日本武尊は三浦半島観音崎から上総へ向け船出するが、この沖で暴風雨に遭遇、最愛の弟橘姫入水の海難事件が起る。現在は立派な公園となっている。
観音崎近くに走水神社があり、祭神は日本武尊とその妃弟橘姫の二柱である。尊がこの地から上総へ渡られるにあたり、村人に冠を賜わったので、冠を石櫃に納めてその上に社殿を建て尊を祀ったことに始まるという。境内には日本武尊、弟橘姫の碑がいくつか建てられているで紹介する。
弟橘姫の碑1
境内の裏山に建てられているものでかなり古い。碑面には
さねさし さかむのをぬに もゆるひの
ほなかにたちて とひしきみはも
と姫が残した歌が刻まれている。意味は「相模の小野で、火攻めに遭ったとき、あなたは燃える火の中で、私の身を案じて呼びかけてくだしましたわね」という恋情の歌である。このあたりから浦賀水道が眼下に拡がって見える。
弟橘姫の碑2
これは弟橘姫がまさに海に飛び込まんとする姿を描いたものである。絵の台になっているのは船の櫂か舵を模したものでもあろうか。
弟橘姫、日本武尊の碑3
この碑には二人の詞が刻まれている。
「 弟橘媛命 妾は皇子の御為に よろこびて今こそ 此の浦に身を捧げなむ
はようつとめ果し 大君の御心安んじさせ給え
日本武尊 弟橘媛よ 汝の願い心し 吾が胸にのこりなん 永久に安かれと
ただおろがまむ 」
観音崎 横須賀市観音崎公園 (平6.12) 一行はこの沖で暴風雨に遭遇、最愛の弟橘姫入水事件が起る
観音崎碑 横須賀市観音崎公園 (平6.12) 立派な碑が建っている
走水神社 横須賀市走水 (平6.12) 尊、姫を祀る。境内には碑が並ぶ
弟橘姫の碑1 走水神社 (平6.12) 碑面には「さねさし・・」の歌が刻まれる
弟橘姫の碑2 走水神社 (平6.12) 姫が海に飛び込む姿を描く
弟橘姫、日本武尊の碑3 走水神社 平6.12) 碑には二人の詞が刻まれる
木更津市に吾妻神社があるが、海に身を投じた姫の着物の袖が数日後木更津の海岸に漂着したので、これを納めて祀ったのが起源といい、祭神は弟橘姫、日本武尊である。
君去らず 袖しが浦に 立つ波の
その面影を 見るぞ悲しき
木更津の名も「君去らず」に由来するものという。
木更津のほか、富津市大和田にも同じ名の神社があり、茂原市にも橘神社がある由であるが訪ねていない。
吾妻神社 木更津市吾妻 (平6.11) 漂着した姫の袖を納め神社を建てた
東京都墨田区の吾嬬神社にも姫の御召物を納めたこと、尊が挿した二本の箸が根付いて現在の御神木になったことなどが伝えられている。祭神は弟橘姫命を主神として日本武尊を合祀している。
神社入口に掲げられた説明板に興味をひかれたので、その一部を紹介する。
「 当社御神木楠は昔時、日本武尊東夷征伐のみぎり、上総の国に到り給はんと御船に召されたるに、海中にて暴風しきりに起り来って御船すでに危ふかりし時、御后橘媛の命、海神の心を知りて御身を海底に沈め給ひしかば、海上忽ちおだやかに鎮りたり。此時一つの島忽然として現れければ、御船をその島に着け嶋にあがらせ給ひて「ああ吾妻恋し」と宣ひしに、俄かに東風吹き来りて御召物海上に浮かび磯辺にただ寄らせ給ひしかば、尊大いに喜ばせ給ひ媛の御召物を浮洲に納め築山を築き御廟となしたり。これ現在の御本殿の位置なり。此時尊は二本の楠の箸を地にさし、此箸を以て末代天下平安ならんには二本共に栄ふべしと、尊自ら御廟の東の方にささせ給ひしに二本共に忽ちに根葉を生じ葉茂り相生の女木男木となれり。此二千有余年にわたり樹の色も変らず栄えし名木も、第二次大戦の災禍をうけ焼け落ちて化石の如き姿で残った其一部で賽銭箱を造り神前に保存された。此惜む名木にかわり若木を明治維新百年を記念して元木に優る生成を祈願して植樹された。其悲願かない現在神前に頼母しい若葉の姿を見せている。 」
境内には説明の中で日本武尊がさした二本の楠の箸が根づいたという御神木の楠の焼け残った二本の老木が大切に保存され、その傍らには植樹された若い楠が緑の葉を繁らせていた。
このあたりは江戸時代から吾嬬の森とか浮洲の森とも呼ばれており、連理の楠と呼ばれた巨木は広重の江戸名所百景にも描かれたという。
日本武尊の時代はこのあたりはもちろん海岸であり、浮洲といい、島が忽然と現れるというくらいだから、案外このあたり海に漂う島だったのかも知れない。現在は神社の前には堀のようになった北十間川が流れ、旧中川に合流、やがて荒川となって海に注いでいる。約5キロ南を関東自動車道や京葉線が走っているのであるから、海浜の景色は想像すべくもない。
東京品川の寄木神社も弟橘姫が投身した船の一部が漂着したのを祀ったのが起源といわれる。
