継信忠信墓黒羽

謡蹟めぐり  摂待 せったい

ストーリー

源義経一行主従十二人は、山伏姿に身をやつして奥州へ下るというので、佐藤継信の母は山伏摂待の高札を立てて、毎日主君義経の通過を待っている。義経は弁慶以下十一人の家臣をつれて、この高札の所へ忍び着いたのである。佐藤の館で山伏摂待をするというので、素通りはかえって怪しまれるからと、知らぬ体にて一同は佐藤の館に立ち寄る。
すると佐藤継信、忠信の母と名乗って老女が出てきて、まことの主君よと喜び迎え、古い記憶をたどりつつ武蔵坊弁慶をはじめ、増尾の十郎兼房、鷲尾の十郎など、一々名を指し示して懐かしみ、継信の忘れ形見の一子鶴若も、けなげにも十二人の山伏の中から、主君義経を選び出して取りすがるので、義経も包み隠すことが出来ず、遂に打ち明け主従は涙ながらに対面をする。
義経は老母の心を思いやり、弁慶に継信、忠信兄弟の者が八島で功名を立てた最後の有様を詳しく語らせたりして、一同はくつろいで夜もすがら酒宴を催し、鶴若も亡き父にあったような気持でお酌をする。やがて夜も明け方になったので、義経主従十二人は、自分もお供するという鶴若を、あれこれとなだめすかして、老母に見送られながら、涙とともに出発するのである。(謡本の梗概を意訳)

「摂待」シテ(継信の母、梅唇尼)の周辺  (平9・1記)

本曲の「シテ」は「継信、忠信の母」であり、曲中にその名は出てこないが、後の「梅唇尼」であることはほぼ間違いないようである。
しかし、その夫となると、曲中で謡われるように「佐藤庄司が後家」とも、その弟の正信とも云われ両説あるようである。
佐藤庄司元治はその頃奥州で繁栄を続けていた藤原氏の一族、藤原清衡の孫娘を妻としており、藤原氏からこの地方の前線防衛を委され大鳥城に拠り勢威を振っていた。この元治は義経が平泉で死んだ後に攻め滅ぼされたのであるから、義経一行が立ち寄ったこの頃は元治は生きていたはずであり、その妻が後家である筈もない。
一方、継信たちの母は、元治の弟正信の妻であるという説もある。教授嘱託会の針生武巳氏が「謡曲名所めぐりガイドブック」に紹介されているので要点を記してみよう。

『   藤原氏との係累関係及び佐藤氏の系図

 藤原清衡─┬─基衡──秀衡──泰衡
      └ 清綱──女
            ‖
 佐藤師治─┬── 庄司元治(基治)
      │
       ├── 正信
       │   ‖───┬─継信──鶴丸
      │  (乙和・)│
      │  (梅唇尼)├─忠信
      │       │
      └── 朝信  └─朗信

謡曲「摂待」ではこの老女がシテである。米沢で伝えられている同女の素性を述べる。
平家全盛の頃上野国秩父の豪族、秩父頼国に一人の娘があり容姿端麗であった。頼国はこれを誇りとして熊野参詣に連れて行き、帰途京都で娘を花山院内大臣北方(夫人)郭の方へ行儀見習のため仕えさせた。
この郭の方という女性は、平清盛が源義朝の愛妾常盤御前(義経の母)に産ませた子であった。そんな関係で頼国の娘は、牛若等に強く関心を持つようになった。
しかし、当時並ぶ者ない清盛一族の横暴に反感を持つようになり、都を去って陸奥に絶大な勢威を張る藤原氏を頼るべく平泉に向かう途中大鳥城へ立ち寄った。ところがその頃米沢の佐藤正信は夫人をなくした時で、たまたま大鳥城で秩父の娘を見て、その美貌に惹かれてついに後妻とした。その後数人の子に恵まれ、長男、二男は夭折したが、三男継信、四男忠信、五男朗信とともに安穏に世を送っていた。
一方牛若は鞍馬を去り、平泉の秀衡の許へ行き、名を義経と改めていたが、平家追討の令旨をいただき、勇躍して兄頼朝の陣営に馳せ参ずることとなった。しかし、出陣に際し、秀衡からは全く人的援助を受けられず、側近の士のみで出発せざるを得なかった。このようにして途中佐藤庄司の舘に立ち寄り、庄司に対して人的援助を願ったが、秀衡同様援助を拒否された。
この間の事情を兄弟の母が聞き、かっては都で義経とは異父兄弟の郭の方へ仕えた縁もあった故か、自分の子継信、忠信を差し出そうと申し出で側臣にしてもらった。この折、理由は分からないが、一旦兄元治の養子として加えてもらっている。継信22歳、忠信20歳のときである。兄弟が義経の子飼いでもないのに、あのように忠誠を尽くしたのは、母の縁が強く影響しているのではあるまいか。以上が米沢伝説。   』

