能七騎落

謡蹟めぐり  七騎落1 しちきおち 能出演 頼朝概説 八重姫千鶴丸悲話

ストーリー

源頼朝は石橋山の合戦に敗れ、主従八騎となって船で遁れようとしましたが、源家に於いては祖父爲義や父義朝の敗走の時がいずれも八騎であったことから、不吉の人数ゆえ一人を船から下ろすよう土肥実平に命じました。船中で最年長であり、艫板にも近い岡崎義実を下ろそうとしましたが、岡崎は昨日自分は一子を失って命はいまは一つ、実平は子息の遠平と命を二つ持っているから、親子いずれかが下りよと言います。あまりの道理に実平は、なかなか承服しない遠平を泣く泣く下船させました。こうそて一同の哀れな思いを抱いて船は遠ざかって行きました。
ようやく頼朝の船が海上遙かに出ると、後ろから和田義盛の舟が追いかけてきました義盛はかねてから頼朝方に意を通じていたので、遠平を生捕る風を装って船底に隠していたのです。一同は喜びの酒盛りをし、実平は一さし舞い、源氏の前途を祝福しました。(「宝生の能」平成11年3月号より)

能「七騎落」出演 (平15・1記)

師匠渡邊三郎先生の渡雲会60周年記念全国大会が、平成9年8月30、31の両日、宝生能楽堂において開催され、能が7番も出された。
私は第二日目、8月31日の出演で、能「七騎落」のシテを仰せつかった。これまでに「紅葉狩」「草紙洗」「蝉丸」「土蜘」「「夜討曽我」「絃上」「田村」と何回か能に出演させていただいたが、シテ役を勤めるのは「田村」に次いで二度目である。
この能で特筆したいのは素人で出演した11名のうち、9名までが私の出身母体である「KDD宝生会」から渡雲会に入門したメンバーだということである。次に示す役割表のように括弧で囲んだ方以外は全部プロの方である。そしてお役の方はワキの野口敦弘、子方の東川周史のプロの方を除くと全員がKDD宝生会出身の連中である。
このような仲間と一緒に能を舞わせていただいたことは、私の50年にも近い謡曲人生の中で最高、最良の出来事であったと思っている。

     能「七騎落」の役割表   平成9年8月31日 宝生能楽堂
        岡崎 長島 経治(KDD)
        立衆 山田 清重(KDD)
        立衆 米永 和人(KDD)
        立衆 柳川 英夫(KDD)
        立衆 太田 延男(KDD)
        子方 東川 周史
        頼朝 石川 恭久(KDD)
     シテ 高橋 春雄(KDD)
                   大鼓 上条 芳暉
七 騎 落 ワキ 野口 敦弘             笛 一噌 幸政
                   小鼓 幸 清次郎
        間  善竹 十郎
                   佐藤 良夫(KDD)  中村孝太郎
                   白石 邦彦(渡雲会) 亀井 保雄
   後見 渡邊 三郎      地 八角 菊栄(渡雲会) 今井 泰男
      朝倉 俊樹        児玉栄太郎(KDD)  近藤乾之助
                   東川 光夫      當山 孝道

能七騎落 能「七騎落」 渡雲会60周年記念全国大会 宝生能楽堂 (平9.8)
役の方のみ左から、高橋春雄 野口敦弘(プロ) 長島経治 山田清重
米永和人 柳川英夫 太田延男 東川周史(プロ) 石川恭久の皆さん

『能「七騎落」とその周辺』等の作成配付と反響

能のシテ役を演ずることなど滅多にない機会なので、前回の「田村」の時の例にならって、親戚、知人に事前に30ページほどのパンフレット『能「七騎落」とその周辺』を、会が終ってからは、能のテレカ、絵はがき大の写真を作成配付した。

『能「七騎落」とその周辺』には次のものを収録した。

1 能「七騎落」役割表
  「七騎落」のあらすじ・みどころ  謡本・藤城継夫著「能への招待」より引用
  『七騎落」謡本  謡本全文に解説(佐成謙太郎著「謡曲大観」を参考)をつける
  「七騎落」の出典 同上著書より「源平盛衰記」部分を引用
2 石橋山の合戦と頼朝成功の秘密 石井進著「日本の歴史7」を抜粋紹介
3 「七騎落」の謡蹟を訪ねて
  石橋山古戦場、土肥の大杉、頼朝船出の地、土肥実平・遠平、岡崎四郎義実、佐奈田与一、田代冠者信綱、新開次郎忠氏、土屋三郎宗遠、安達藤九郎盛長、土佐坊昌俊、和田小太郎、大庭景親、俣野五郎関係を主とし、その他頼朝関係の謡蹟を、写真46葉を添えて収録した。

