末広会)が開催された時、会が終わった後、村本、秋元、太田、宮嶋、三上の皆さんと飛鳥路を訪ね、甘樫丘から畝傍、耳成、天香具山の「三山」を眺め、なんとも言えぬ感銘を受けたのが、つい先日のように想い出される。

(補足) 平成19年6月記

初めて甘樫丘を訪ねてから26年、この記事を書いてからも18年が経過した。さまざまの思い出がある。

当時の写真

三上君が撮ってくれた写真があった。甘樫丘で畝傍山を背景に写したものである。左から高橋春雄、秋元亮一、村本脩三、宮嶋仲、太田延男の皆さんである。写真に写っている中では私を除いて4名とも既に亡くなってしまった。写真を撮ってくれた三上君は謡曲のサークルからは離れたが健在で、今でも毎年1、2回開催されているお互いの勤務先であった、KDD経理部OB会には毎回出席されるので思い出を語りあっている。

甘樫丘 甘樫丘にて 奈良県明日香村 (昭56.6)

謡蹟めぐりのスタート

今にして思うと、この甘樫丘から大和三山を眺めた感動がその後の私の謡蹟めぐりに大きな刺激を与えたようである。これ以前に謡蹟と意識して訪ねたのは、能「夜討曽我」に出演が決まり、ここに来る直前に訪ねた富士市曽我寺の「曾我兄弟の墓」のみであるから、まさに私の謡蹟めぐりの出発点とも言える所である。

甘樫丘再訪と三山めぐり

平成8年9月、再び甘樫丘を訪ね、併せて畝傍、耳成、天香具山の三山を廻ってみた。甘樫丘から眺める三山の眺めはやはり格別である。
畝傍山は神武天皇が初代の都を置かれた地とされ、山麓には天皇を祀る橿原神宮や、神武天皇の御陵がある。
耳成山の麓には桂子が身を投げたという耳成の池がある。このあたり公園として整備され、身を投げるような雰囲気ではないが、池の傍らには桂子を偲ぶ歌碑が建っている。「耳無の池し恨めし吾妹子が 来つつ潜かば水は涸れなむ」作者不詳と書かれているが、その意味は「耳無の池は恨めしい、あの子がさまよって来て水にはいったら、水がかれて死ねないようにしてくれればよかったのに」とのことである。
天香具山は多くの歌に詠み込まれた名山である。

甘樫ワイド 甘樫丘から三山を望む  奈良県明日香村  (平8.9)

畝傍山 畝傍山と樫原神宮外拝殿  橿原市畝傍町  (平8.9)

天の香具山 天香具山  橿原市浦町 (平8.9)

耳成山と池 耳成山と耳成池 橿原市木原町(平8.9)

耳成山歌碑 耳成池歌碑  橿原市木原町  (平8.9)

甘樫丘と三山の  位置関係

甘樫丘と三山の位置関係を地図で示してみた。耳成山、天香具山を底辺とする二等辺三角形の頂点に畝傍山があるのには驚いた。古代人が何かの目的で平野の中にこの三つの山を作ったのではないかとも疑いたくなる。そんなことを何かの本で読んだような気もするがはっきりした記憶がない。

三山地図 甘樫丘と 三山の地図

三山を一望できる場所

三山を一望できる場所はこの甘樫丘のほかにもいくつかあるようである。私が行った所では「山の辺の道」沿い、中でも檜原神社あたりからの眺めは素晴らしい。どの山が三山か定かではないが写真を掲げてみる。

山辺の道から三山 山の辺の道からの眺望 (平8.9)

このほかにも西からは当麻町、太子町の境にある二上山付近の竹内峠、葛城山の東側の山裾を縫う南北の道、いわゆる「葛城古道」からも一望できる由である。また橿原市城殿町の本薬師寺跡からは、体をぐるりと360度回すと、三山がいっそう身近に迫ってくるとのことである。

万葉の歌

万葉集に、大和三山妻争いの歌があることを思い出し、調べてみた。

「香具山は 畝傍ををしと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつせみも つまを 争うらしき   中大兄皇子 巻一」

この歌の冒頭の原文は「高山波(かぐやまは) 雲根火雄男志等(うねびををしと) 耳梨与(みみなしと) 相諍競伎(あひあらそひき)」となっているが、この「雄男志等」を畝傍「雄々しと」と解するか、畝傍「を愛し(惜し)と」と解するかで山の性が変ってくるので古来から論争がある由である。
「愛しと」「惜しと」と解して、香具山と耳成山を男性、畝傍山を女性とする注釈書が多いそうだが、「雄々しと」と解して、女の香具山が男の畝傍山を雄々しいとして男耳成と争うという説、同じく女の香具山が男の畝傍山を雄々しいとして女の耳成と争うという説もあるという。
謡曲「三山」では、これらの説と違って、香具山が男、耳成、畝傍が女となっている。

これらの三角関係があまりにややこしいので、頭の中を整理するため表にしてみた。

「愛しと」説    畝傍山(女)   耳成山(男)   香具山(男)
「雄々しと」説一  畝傍山(男)   耳成山(男)   香具山(女)
「雄々しと」説二  畝傍山(男)   耳成山(女)   香具山(女)
謡曲「三山」    畝傍山(女・桜子) 耳成山(女・桂子)香具山(男・公成)

歌にあるように、神代の昔から現代に至るまで争いが絶えないようである。

良忍上人の謡蹟   ( 平11・3記)

ワキの良忍上人は平安後期の高僧で、比叡山、三井寺、仁和寺等で修行の後、洛北大原に来迎院を興して融通念仏を創始した。曲中「大原の良忍聖にて候」という所以であろう。諸国を巡遊、再び来迎院に住持しここで入寂した。裏山に良忍廟があるというがまだ訪ねていない。
大阪府太子町の叡福寺の境内には聖徳太子廟があるが、その隣に立派な良忍の墓がある。

叡福寺 叡福寺  大阪府太子町 (平10.9)

良忍の墓 良忍の墓  叡福寺境内 (平10.9)


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