医王寺、継信・忠信の墓、若桜・楓の像、乙和椿
         福島市飯坂町  (平9・1記)

医王寺は佐藤一族の菩提寺で、境内には立派な継信・忠信の墓がある。継信、忠信兄弟はこの地で生まれたともいう。医王寺の由緒書には大要次のようにしるされている。

源平合戦に際し源義経が平泉より旗上げをした折、兄弟は父元治の命を受け、身を軍陣に投じ、常に義経の傍にあったが、惜しくも兄継信は屋島の役に義経の身代りとなり、能登守教経の矢を受けて倒れ、弟忠信もまた京都堀川の舘で義経が追手にあい、危機に陥った時義経を名乗って応戦し、一行を無事遠ざけ自分はその場で犠牲となった。
わが子を二人までもなくした兄弟の母、乙和の嘆きを見た継信の妻若桜、忠信の妻楓は一計を案じ、若桜は長刀を、楓は弓矢をたずさえ、勇ましい武将の姿になり、母の前に「継信・忠信ただいま元気で凱旋しました」と云って現われ、母を元気づけたという。本堂内に安置されてある等身大の美しい人形はその孝心を後の世の人々に伝えようとしたものである。

境内薬師堂の後に佐藤元治、乙和の墓があるが、その左手に「乙和の椿」がある。これが「咲かずの椿」といわれるもので、主君のためとはいえ、あえなく戦死した二人の子、継信・忠信を哀悼する母の悲しみが通じたのか、開花の時がきても蕾のまま落ちてしまうのでこの名が生まれたという。木の下に椿塚があるが、不思議にも花の大方はその辺りに落ちてしまうという。

医王寺 医王寺 福島市飯坂町 (平5.5)

継信忠信の墓医王寺 継信・忠信の墓 医王寺 (平5.5)

乙和椿 乙和椿 医王寺 (平5.5)

若桜楓像 若桜・楓の像 医王寺 (絵はがき)

佐氏泉公園、常信庵     米沢市駅前 (平9・1記)

福島県の医王寺で入手した資料には梅唇尼は元治の妻と紹介されているが、山形県米沢では前述のように、梅唇尼は元治の弟正信の妻とされている。従って継信、忠信は正信の子ということになる。
米沢駅の近くに佐氏泉公園があるが、正信は、兄の代官としてこのあたりに舘を造り住んでいたという。この地には清水が湧き出で、この清水で継信、忠信兄弟は産湯を使ったと伝えられている。
この公園のそばに常信庵がある。継信、忠信の母は、兄弟がともに義経のために忠死した後、世をはかなんで仏門に入り、常信なる小庵に入り、兄弟の冥福を祈ったといわれ、その法名が梅唇尼であったという。ちなみに「常信」は先に歿した夫正信の戒名からとったものといわれる。庵入口の石柱には「源九郎判官義経公接待遺蹟」と刻まれており、本曲の舞台であることを偲ばせる。
梅唇尼は歿後常信庵に埋葬されたが、900余年を経た明治24年常信庵墓地整理の折、図らずも一体のミイラが発見された。その墓所に梅唇尼と刻した小石塔が埋められていたので、このミイラが同尼のものとされ、同寺屋内の厨子に安置し公開していたという。ところが現在では公開が中止されており拝観できなかった。

佐氏公園 佐氏公園 米沢市駅前 (平5.5)

常信庵 常信庵 米沢市駅前 (平5.5)