当日は多くの方が観にきてくれたのが嬉しかった。能楽堂入口に設けた受付で記帳していただいた方だけでも74名にのぼった。親戚、小学校同級生、官練同級生、会社関係、渡雲会関係、教授嘱託会関係など多彩な顔ぶれである。また多くの方からお祝いを頂戴した。
会が済んでからは68名の方々からお便りを頂戴した。私の能やお配りしたパンフレットについての感想が記されており、私にとっては何よりの宝物となった。頂戴したお便りは全部パソコンに入力、印出したが、B5版にかなり細かい字で20ページになったので、ほかの関係資料とともに、『能「七騎落」出演関係記録』として一冊に製本し、時々取り出して懐かしく拝読している。
そのほか26名の方から電話を頂戴し、また7名の方からは写真を送っていただいた。写真はアルバムに納めて大切に保存している。

七騎落とその周辺 能「七騎落」とその周辺 表紙

テレカ 作成したテレカ 能 七騎落

源頼朝概説         (平8・4記)

頼朝を登場させる曲として「七騎落」「大仏供養」「調伏曽我」があるがいずれもツレ役である。しかし頼朝の名は多くの曲に謡われているので、他の曲にふさわしいものを除き、頼朝および頼朝周辺に登場する人物に関係する古蹟をここで取り上げてみようと思う。
参考までに系図を掲げる。

 為義 ┬ 義朝 ┬ 義平
    │    ├ 頼朝 ───┬ 頼家 ┬ 一幡
    │    ├ 範頼    ├ 実朝 ├ 公暁
    │    ├ 全成(今若)└ 大姫 └ 竹御所
    │    └ 義経(牛若)   ‖
    └ 義賢 ─ 義仲 ──── 義高

頼朝生誕から伊豆配流まで      (平8・4記)

頼朝生誕地、頼朝産湯の池、頼朝生誕地の碑 名古屋市熱田区白鳥 誓願寺

頼朝は熱田神宮の大宮司藤原季範の娘由良御前を母とし、義朝の第三子として久安3年(1147)出生した。熱田神宮から大きな道を一つ隔てた白鳥町に誓願寺があるが、ここは宮司藤原氏の別邸跡といわれる。由良御前は義朝の正室となり、身ごもって熱田の実家に帰り、この別邸で頼朝を生んだといわれる。寺の門に左側には「右大将頼朝公誕生旧地」の碑、寺の境内には頼朝産湯の池、頼朝誕生地の碑が残されている。

頼朝生誕地 頼朝生誕地 名古屋市熱田区白鳥 誓願寺 (平7.2)

頼朝産湯の池 頼朝産湯の池 誓願寺 (平7.2)

頼朝生誕地碑 頼朝生誕地の碑 誓願寺 (平7.2)

池の禅尼の塚  愛知県野間町 野間大坊

頼朝13歳の時平治の乱が勃発、父義朝に従って出陣するが敗れて敗走する。途中伊吹山の吹雪で一行に遅れ、平家の手に捕らえられた。危うく死罪になるところを清盛の継母池の禅尼の口添えで助命され伊豆に流された。ここで父の一行に遅れなければ、兄の朝長や、父の義朝と同じ運命を辿ることになったかも知れない。
池の禅尼の塚が頼朝の父義朝と同じく野間大坊の一隅にささやかに祀られている。頼朝が父を弔った時、池の禅尼を供養して立てたものと言われる。

池の禅尼の碑 池の禅尼の塚 愛知県野間町 野間大坊 (平4.5)

蛭が小島     静岡県韮山町

頼朝が流されたのは伊豆韮山の蛭が小島である。頼朝は34歳で挙兵するまで約20年をここで過ごした。この間、伊東祐親の娘八重姫や、北条時政の娘政子とのロマンス、東国武士の働きかけ、文覚上人の説得などさまざまの事情にもまれながら次第に平家打倒を考えるようになってゆく。

昼ケ小島碑 蛭ケ小島碑 静岡県韮山町 (平6.2)

八重姫と千鶴丸の悲話(伝説)   (平8・4記)

頼朝が伊豆に流されたとき、最初にこれを預かったのが、伊東祐親であるとも言われている(伊東祐親については「小袖曽我」参照)。韮山の蛭が小島へ移るのは後のことで、伊東祐親は自分の舘から程遠くない所に、頼朝を住まわせたと見られる。祐親の舘は現在の伊東市の物見塚公園から東林寺のある一帯が中心的な場所と考えられているので、頼朝も先ずは伊東の地に住んだこととなる。
このような状況のもとで伊東祐親の三の姫である八重姫と、流人の頼朝が結ばれることとなった。

