王昭君の図

謡蹟めぐり  昭君 しょうくん

ストーリー

帝の深い寵愛を得ていた昭君は、訳あって胡国との親和策のため胡王の韓耶将のもとに贈られました。一人娘の昭君の老父母は、このことを甚だ嘆き悲しんで昭君が植え残した柳の木蔭を掃き清めます。ここに唐のかうほの里に住む某が、老夫婦を慰めようとその家を訪れます。
老父母は涙にくれつつ、かって昭君が胡国へ行く日に、もしも自分が彼の地で空しくなったらこの柳も枯れるであろうと言い残したが、既にこの柳は枯れてしまった。昔、桃葉という人が深く契った仙女の死後、桃の花を鏡に映すと仙女の姿が見えたというが、この柳も昭君の姿をそのままであるといい、この故事にならって鏡に柳を映して昭君の姿を見ようと泣き伏します。やがて昭君の亡霊が韓耶将と共に現れ鏡に姿を映しますが、韓耶将は映し出された鬼のような醜い自分の姿に恥じて消え失せ、後には昭君の美しい姿だけが残ります。(「宝生の能」平成15年3月号より)

「王昭君」と題する漢詩  (平成15・4記)

和漢朗詠集(川口久夫訳注)から「王昭君」と題する漢詩を見つけたので紹介する。

<原文と読み>
王昭君    大江朝綱

翠黛紅顔錦繍粧
泣尋沙塞出家郷
辺風吹断秋心緒
隴水流添夜涙行
胡角一声霜後夢
漢宮萬里月前腸
昭君若贈黄金賂
定是終身奉帝王

翠黛(すいたい)紅顔(こうがん)錦繍(きんしゅう)の粧(よそおい)
泣いて沙塞(ささい)を尋(たづ)ねて家郷(かきょう)を出(い)づ
辺風(へんぷう)吹(ふ)き断(た)つ秋(あき)の心緒(しんしょ)
隴水(ろうすい)流れ添う夜(夜)の涙行(るいこう)
胡角(こかく)一声(いっせい)霜後(そうご)の夢(ゆめ)
漢宮(かんきゅう)萬里(ばんり)月前(げつぜん)の腸(はらわた)
昭君(しょうくん)若(も)し黄金(おうごん)の賂(ろ)を贈(おく)らば
定(さだ)めて是(こ)れ終身(しゅうしん)帝王(ていおう)に奉(ほう)ぜん

<現代語訳>
みどりのまゆずみ、くれないのかんばせ、あのたおやかなあで姿。錦、刺繍の妖麗な衣裳をつけて、王昭君は泣く泣く胡塞に向かって住み慣れたふるさとをあとにしたのです。胡地の風がすさまじく吹いて、秋の愁いの心は腸を断ちきるばかりにせつない。隴頭の水の咽び流れる音をきけば、ここを越えゆく夜は、故郷を恋うる涙もその水に流れ添うことです。
もの悲しい胡人の角笛の音が砂漠の夜空に冴えて、霜夜の夢ははっとさめます。故郷の漢の国の都は万里のかなたに遠ざかり、冷たい月の光に腸を断つおもいです。
昭君が、もしも画工に黄金の賄賂を贈っていたならば、彼女は生涯天子の愛をその身にうけて、このような悲劇に見舞われることもなかったでありましょうに。

作者の大江朝綱は平安中期の貴族・学者。中国古典に精通、村上天皇の勅命により「新国史」を撰進。民部大輔、文章博士・左大弁を歴任、参議に昇る。祖父音人の江相公に対し後江相公と称する。著「後江相公集」がある。(886〜957)

重要文化財 菱田春草筆「王昭君図」  (平15・4記)

平成5年6月、山形県鶴岡市の湯野浜温泉で東北大会が開催され、翌日の観光で、鶴岡市下川にある善宝寺を参詣する機会を得た。その寺で思いがけず「王昭君図」のパンフレットを入手することが出来たので紹介する。
この絵について山種美術館顧問の美術史家中村渓男氏は次のように解説されている。

「 前漢をおびやかしていた匈奴(きょうど)の将、呼韓邪単干(こかんやぜんう)が竟寧元年(B.C33)漢都に入朝した。元帝の後宮には多くの美女がいたので、その一人を贈ることにし、帝は画家に彼女らの画像を描かせた。その折、王昭君は画家に賄賂を与えなかったので醜女に描かれ、別れに帝が謁すると画像と大違いの美女で惜しまれたが匈奴の地に行くことになった。この悲しい話の絵画化で菱田春草(ひしだしゅんそう)[1874〜1911]が明治35年[1902]三月開かれた日本絵画協会共進会第12回に出品作。色彩による新画法を発表し、当時のこの画法を理解しない人々に作品で皮肉り、王昭君のなげきをこれに打ち当てたもので、評判になった作品である。篤志家、小林栄次郎氏によって早く前宝寺に寄贈され、今や春草の不朽の名作として輝いている。 」

善宝寺は龍神様のお寺として北海道東北六県をはじめ、関東関西方面にわたり多くの信者を有する信仰道場である。その昔、天慶の頃、妙達上人と申す高僧がこの地に来て、草庵を結び名づけて竜華寺としたのが、善宝寺の始めという。

王昭君の図 重要文化財 「王昭君図」 菱田春草筆 山形県前宝寺所蔵

書籍とインターネットで探る「昭君」の謡蹟

小倉正久著「謡曲紀行」(白竜社刊)

王昭君の墓・・内蒙古自治区フフホトの南郊9キロ、大黒河の南、大青山の麓に王昭君の墓がある。遠望すると周囲の土は白色であるのに、常に青草が生え、黛のように青々と樹木が茂っているので青家(せいちょう)、モンゴル語で「テムルウウルフ」と呼ぶ。・・「公園の頂上には亭(あずまや)が建てられ、王昭君のレリーフがある。・・墓の正面には騎馬に乗った王昭君と呼韓邪単干の像がある。・・墓の右側の建物の中には、王昭君と呼韓邪単干、父、白桃、彼女を醜く描いた絵師の像がおかれている。

王昭君墓

http://zuiyue.air-nifty.com/blog/cat239075/index.html

フフホトの南にあるお墓。この人、賄賂を送らなかったおかげで画家にブスに書かれ、結局異民族の王様のところへお嫁に行くハメになったとかならなかったとかいうエピソードが有名です。墓は異様にでかく、皇帝稜並みのでかさです。このでかさゆえにホンモノかどうか疑いたくなるところであります。

王昭君賛歌 ―匈奴と漢族との融和

http://www.toua-u.ac.jp/univcs/kouza/kouza27.htm

(講師) 片野 彦二〈元東亜大学大学院教授 経済学博士〉
王昭君に関わるこの故事を悲しみ、後世、多くの詩が読まれ、戯曲が作られた。しかし、今日では、これらはすべてさまざまに潤色された俗説の流布であるとされている。最近では、彼女の果たした匈奴と漢族との間の架け橋としての役割が評価され、その功績が称えられている。
王昭君の墳墓は、内蒙古自治区のフフホト市南郊にあり、自治区の重要文化財保護史跡に指定されている。大黒河河岸に立つ墓域には菫必武の王昭君を称える詩文の石碑が建ち、両民族の友好平和に貢献した彼女の遺徳を称えている。


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