田村神社、甲冑堂、楓・初音の像  宮城県白石市斉川(平9・1記)

宮城県白石市に坂上田村麿を祭神とする田村神社があり、境内の甲冑堂なる建物の中にも、医王寺と同じような継信、忠信の妻たちの武者姿の像がある。ただ妻たちの名前が医王寺と異なっており、向かって右が継信の妻「楓」、左が忠信の妻「初音」となっている。

田村神社 田村神社 宮城県白石市斉川 (平7.6)

甲冑堂 甲冑堂 田村神社 (平7.6)

楓初音像 楓・初音の像 甲冑堂 (平7.6)

継信、忠信の墓   栃木県黒羽町寒井  (平9・1記)

那珂川の川のほとりの小高いところにある。老母が墓碑(継信の遺体ともいう)を牛車に乗せて郷里に向かう途中、ここで牛が倒れ角を折って死んだのでここに墓を祀ったという。
また、別の説ではこの墓を建立したのは、屋島の合戦で扇の的を射て名を得た那須与一の父、この地の地頭那須資隆であるという。資隆はすでに平泉の藤原氏や兄弟の父佐藤庄司元信とは交誼をもっていた。屋島の戦いで自分の子与一は大いに名を挙げたが、これにひきかえ継信は棟梁義経の身代わりとなり壮烈な戦死を遂げ、また弟忠信はこれまた吉野山で、その奮戦により義経を虎口から逃れさせたことなどから、佐藤兄弟に対する思い入れは少なからざるものがあったと推測される。大鳥城と遥かに離れた、この地に兄弟の供養塔を建て冥福を祈ったことは、兄弟に対する熱い思いが結実したものと考えられる。

継信忠信墓黒羽 継信・忠信の墓 栃木県黒羽町寒井 (平4.7)

継信、忠信の墓   長野市元善町 善光寺  (平9・1記)

兄弟の母梅唇尼は二人の死が諦めきれず、討死の屋島、京都を自ら弔うべく二人の遺児を同行し途中長野の善光寺へ詣り、二人の墓を建てたという。

兄弟墓善光寺 継信・忠信の墓 長野市 善光寺 (平5.8)

継信の墓、菊王丸の墓    高松市屋島東町 (平9・1記)

高松市の屋島の山頂から源平の古戦場を眺めることができる。往時は海だったところも現在は陸地となっており、古戦場の跡も高松市と牟礼町に広く分布している。継信関連の謡蹟を訪ねてみる。
継信のこの墓は継信の忠死を広く世人に知らせようと寛永20年(1643)に高松藩祖、松平頼重公が儒者岡部拙斎に命じて建てさせたものという。
近くには「菊王丸の墓」もある。菊王丸については曲中にも触れている。継信が大将義経の身代わりとして能登守教経の強弓に倒れた時、教経に仕えていた菊王丸は、継信に駆けより首を切り落とそうとしたが、そうはさせまいとする継信の弟忠信の弓によって倒された。菊王丸は教経に抱きかかえられ、自らの軍船に帰ったが息をひきとった。教経は菊王丸をあわれんでこの地に葬ったと伝えられる。

継信はか屋島 継信の墓 高松市屋島東町 (平6.9)

菊王丸墓 菊王丸の墓 高松市屋島東町 (平6.9)

洲崎寺、射落畠、継信の墓、佐藤継信顕彰の碑
           香川県牟礼町  (平9・1記)

牟礼町といっても前項の屋島東町と相引川ひとつで隔てられたところである。
洲崎寺は継信戦死のとき、この寺の扉に乗せて運び葬儀を営んだと伝えられ、継信ゆかりの武具などがあるという。
射落畠は継信が教経の強弓に射落された所で、大きな碑が建てられ立派に整備されている。近くには継信の墓や顕彰の碑がtある。

洲崎寺 洲崎寺 香川県牟礼町 (平6.9)

射落畠 射落畠 香川県牟礼町 (平6.9)

継信の墓牟礼町 継信の墓 香川県牟礼町 (平6.9)

継信顕彰碑 佐藤継信顕彰の碑 香川県牟礼町 (平6.9)


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