吾嬬神社 東京都墨田区立花 (平7.9) この神社にも同じような由緒がある
寄木神社 東京都品川区東品川 (平13.11) 漂着した弟橘姫の船の一部を祀ったのが起源という
滋賀県安土町、老蘇の森の奥石神社は姫の魂がここに飛来して安産の神になったという。
神社の由緒によると「日本武尊、蝦夷征伐の御時、弟橘姫命は上総の海にて海神の荒振るを鎮めんとして『我胎内に子在すも尊に代りてその難を救い奉らん。霊魂は飛去りて江州老蘇の森に留まり永く女人平産を守るべし』と誓い給いて、そのまま身を海中に投じ給う云々」とある。古くから安産の守護神として祈願参詣する者が多いとのことである。また、神社のある「老蘇の森」は歌枕として謡曲にもよく謡われている。
奥石神社 滋賀県安土町東老蘇 (平6.9)姫の魂が飛来して安産の神となった
上総上陸後、尊は下総、常陸、陸奥に向かった。
千葉県飯岡町の玉崎神社は東征の折、尊が海神を祀ったのがこの神社と起源といわれる。
水戸市青柳町に東征神社があるが、尊は船で那珂川をさかのぼり、この地に上陸し鹿島、香取の二神を祀り、武運を祈った後船を沈めたという。村人はその船を御神体として社を建て東征神社として信仰してきたという。
水戸市宮内の吉田神社も日本武尊を祀るが、同じ名の神社の中心ということで立派な社殿が建っている。
また、茨城県高萩市の朝香神社も尊が上陸した地として祀られており、さらに北上して宮城県名取市の皇壇が原に至り、ここで伊弉諾、伊弉冊尊を祀り平定を祈願し、蝦夷は間もなく平定されたという。
玉崎神社 千葉県飯岡町飯岡 (平8.12) 尊が東征の折、海神を祀ったのが起源という
東征神社 水戸市青柳町 (平12.6) 尊はここで船を捨て上陸した
吉田神社 水戸市宮内町 (平12.6) 日本武尊を祀る大きな神社
朝香神社 茨城県高萩市 (平12.6) ここも尊の上陸地という
皇壇が原 宮城県名取市閖上 (平7.5) 尊は遠くこの地まで来て蝦夷を平定した
尊の東征の帰路は関東北部から信濃に向かったともいい、関東南部から甲斐、信濃に向かったともいいはっきりしないが、尊に関する伝説古蹟は多い。
東京鳥越の鳥越神社は、尊東征の御時、この所に暫く駐在されたという。土地の人はその徳を慕い白鳥神社(明神さま)をお祀りした。また、八幡太郎義家が奥州征伐の折、白い鳥に浅瀬を教えられ軍勢をやすやすと渡すことが出来たので、義家はこれ白鳥大明神の御加護と称え鳥越大明神の御社号を奉ったと伝えられる。
目黒の大鳥神社は士卒が眼病にかかったのを日本武尊が霊夢により木の実の汁で治した所と伝えられる。
上野公園の五条天神は尊東征の折、上野の忍岡で薬祖神二柱の大神が奇瑞を現わし、難を救って貰ったので、ここに両神をお祀りしたと伝えられる。
文京区根津の根津神社は日本武尊が千駄木の地に社殿を創建したものといわれる。
湯島の妻恋神社は東征の折の駐在地ともなっているが、帰路もここに立ち寄り妻を偲んだ。郷民は尊の心をあわれんで、尊と妃を祭ったのがこの神社の起源と伝える。
鳥越神社 東京都台東区鳥越 (平7.9) 尊が東征の時この所に暫く駐在された
大鳥神社 東京都目黒区下目黒 (平7.9) 尊が士卒の眼病を霊夢により木の実の汁で治した
五條天神 東京都台東区上野公園 (平7.9) 尊が難を救ってもらったお礼に祀ったという
根津神社 東京都文京区根津 (平13.11) 日本武尊の創建という
妻恋神社 東京都文京区湯島 (平6.11) 尊は帰路にもここに立ち寄り妻を偲んだ
都心から少し離れると、青梅市の御岳神社は尊が武具を埋めて武運を祈った所といわれ、埼玉県大滝村三峰神社は尊が尊が伊弉諾、伊弉冊尊を祀った社で山頂に日本武尊の像があるという。
狭山市の堀兼神社の境内には堀兼の井があるが、これは乾燥したこの地で井戸を掘っても水が出ず、尊が富士に祈って漸く水が出て部下の渇を癒したといいう。埼玉県毛呂山町の出雲伊波比神社も尊の創建と伝えられる。
前橋市の小石神社は尊が東征のみぎり山頂に一つの石を置いて須佐能男命を祀り戦勝を祈願した所で、その霊石が疫病除去の神徳あるの故をもってこれを御神体にしたという。
御岳神社 東京都青梅市 (昭57.11) 尊が武具を埋め武運を祈ったといわれる
三峰神社 埼玉県大滝村 (昭52.11) 尊が伊弉諾、伊弉冊尊を祀ったという。
堀兼神社 狭山市堀兼 (平13.10) 境内に堀兼の井があり、土地の人が尊の徳を偲び建立
堀兼の井 狭山市堀兼 (平13.10) 尊の祈願により水が出たという
出雲伊波比神社 埼玉県毛呂山町 (平13.10) 尊の創建という
小石神社 前橋市敷島 (平7.3) 尊東征のみぎり須佐能男命を祀り戦勝を祈願した