鵜舟

謡蹟めぐり  鵜飼1 うかい

ストーリー

諸国行脚の僧が途中、甲斐国石和川のほとりの古びた御堂で夜を明かすことになります。
夜が更けると川面が明るくなり鵜舟が篝火を焚き、舟には年たけた鵜使いがおります。僧は老人に殺生をやめるように説得しますが、従僧の一人がこの老人を見て、以前にこの辺で行き遭い、殺生をやめるように説いた老人であることを思い出します。実はこの老人は石和川の禁漁区域での密漁により、極刑にかけられて殺されたその亡霊なのでした。老人は罪ほろぼしのために僧の目前で鵜を使う業を見せ、その後、冥途へ帰って行きます。
僧たちが川瀬の石に法華経の経文を書き、川に投じて弔っていると、閻魔大王が出現し、鵜使いは地獄に墜ちるべきであったが、今の法華経の功力と嘗って僧を摂した徳によって極楽へ導くのだと言い法華経を讃美して消え去ります。(「宝生の能」平成11年8・9月号より)

謡蹟  鵜飼山遠妙寺 (山梨県身延町)  (平6・7記)

KDD宝生会の35周年記念大会が、平成2年1月、2日間にわたって山梨県石和の石和観光温泉ホテルで開催された。新宿から高速バスを利用したら順調に走って、午前11時頃には目的のホテルに到着してしまった。午後1時の開始には若干時間があるので、有志7名ほどで近くの鵜飼山遠妙寺に参詣した。
寺の案内板によると
『          当山の由緒
文永十一年夏の頃、日蓮上人が弟子の日朗、日向両上人とともに当国御巡化のみぎり、鵜飼漁翁(平大納言時忠卿)の亡霊に面接し、これを済度し、すなわち法華経一部八巻六万九千三百八十余文字を河原の小石一石に一字づつ書き写され、鵜飼川の水底に沈め、三日三夜に亘り施餓鬼供養を営み、彼の亡霊を成仏得脱せしめた霊場であります。
これによって当山は「宗門川施餓鬼根本道場」として広く信徒に知られ、また謡曲「鵜飼」はこの縁起によって作られたものであります。  鵜飼山遠妙寺  』 とある。
寺には寺宝として、その昔鵜飼川で拾ったといわれる経石7個、鵜石1個、ビク1個、大黒石1個などがある由であるが、その時は気がつかず、参観の機会を逃してしまった。
ホテルに戻ると間もなく大会が始まる。40数名が参加して謡会も懇親会も大いに盛り上がった。長谷川昭君の独吟「鵜之段」がこの場所にふさわしいものとして印象に残っている。

<追記 平13・1記>
遠妙寺にはその後二度ほど訪ねたので、写真と入手した資料を紹介する。

遠妙寺 鵜飼山遠妙寺 山梨県石和町 (平10.10)

「鵜飼勘作」物語

鵜飼勘作とは元の名を平大納言時忠と言い、平清盛の北の方二位殿の弟という。
平家壇ノ浦に滅びた時、時忠卿が三種の神器の一つ「神鏡を朝廷へ奉還した功が認められ、一命を助けられて能登の国へ流罪となった。しかしこの地も安住の地ではなく時忠卿は程なく能登を脱出、遠く甲斐へ逃れて来て石和の里へ住み着き公卿時代遊びで覚えた「鵜飼」を業とするようになった。
たまたま南北十八丁三里の間殺生禁断の地と定められていた「法城寺観音寺」の寺領を流れる「石和川」で漁をしていた事が知れ、村人に捕らえられ「す巻き」にされて岩落の水底に沈められた。以来亡霊となって昼夜苦しんでいたところ、巡教行脚の旅僧すなわち日蓮上人の法力によって成仏得脱した。

七字の経石と鵜石・魚籠石

平成10年10月、教授嘱託会の関東甲信越大会が石和町、ホテル「石風」で開催された折、友人と朝早くこの寺を参詣した。丁度住職の方がおられて本堂に案内され、寺宝の「経石」や「鵜石・魚籠びく石」を見せていただいた。
「経石」は7個あり、筒の中に収められている。一石に一字「南無妙法蓮華経」の字が書かれている由である。「鵜石・魚籠石」はこの寺に慶長年間から伝わるみごとな川ずれ石である。

経石と鵜石 経石と鵜石・魚籠石 石には南無妙法蓮華経の七字が一石に一字書かれている 遠妙寺 山梨県石和町 (平10.10)