音無の森と音無神社、頼朝・八重姫の小祠   静岡県伊東市音無町

二人が会う瀬を楽しんだのは音無の森であり、頼朝がその時の来るのを日暮らし待っていたのが、その対岸にある日暮らしの森であると伝承されている。音無神社の境内には頼朝・八重姫の小祠がある。二人の間には愛の結晶として「千鶴丸」が生まれた。

音無神社 音無の森と音無神社 伊東市音無町 (平6.3)

頼朝八重姫小祠 頼朝・八重姫の小祠 音無神社 (平6.3)

稚児が渕、牟須比神社・境内の橘、最誓寺  静岡県伊東市

祐親はこの頃は平家の官領であり、このことを平清盛に知られては一大事と、八重姫から千鶴丸を奪い、家来に命じて千鶴丸の体に石をつけて、伊東の八代田にある川の稚児が渕(千鶴丸を沈めた後につけられた名称)に沈めた。
車でこの場所を探したがなかなか見付からない。地図にも載っていないし、それらしい標識もない。土地の人に何人か聞いてようやくたどりつくことができた。伊東市内を流れる伊東大川、八代田橋の上流「四季の植物と渓谷美・万葉の小径」をかなり上ったところである。狩野川台風以後の川の変化で往時の面影を留めていない由であるが、それでも高い崖の下を流れる川は気のせいか無気味な樣相を呈していた。
千鶴丸が沈められるとき、通る道ばたの牟須比神社の境内にあった橘の花の香りが高く匂っていたので、家来はせめての慰めにと小枝を二本折って両手に握らせたという。私が訪ねた時には、牟須比神社境内の二代目の橘の木は枝いっぱいに黄色の実をつけていた。
音無神社の隣にある最誓寺は、後に再婚した八重姫夫妻が、千鶴丸の菩提を弔うために建立したとの伝承がある。

稚児が渕 稚児が渕 伊東市八代田 (平6.3)

牟須比神社 牟須比神社・境内の橘 伊東市八代田  (平6.3)

最誓寺 最誓寺 伊東市音無町 (平6.3)

富戸海岸、産着岩、三島神社、三島神社千鶴丸の橘  伊東市富戸

稚児が渕に沈められた千鶴丸はやがて石がとれて川を下り、海へ出て南に流れ富戸の宇根海岸に漂着した。富戸の住人がこれを見つけ拾いあげると、生まれてまもない小児であり、立派な衣服をまとっており、両の手には橘の小枝を握っていた。住人は高貴な方の小児であると思い側にあった岩(産着岩)に安置し、遺体を乾かして現在三島神社のある地に葬ったという。この時握っていた橘の小枝を一緒に埋めたところ、無惨にも一命を絶たれた怨念がこの橘に移ったのか見事に根付き数年成長したが、千鶴丸のもとに帰ったのか枯死してしまった。村人はこれを惜しんで昭和8年同じ橘を植えたのが年々香り高い花と実を結び、見る者をして亡き千鶴丸の面影をほうふつとさせているとのことである。

富戸海岸 富戸海岸 伊東市富戸 (平6.3)

産着岩 産着岩 伊東市富戸 (平6.3)

三島神社伊東市 三島神社 伊東市富戸 (平6.3)

三島神社橘 三島神社千鶴丸の橘 伊東市富戸 (平6.3)

八重姫入水の地、八重姫主従七女の碑、八重姫慕情歌碑  静岡県韮山町 真珠院

祐親は八重姫を江間小四郎に嫁がせて、頼朝を襲うのであるが、祐親の子祐清が秘かに知らせてきたので、危うく難を逃れた。
八重姫は悶々日々を送るなか、遂に意を決し、侍女6人とともに伊東竹の内の別館をぬけ出し、亀石峠の難路にはやる心を沈めながら、頼朝が身を隠す北条時政舘の門を叩いた。しかし既に政子と結ばれていることを知る邸の門衛は冷たく、幽閉された身の我が舘へ帰る術もない八重姫は、あわれ真珠が渕の逆巻く流れに投身入水した。時に姫は17歳、頼朝挙兵の1ヶ月前であった。
姫の侍女6人は泣く泣く傍らに姫の遺骸を葬り、庵を立てて弔ったが、これが今の真珠庵の起源であり、寺には姫の木像が安置されているとのことである。侍女たちはその後伊東へ向かう途中大仁の田中山で自害、真珠庵境内に八重姫主従七女の碑が立てられている。また、境内には「八重姫慕情」なる立派な歌碑が立てられていた。

八重姫入水の地 八重姫入水の地 静岡県韮山町 真珠院 (平6.12)

八重姫主従七女の碑 八重姫主従七女の碑 真珠院 (平6.12)

八重姫慕情歌碑 八重姫慕情歌碑 真珠院 (平6.12)


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