一字一石供養塔、鵜飼勘作の墓と鵜飼漁翁の祠、日蓮日朗の供養塔

本堂左手の木立の中には、一字一石供養塔が建っており、その奥の墓地には、鵜飼勘作の墓と祠、日蓮日朗の供養塔がある。

一字一石供養塔 一字一石供養塔  遠妙寺 山梨県石和町 (平9.7)

鵜飼勘作の墓 鵜飼勘作の墓と鵜飼漁翁の祠 遠妙寺 山梨県石和町 (平9.7)

日蓮日朗供養塔 日蓮日朗の供養塔 遠妙寺 山梨県石和町 (平9.7)

笛吹川(石和川)

曲中に「石和川」と謡われるが、現在は「笛吹川」と呼ばれている。

笛吹川 笛吹川(石和川) 遠方に見える橋は鵜飼橋 遠妙寺付近 山梨県石和町 (平9.7)

六浦の渡り・鎌倉山 (神奈川県)

曲中に「安房の清澄立ち出でて、六浦のわたり鎌倉山」とある。六浦の渡しは往時は鎌倉への交通の要衝だったという。現在の金沢八景駅のあたり、「放下僧」の舞台でもある瀬戸神社近くの海岸と思われる。六浦の町名も残っている。写真は六浦の渡りとして、瀬戸神社全面の琵琶島あたりのものを掲げてみた。
鎌倉山は鎌倉の山々とも解されるが、鎌倉山の町名も残っており、鎌倉山の碑も立っているのでこれを紹介する。

六浦の渡り 六浦の渡り 瀬戸神社前の琵琶島付近 横浜市金沢区瀬戸 (平7.1)

鎌倉山 鎌倉山の碑 今の鎌倉山 鎌倉市鎌倉山 (平8.2) 

長良川の鵜飼 (岐阜市長良川温泉)  (平6・7記)

本曲の舞台である石和川(笛吹川)で今でも鵜飼をしているのかどうかしらないが、鵜飼というものを見たことのない私に、思いがけず鵜飼を見るチャンスが廻ってきた。
平成4年5月の謡曲名所めぐりに、長良川の鵜飼見物が盛り込まれたからである。長良川河畔にある「すぎ山旅館」に午後4時半頃着いた私ども一行は、小憩の後、5時半頃には鵜飼の観光船に乗せられる。川上まで遡って日の暮れるのを待つのだ。まだ日は高いのにこんなに早く出かけて退屈するだろうと思ったが心配は無用であった。
かなり遡った所で船が止まると、別の船に乗り腰蓑をつけ独特の黒い帽子を被った本物の鵜使いがわれわれの船のそばにやってくる。そしてこれも本物の鵜と鮎を使って鵜飼の説明をしてくれる。たしか現在では鵜使いはれっきとした公務員であると聞いたような気がする。
この説明が終わると船の上で宴会が始まる。ほど良く酔いがまわる頃には日も傾いてあたりが薄暗くなる。どこからともなくはなやかに堤灯を沢山つけた屋形船が近づいてくる。踊り子たちの船だ。流れくるメロデイに併せて浴衣姿に赤い帯、団扇を背中にさした10人ほどの美女たちが船の上を輪になって踊っている。なかなか幻想的な光景である。
踊り子たちの船が何艘か通りすぎる頃にはあたりは真っ暗になる。と、川上から舳に篝火をともした鵜舟が下ってくる。いよいよ本日のメインイベントである。舟が近づくにつれて鵜使いとこれにあやつられる鵜の姿がはっきり見えてくる。川の流れが結構早いので鵜舟はアッという間に通り過ぎてゆく。また次の舟の篝火が見え近づきそして去ってゆく。
曲中の文句を思い出す。「面白の有様や、底にも見ゆる篝火に、驚く魚を追ひまはし、隙なく魚を食ふ時は、罪も報も、後の世も忘れ果てて面白や・・・」

鵜飼観光船 長良川鵜飼の観光船 岐阜県大垣市 (平4.5)

鵜使い 鵜使いによる鵜飼の説明 長良川鵜飼の観光船にて 岐阜県大垣市 (平4.5)

屋形船 屋形船 提灯をつけた屋形船では踊りが・・長良川鵜飼の観光船にて 岐阜県大垣市 (平4.5)

鵜舟 鵜舟 篝火をともす鵜舟 長良川にて 岐阜県大垣市 (平4.5)


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